22-6 甲斐 韮崎 飯富屋敷5
彼らがどういう結論を出そうとも、孫九郎のするべきことはさして変わらない。
果たして飯富家はどう動くのか、上座から黙って見守る。
上野の方は相変わらず青白い顔でふるふると震え、なつめ殿は呆然と目を見開き、彼女たちを守るように座っている重臣は表情を押し殺して唇を引き結んでいる。
それぞれが思うことがあるだろうが、決定を下すのは上野の方だ。
彼女は細かく震える手を膝の上に戻した。
血の気を失った顔、潤んだ大きな目。ちょっとこれは荷が重いか? そう危惧したが、持ちこたえた。
「……わたくしの覚悟が足りなかったようです」
ぽつりとこぼれた声は小さく、ともすれば頼りなげに揺れていたが、再び孫九郎を見つめた目に涙はなかった。
彼女が家門と我が子を守るために、決断を下したのがわかった。
しばらく時間をかけて話をして、飯富衆は韮崎から落ち延びることに決まった。
上野の方の手はずっと拳のままで、自身を必死で鼓舞しているのがわかる。
「殿は死にませぬ。必ず我らを迎えに来てくださいます」
それは祈りか、確信か。
彼女の宣言を聞き、孫九郎は「そうか」と返した。
飯富殿の身柄は預かるが、生き延びることができるかはわからない。そう告げると、じっと大きな目が孫九郎を見て、青白い顔を上下させる。
「我が殿をあのような目に遭わせたのは、武田の御屋形様でございます」
「その言葉は他所には漏らすな」
小声の忠告に、上野の方はふっと息を吐き、にこりと微笑んだ。
憎しみや恨み、この世の不条理を飲み下した、柔らかな微笑だ。
「大井に……いいえ、わたくしに機会を下さり、感謝しております」
柔らかでにこやかな微笑の仮面の下にあるのは、武家の女の顔。
「なつめ様と、ここにいる武藤をお連れ下さい。お役に立てます」
「御方様!」
「必ず父を焚き付け、若君を旗頭に立たせます」
子を産んだばかりの非力な女性の言葉とは思えない、強い決意と怨嗟がこもった口調だった。
「踏みにじり、切り捨てようとした女に踊らされる……さぞ見ものでございましょう」
忠義を尽くした主君だったはずだ。信じていた家族だったはずだ。彼女はその両方から裏切られたと強く感じていて、その恨みを必ず晴らすと言ったのだ。
この決意を否定することは、誰にもできない。
重臣武藤も、なつめ殿も、何をどう言えばいいのかわからない様子で息を飲んでいる。
孫九郎はパチリ、と扇子を鳴らした。
「良い覚悟だ。ならばこちらももうひとつ手を貸そう。……藤次郎」
「……はい」
少し間を置いて、藤次郎が返事をした。
「例の書簡を」
興国寺城に派遣された使者団が、停戦交渉中に奇襲をかけて本丸を攻めようとした。その証言を書かせたものだ。武田殿が信義に欠ける人物だという証拠になると持って来ていた。
工藤の直筆ではあるが、偽物と言われても仕方がない酷い内容だ。
藤次郎は渋々という風に懐に手を入れ、少ししわになったその書簡を取り出した。
孫九郎がいずれ武田殿を討つ際の、攻め入る格好の口実になると持って来させていたのだ。
だが、どうしても必要なものではない。上野の方のほうがうまく使うだろう。
「……これは」
上野の方は書面を一読して、表情を険しくした。
「間違ってもすぐに使うな。大井殿には気づかれぬよう……その書面にある家の者たちに話を持って行け」
「生きておいでなのですか」
「本丸に攻め入った三尾をはじめその配下らは討ち取った。だが板垣も工藤も生きている」
「生きて返して下さるのですか」
「本人らが大人しくしている限りは」
彼女がこの書簡をどう使うつもりかはわからない。工藤板垣の両家を脅す材料にも、味方に引き入れる材料にもなる。あるいは、武田殿が当主たる資質に欠けると告発する手段としても使える。
お手並み拝見だ。
「どうやって手に入れたのかと疑われかねない故に、扱いには注意することだ」
上野の方は大きく息を吸って吐いた。数十秒の間の後、俯けていた顔をゆっくりと上げる。
その人形のような端正な顔立ちに、先程までの強い感情の揺らぎはなかった。
「過分なご配慮、まことにありがたく存じます」
一度しっかりこちらと視線を合わせてから、美しい所作で孫九郎に向かって深々と頭を下げる。
「いつか必ず御恩を返させて頂きます」
やがて再び上げたその顔は、美しく華やかな満面の笑顔に彩られていた。
彼女は確かに非力な女性だが、その精神の根底にあるのは甲斐武士の強壮さだった。
勝利を掴むために戦える女、笑って死地に向かえる女だ。
昼過ぎになって、望月殿からの追加の返書が来た。
早くも国境に向かって出立したそうだ。到着は日暮れ前になるとか。いつでも戦いの準備は出来ているなどと、勇ましく宣言している。
力強い筆跡の、「いつでも」という文言に一抹の不安が過った。
いつでも? 国境を越えることに何の逡巡もないその様子に、許容範囲を超える無理をしているのではないかと心配になった。
望月家は、単体としてはそれほど大きな勢力ではない。今回も、おそらくは佐久衆を取りまとめての派兵だろう。
いまこそ怨敵武田を討つ好機と思うのは理解できるが、意気だけ高くても結果はついてこない。
そんな孫九郎の独白を聞いて、苦笑したのは藤次郎だ。
「いいところを見せる格好の機会です。念には念を入れ、後れをとることはないでしょう」
いい所を見せたい気持ちはわからなくはない。
対武田で目覚ましい武勲を立てれば、佐久衆の中でもとびぬけた盟主となり得るからだ。
「いえ、そうではなく……」
藤次郎は言葉を切った。ガタリと大きな音を立てて、土井が部屋の襖を開けたからだ。
「武田軍に動きが!」
孫九郎の周囲の者たちが腰を浮かせた。
諏訪の状況に気づいたらしい武田軍が、国境に向けて兵を動かすようだ。
韮崎の町中にいた兵たちもその中に組み込まれることになり、慌ただしく出立する準備にかかっているそうだ。
孫九郎はちらりと外を見た。太陽はすでに中天より傾いている。ここから国境までは半日、つまり到着するのは夜になってからだ。望月殿に知らせた方がいいだろう。それから……
「上野の方にすぐにも出立をと」
命じられて、はっと息を飲んだのは武藤だ。
「猶予はないぞ。ここにとどまっていたら、兵糧の足しにと襲撃を受けるやもしれぬ」
良かれと思って送った兵糧だが、今となっては飯富家にとっての重荷だ。蜜を求め蟻どもが寄ってくる。
武藤は挨拶もそこそこに、こわばった表情で部屋を飛び出して行った。
ようやく用心深い監視の目が外れてほっとする。
「藤次郎」
「はい」
「飯富家が置いて行くのなら、その兵糧は我らが接収してもよいだろうか」
気色ばんで立ち上がりかけていた男たちが、ぎょっとしたように孫九郎を見る。
しばらくして、藤次郎が引きつったような笑い声をあげた。
「……よろしいのではないでしょうか」
妙な反応をするな。これを意図して大量の兵糧を送ったわけではないぞ。
まあ一応、飯富家には気づかれないように回収するけど。
回収回収w




