26-7 駿河 駿府 今川館~駿府の町
不意に目の疲れを感じて、眉間を揉んだ。
これはダメだ、視力が落ちる。
孫九郎は手を止めて、もはや日差しがかなり傾いていることに気づいた。
カタリと小さな音をたてて筆を置くと、すかさず弥太郎が白湯を運んできてくれる。
「これぐらいにておこうか」
一心不乱に書き物をしていた文官たちが、孫九郎の言葉にぱっと顔を上げた。
「たまには明るいうちに終わろう」
すでに社畜化している文官たちは、ほぼシフト制の武官に比べて延々と仕事をしようとする。
気持ちはわかるが、視力が落ちる。ブラックな勤務形態に、彼らの奥方がどう思っているかも心配だ。
奥平以外の文官たちが、うれしそうな顔で後片付けをして下がっていく。
明るいうちとはいえ、日が長くなっている季節なので、たぶん時間的には早すぎるということもないのに。
「……その方は帰らないのか」
「いえ」
やけにもたもたと書類をまとめる奥平は妻帯者だ。
「帰りたくない事情でもあるのか?」
年少の小姓たちがまじめな顔で文机を移動させる。そのうちの一人が噴き出す気配がして、「なんだ?」と目をやるが、彼はささっと下がってしまった。
気になって後で聞いたところによると、奥平の奥方は非常に怖いらしい。
いわゆるかかあ天下、鬼嫁だと有名だとか。
「奥方がしっかりしていてうらやましいことだ」
「本気でおっしゃってます?」
亭主関白よりかかあ天下のほうが家内がうまくいくとは聞くが?
土井はぶるりと身震いし、「そんないいものではなさそうです」と否定する。
孫九郎は濡れた手ぬぐいで墨の汚れを拭き、白湯に手を伸ばした。
「奥平が不幸だと思うか? 請われて娶った才女だときくが?」
「確かに美しい方ですが」
二年前には今川館の奥務めをしていた女官で、奥平の勇姿(?)にほれ込んで自分から口説いたのだそうだ。なかなかの女傑だと思う。
「そのほう、選り好みしているから嫁が決まらぬのではないか?」
「御屋形様のご正室が決まってから考えます」
その言い方は逃げだ。どれだけ年齢差があると思っている。
だがそういえば、孫九郎の側付きの妻帯率は相変わらず低い。孫九郎が駿府に落ち浮かず、あちらこちらに飛び回っているせいかもしれない。
少し反省しながら白湯を飲み干し、父はどうしているだろうとふと思った。
掛川に戻るのは松平の翁の件が片付いてからだとまだ駿府にいるが、父も戦で滅多に帰宅しない組だ。そのせいでお葉殿とうまくいかなくなっているのなら申し訳ない。
父のことを思い出すと、無性に会いたくなった。父だけではなく、幸松や幸ともだ。
そういえば、こっそり幸に会いに行くつもりだったなと思い出し、「よし」と腰を浮かせた。
「福島屋敷へ向かう」
「今からですか?」
「幸にだけ先触れを出してくれ」
孫九郎のそういう唐突さに慣れている周囲は、いつものことだと準備を始めたが、護衛の谷は渋い表情で「またですか」と苦情を言う。
護衛の立場としてはわかるが、ここはお子様のわがままだと辛抱してほしい。
お忍びは好きだ。
駿府の町の賑やかさが、包み込むようで心地よい。
いつでもどこでも注目されてしまう孫九郎にとって、護衛を引き連れてはいるが、誰も孫九郎を孫九郎と認識していない空間にいるのは楽でいい。
夕刻が近く、通りは仕事終わりの町人たちであふれかえっている。
この平和な空気が、孫九郎が守ってきたものだ。
賑やかな喧噪、子供たちの笑い声。何事もない日常の風景に、自然と口角が上がる。
福島屋敷は今川館からそれほど離れていない場所にある。
その一角には武家屋敷が並んでいて、町人たちが行き来しているのとはまた別の通りなのだが、孫九郎が町の様子を見るのが好きだと谷も気づいているのだろう。毎回違うルートではあるが、あえてそこを選んでくれている。
「新しい店ができていますよ!」
太い通りから一本入り、規模の小さな店が並ぶ通り。人が多すぎるので、横目で見るだけなのだが、そう気づいて声を上げたのは藤次郎の弟、三浦平助だ。
平助が指さすのはオープンカフェ形式の茶屋だった。いかにも甘味を提供しそうな外観をしているが、まだ菓子類は一般的ではない。町人向けの、白湯と軽食の提供だろう。
「この辺りも店が増えたな」
「そうですねぇ。佐吉が店を構えてからだと思います」
「あっ」
佐吉の名前がでたところで、大きな声が聞こえた。
反応したのは谷以外の数名。孫九郎の側付きとして同行している平助も身構えたが、声をかけてきたのは子供だった。
「お勝様?」
興国寺城で別れた佐吉の店の飛丸だ。
あのあと、孫九郎は甲斐に向かったので、この子のことをすっかり忘れていた。
興国寺城で待てと佐吉に言われていたが、思いのほか長丁場になりそうなので、先に駿府に戻ることになったらしい。
「……つまり、店のほうには佐吉の指示が届いていると?」
「はい」
平助が見つけた茶屋に入り、目立たない席で並んで座りながら、粟餅をほお張りながらの会話だ。毒見? 出先でのイレギュラーな行動だから大丈夫。
孫九郎は、ほのかな甘みの黄色い餅を堪能しながら、しばらく思案した。
考えてみれば、佐吉は忍びだ。今川の忍び衆を使わずに連絡を取る方法があって当然だ。店の者にも忍びが多いだろう。飛丸は孫九郎があっせんした子なので違うだろうが。
「……もしかすると、いずれ頼むこともあるやもしれぬ」
「旦那様に御用がおありでしたら、承ります」
比較的年齢が行ってからの奉公なのに、仕草も言葉遣いも丁寧にしようと頑張っている。
飛丸のやる気に満ち溢れた顔を見て、孫九郎はニコリとほほ笑んだ。
「今はよい。それよりも……粟餅が気に入ったようだな?」
「はいっ、初めて食べましたがうまい、いやおいしいです」
赤らんだ顔でそういう飛丸は、もとは農民の戦争孤児だ。間食でなにかを食べることなどなかったのだろう。
店主を呼んで、飛丸が受け取りやすい小さな包みにしてもらった。
幸と幸松への手土産にも丁度良い。




