26-4 駿河 駿府近郊 谷津山
会う、といっても、まずこちらの使者が松平宗家の本拠地、安祥城に行くまでにも五日はかかる。
どこで会うかの問題があるが、現状孫九郎は仕事が山積みで駿府を離れることができないので、翁の方にてもらうことになるだろう。
書簡が届くまでに五日、翁が駿府に到着するまでに五日……いや即日来る判断を下したとしても、準備を入れればさらに何日かは余分に見ておくべきだ。
つまり会えるのは半月先になるだろう。
多忙な孫九郎はその間もみっちりと仕事漬けで、たまりにたまった雑務と案件の処理に忙しかった。
甲斐の水害は駿河にまで被害を広げていた。とはいえ想定内で、二年前ほどの甚大なものではない。
帰還した田所兄によると、富士川の渡しを含め川沿いはすべて水浸しだそうだが、もともと人は少ないので被害も限定的だそうだ。
今年の川の氾濫で、駿河衆の目論見も大きくそがれ、振出しに戻った。
張り切って仕事にとりかかろうとしていた田所には残念な結果だが、孫九郎にしてみれば、厄介ごとが大きくなる前に自滅してくれてよかったと思う。
まだ諦めないようなら、代わりの領主を見繕ってもいい。
とはいえ水害が多い地域なので、それ込みの委任になるから、ある程度の治水の目途が立ってからになるだろうが。
その間は泳がせておく。
何かやろうとするたびに氾濫に押し流されるのを、楽しんで見ているわけではないぞ。
「けっ」と、表立って出してはいけない声を発したのは勘助だ。
「ようおっしゃいますな」
片足が義足の勘助は、二年前よりは巧みに歩くようになっていた。木の義足からどうしてもぎこちないし、歩くたびにゴツゴツと重い音を立てるが、孫九郎の歩速と同程度だ。
「さよう、御屋形様は意外と意地がお悪い」
そうか? そんなことはないだろう。
不服そうな孫九郎を見て、承菊が軽やかに「ふふふ」と含み笑う。
意外なことだが、勘助と承菊の相性は悪くないようだ。勘助の気質から仲良くとまではいかないが、少なくとも二木に向けるような全面的な険悪さはない。
「おお、ここだ」
しばらくして勘助が、見晴らしのいい高台に立って頷いた。
ここは今川館の東側にある小さな山で、駿府が一望できるのだ。賤機山城もはっきりと見える。
今日は、改めて今川館の縄張りについての相談のために少人数で散歩に来ていた。
勘助が躑躅ヶ崎館の縄張り図を参考に、ざっと考えてくれたのは、多重に堀をつくり水を引く大規模な城だ。
予算を度外視しての「俺の考えた一番強い城」なのだろうが、これを見て孫九郎の脳裏に過ったのは駿府城だ。
そうだよな。何十年後かに、ここは徳川家康の隠居城になるのだ。
おぼろげな記憶によみがえってくるのは、いつかに見た大河ドラマか特集番組かで映し出された駿府城の映像だ。立派な石組みの城壁と白い漆喰の壁、広い大きな堀があった。
その程度しか覚えていないことに悔しさを覚えつつ、勘助の説明に頷きながら試案の図を見下ろす。
「安部川の水を引いて、堀を作るというのは良い案ですね」
承菊が眼下の街並みを見下ろしながらうっとりとした口調で言った。
いまいち何を考えているかわからない男ではあるが、承菊は二年をかけて韮山城をあれだけの要塞にした。城の構造については一言ある男だ。
孫九郎は図面と実際の風景とを見比べながら首を傾げた。
「堀を作っても、川が暴れるたびに埋まりそうだが」
「堤で駿府の街を覆いますか?」
「ここにだけ銭をかけることはできぬ」
毎年被害が出ている場所があるのだ。堤をつくって治水工事をするならそちらが先だ。
しばらく全員が無言で駿府を見下ろしていたが、ややあって承菊が再び口を開いた。
「ここにこそかけるべきではないでしょうか」
「某も同意します」
孫九郎は、ちらりと曲者たちに目をやった。
彼らはふたりとも孫九郎を見てはいなかった。じっと駿府の街並みを見下ろし、その表情は普段よりも多めに陽光を浴びて明るく見える。
まるでおもちゃを与えられた子供のようだ。
えげつない策を考える奴らの、意外に楽しげな様子に、孫九郎は気づかれないように小さく笑った。
「駿府は今川の本拠地です。要の地です。誰もが一目でわかる固い守りにするのは、重要なことかと存じます」
「さよう。いつまでも川が暴れるたびに避難してはおれませぬ」
二人が口々にそう言って、ぐりんとそろって首を巡らせて振り返った。
孫九郎はさっと真顔を取り繕って図面に目を戻す。
それはそうだ。
駿府は、今川館ができるはるか前から駿河の国府だった。この地を守ることは孫九郎にとって、いや今川家にとって威信にかかわる重要なことだ。
川が氾濫を起こすたびに、パニックになって館中から人が逃げ出す様子は、さすがに「威信」を下げる。
だが同時に、威信程度にかまかけて、国の統治をおろそかにはできないとも思う。
「威信」では腹すら膨れない。限られた予算は、必要なところに割り振りたい。
「もう少し考える」
ああ、もっと資金があればな。今川家は比較的豊かではあるが、金銀があふれる財布を持っているわけではない。
毎年の収入と支出のバランスは結構ギリギリで、それゆえに新しい産業を模索している。
手ごたえはあるのだが、まだ二年目なので芽吹き始めたところだ。
「堤か」
孫九郎は、安部川がある方向に目を向けた。
あれだけ何度も教授のフィールドワークに同行していたのに、肝心の堤の構造をはっきり覚えていない事が悔しくてならない。
恵如の知る治水の工法を聞けば、なにかわかるだろうか。




