22-3 甲斐 韮崎 飯富屋敷2
孫九郎が更に口を開こうとしたその時、ガタリと背後で物音がした。
静まり返っていた空気が一気に動き出す。揉めているようだが、孫九郎の位置からは見えない。
居並ぶ飯富衆らを押しのけ、孫九郎の前に飛び出してきたのは、小袖の着流しを身にまとった大柄な男だった。
止めようとする者たちを引きずりながら素足で土間に降り立って、両腕を広げ、跪くふたりを庇うように立ち塞がった。
血走った目、甘いような酸っぱいような、怪我人独特の臭い。緩めた着物の端から、巻き付けられたサラシが見える。怪我人……つまりは飯富殿ご本人だ。
だが、数か月前に出会った時とは面相が違った。
あて布を当てられていてもなお、一回り大きく顔が腫れあがっているのがわかる。しかも一か所だけではなく、顔全体だ。
他にもサラシが覆っているのは腕と足と……いったいどれほど切り付けられたのか。
奇跡の生還に違いない。生きているのが不思議なほどだ。
だがそんな身体で奥から走って来たのか? 安静にしていないと治るものも治らないぞ。
両腕を広げた飯富殿の全身が震えている。やはりまだ起き上がることができる容体ではないのだろう。
「……一別以来だな」
健勝かとはとても聞けない。孫九郎はそう声を掛け、首を傾けた。
ひゅっひゅっと呼気が漏れる音がする。
返事を期待していたわけではないが、このまま泡を吹いてひっくり返りそうだ。
「殿!」
膝をついていた上野の方となつめ殿が、仁王立ちのまま真後ろに傾いた飯富殿の身体を支えた。
支えられてなんとか立っている飯富殿が、死人のような顔色で、目だけを血走らせて喘ぐ。
孫九郎は真ん前にいる谷の肩を押して、立ち上がった。
革足袋の中で足の先がしびれるように痛む。だが平常心。平常心だ。飯富殿の苦痛に比べれば何という事はない。
足を踏み出すと、飯富殿の血走った目がぎょろりと動いた。
きっと妻と妹を守るために孫九郎を遠ざけたいのだろう。だが震える腕はそれ以上動かず、力つきる寸前の獣のような声がその場に響いた。
一歩、二歩……あと一歩踏み出せば手が届く。
飯富殿の顔色がとんでもない色になってきた。赤黒いを通り越して青白く、ますます死人のようだ。
孫九郎が近づくにつれ、どんどん斜め後方に倒れそうになっていたのだが、とうとうドシンと尻餅をついて沈んだ。なつめ殿はともかく、ぴたりと張り付くようにして支えていた上野の方が潰されそうだ。
孫九郎の手が伸びたその位置が、飯富殿の首あたりだったのは偶然だ。孫九郎はあくまでも、その傾いていく身体を支えようとしただけだ。
瀕死の男の首を絞める趣味などないので、そのまま肩を掴もうとしたのだが、何故か仰け反った口元に指が当たった。
目測を誤ったというよりは、飯富殿が尻餅をついたせいで位置が狂ったのだ。
さすがに怪我をしている場所はマズいと、微妙に軌道修正をして、孫九郎の大きくはない手が掴んだのは顎だった。
「……ぐっ」
重量がある飯富殿が後方に仰け反り、なおも倒れそうになったので、二人の女性が身体を支え、孫九郎もそれに手を貸す形になった。……無精ひげの浮いた顎を掴んで。
更に足りない分は左手で、その襟元を鷲掴みにして倒れ込むのを防いだ。
おかげで上野の方は潰されずに済んだ。
危なかった。
だが冷静に考えれば、酷い絵面だ。
年端も行かぬ子供が、この屋敷の主人及びその奥方を跪かせ、その顎をわしづかみにしているのだ。
今すぐにでも手を放したかった。何が楽しくて、野郎の髭面を掴まなければならないのだ。
上野の方となつめ殿を潰すわけにもいかないし、怪我人を突き飛ばすわけにもいかない。
結局は、倒れるなら前向きにしろよと、ぐいと襟元を手前に引いた。
孫九郎の顔と、当て布を山ほど付けた顔が、触れそうなほど近くなる。
真っ赤な目が瞬きもせず孫九郎をただ見ている。焦点が合っているようで合っていない。……大丈夫か? ひどい熱じゃないか。
「死ぬか」
間違えた。「死にたいのか」と聞きたかったのだ。こんな容体で走ってくるなど自殺行為だ。
「う、う」
限界なのだろう、次第に飯富殿の身体から力が抜けていく。いや重い。
「このようなところで」
いやだって、ここは厨の土間だからね。足元は濯ぎの水でびしょ濡れだし。
「お勝様!」
なつめ殿が叫んだ。
「ご勘弁ください! 愚兄は何も考えておらぬのです!」
いや、妻と妹を守ろうとしたんだよ。……悪辣な今川治部大輔から。
意識を失った飯富殿を、家臣たちが運んでいく。
怪我をして十日近くはたっているだろうに、まだ熱が下がらないのはよくない。
「弥太郎」
「はい」
「あとで医者に容体を聞いて参れ」
再び上がり框の上に座った孫九郎の足元に、弥太郎が盥を持って膝をつく。
「あと、余計なネズミが入り込んでいるようだ」
あの体調の飯富殿が、独力でここにくるのは難しいだろう。誰かが手を貸している。あわよくばその死を望んで。とめようとしていた家臣のうちの誰かだろう。
そうなってくれば、なつめ殿が「お勝」と呼んだのは正解だ。
孫九郎がここにいる事を知られるのは、まだ早い。
そっと革足袋が脱がされると、ピリリと指先が痛んだ。すっと冷たい弥太郎の手が足裏に触れる。
見たくはないがどうなっているのか横目で確かめて、けっこう大きな血豆になっているなとため息をついた。
「潰せ。動けぬようでは困る」
血豆を潰すのはリスクがあるが、思わぬ時に潰れて大出血しても困る。
弥太郎なら焼いた針できれいに血を抜いて、消毒もしてくれるだろう。
思わずため息がこぼれた。
気に入らない要因が多すぎる。いっそ望月殿と話をする前に韮崎を落としておくか? 千の兵がいれば、あの酔っ払いどもを追い払うなど容易い。
ただ……大挙して押し寄せてくる武田軍の相手をしなければならない。
やはりあと一日待つべきだな。
父との約束の六日目は明日の朝だ。それまでに一度望月殿たちと話をしておきたいし……やはり血豆の心配をしている場合ではないな。




