24-9 甲斐 躑躅ヶ崎館14
「お待ちを!」
鋭い声が大広間に響き渡った。敵意に満ちた空気を切り裂くようなその声に、場の者たちが一斉に大井殿の方へ目を向ける。
孫九郎もまた、強い決意を込めたその表情をじっと見据えた。
大井殿は集まった国人衆の最前列にいて、それはつまり筆頭、武田家おける一門衆としての立場で発言している。
すべての責任を背負うつもりか。
あるいは、この機に甲斐を束ねる地位に躍り出る気か。
大井殿は静かに両手を膝の前についた。その姿には怒りや動揺の色は見えない。むしろ長年の経験から来る威厳と覚悟が漂っている。
彼は深く息を吸い込み、孫九郎の前で深々と頭を垂れた。
「国人衆の不遜な態度、まことに申し訳ございません」
静まり返った大広間に、大井殿のしわがれた声が響く。
「甲斐がこのような有様に陥りましたこと、すべては我らの力量不足によるものにございます。武田家をお守りする立場にありながら、その名を危うくした罪、弁解の余地もございません」
その声には力強さがありながらも、深い悲しみと自責の念も感じられた。
大井殿は一拍置いてから、さらに深く深く頭を下げた。
「幼き我が主君をお預かりいただき、その命をお守りくださっていること、ご厚情に感謝する他ありません。一方で、この場で無様な振る舞いを見せ、治部大輔様に刃を向けんばかりの態度を取っていること、某が代わりにお詫び申し上げます」
これが芝居なら大したものだ。いや芝居であろうがなかろうが、ここまで堂々と言い放つ度胸は認めざるを得ない。
本人も自覚しているだろう。これは武田殿の代わりに全責任を負わされる覚悟があると言ったも同然だ。
広間は凍りついたように静まり返り、息を飲む音すら聞こえない。
いや本心では、無様だと言われた者たちの感情は逆なでされていただろうが、死を天秤にかけた覚悟に飲まれていた。
大井殿はゆっくりと顔を上げた。
「ですが、どうかお汲み取りいただきたい。この者たちの不遜な態度は、武田家を守りきれなかった己への怒りでもあります。彼らもまた、甲斐国人の根底を揺るがされ、もがいております」
孫九郎は無表情のまま、顔を上げた大井殿の目を見返した。その瞳の真摯さに、嘘や欺瞞は感じられない。
場の空気が張り詰めたまま、大井殿は最後の言葉を紡いだ。
「幼き我が殿と甲斐の地にご慈悲を。この大井の命に代えまして、武田家の存続を……どうか」
再び深く頭を下げる大井殿。勢い余って板の間に額がぶつかり、ゴツンと鈍い音がする。
誰一人として口を開く者はいなかった。
幾度かゴツンゴツンと額をぶつける音だけが響く。
その姿を目にした甲斐の国人衆が、狼狽したような、きまり悪いような表情で視線を泳がせる。
孫九郎は手で扇子をもてあそびながら、冷静にその様子を眺めていた。
この場にいる者たちほど、大井殿の演説に感銘を受けてはいない。
ただ、うまいとは思った。状況がわかっていない国人衆に現実を見せつけ、生き残るためには命がけで請わねばならないのだと突きつけた。……ように見せかけて、しれっと国人衆をまとめて「武田家のために戦うものたち」だと称し、誰にもそれを否定させない。
実にうまい。
これで勝手に離反などすれば、裏切り者のそしりを受けるだろう。
集まっている国人衆もそのことを察したらしく、互いに「どうする」と探るように視線を交わし合っている。
孫九郎はじっと大井殿を見据えたまま、扇子をゆっくりと閉じた。
パチリと乾いたその音が、広間の緊迫感を一層際立たせた。
「……なるほど。まあよかろう」
まったくよくはないのだが、この手の老練さとまともに張り合うべきではない。
孫九郎は少しの間次の言葉を迷い、小さく首を傾けてから続けた。
「その方が心から甲斐を案じ、今なお武田家を支えようとしていることはようわかった」
いちおう、流れに乗って持ち上げておく。
「大井」
あえて敬称をつけず、呼び捨てにする。
「命をかける覚悟があるということでよいな」
幾人かがぎょっとしたように孫九郎を見る。
うがった見方をすれば、この場にいる全員に「命を懸ける覚悟」を問うたようなものだ。
だが大井殿本人は表情を変えず、「はい」と毅然とした態度で頷く。
「武田家の存続か」
孫九郎は考え込むふりをして、視線を泳がせた。
一見、その場で熟考しているようにも見えただろう。だがもちろん、これは根回しした通りの展開だ。
「条件はいくつかある」
その声の微妙なニュアンスに、顔色を悪くする者がちらほら。
どんな無理難題が突きつけられるか想像してしまったのだろう。
「だが、すり合わせが必要だな」
広間中の視線が孫九郎に集中する。何を言われるかと身構えている連中は、すべて大井殿の誘導だとは気づいていないのだろう。
力をそがれた武田など見捨てようとしていた者もいたはずだ。そんな危機的状況をなかったことにして、バラバラになりかけた甲斐国人衆をうまいことまとめやがった。
「よかろう、大井。話の続きは別室で聞こう。ここで全員の耳に入れるべきではない話もある故な」
例えば……武田殿の行く末とか。山内上杉家との密約内容とか。
大井殿にとって、「武田家の存続に命を懸ける」=「武田殿に忠義を尽くす」ではないのが何とも言えない。
「太郎殿についても、この先をどうするか慎重に話を進める必要がある。いずれにせよ幼き身に重荷を背負わせるならば、それを支える大井、そして甲斐衆の覚悟が必須だ」
一拍置いて、あえて扇子をパチリと音を立てて開け閉めしてから続けた。
「こちらも時間をかけて考えねばならぬ。……甲斐の行く末をな」
表向きには冷淡さを保ちながらも、融和の糸口を絶やさないような含みを持たせた。
大井殿は孫九郎の意図を察したのだろう、わずかに安堵した表情で頭を下げた。
「お心遣い痛み入ります。必ずや誠意をもって対応させていただきます」
孫九郎はそれ以上は何も言わず、立ち上がった。
退室する背中に、甲斐衆の無遠慮な視線が突き刺さってくる。
だがその色は敵意から、不安と戸惑いへと変わっていた。




