20-10 駿東 富士川 材木所3
山内上杉家? どういう意味だ? そう尋ねようとした瞬間、野太い声が上がった。
何が起こったか孫九郎にはわからなかった。一瞬にして側にいた父の巨躯が視界を塞いだからだ。
「……毒か」
そう言った田所の姿は見えなかった。
寸前までいた場所にはおらず、その背後にいたなつめ殿がぎょっと目を剥いている。
父の肩を越しに首を出し、目にしたものに、孫九郎もまた似たような表情になった。
獣のような唸り声。ごぼごぼという湿った音。
いつの間にか木野屋の背後に立っていた田所兄が、その口に素手を突っ込んでいた。指などという可愛らしいものではなく拳ひとつ。さながら素手で舌を掴んで引っこ抜くような感じで。
木野屋は咥内に毒でも仕込んでいたのだろう。だとすれば、手を突っ込むのは危ないんじゃないか? ……いや、拳ごと突っ込まれたら顎が外れる。歯など立てられない。
田所は、気持ち悪いほど落ち着き払って、中年男の口の中をまさぐった。ごぎゅりと、とても文字では表現しきれない湿った音を立てながら。
ゴキリゴキリと聞こえるのは歯が折れた音か、顎が外れた音か。
やがて水っぽくえずく声。ぼたぼたと滴る唾液に交じるのは血だ。
田所が、顔色の悪い細面に、しばらく目に焼き付いて離れないような笑みを浮かべ囁いた。
「汚いもので御前をよごすな」
たとえ味方だろうとも、十人中九人は逃げ腰になるに違いない楽し気な笑みだ。
親切な田所が手ぬぐいを丸めて、滴り続ける唾液と血を止める。……真っ赤に染まった咥内に突っ込んだだけだが。
「木野屋がどこぞの間者なのは間違いないようです」
まあ、追及を恐れて毒を飲もうとしたぐらいだから、そうなのだろう。
孫九郎は父の肩に手を置き、前に出た。
とっさに止めようとされたのを、ぐいと強めに押し返す。
目が合って、大丈夫かという風に覗き込まれる。
いつまでたっても子ども扱いしてくることに、くすぐったい気持ちになるのは、孫九郎が本当の意味での十歳ではないからだろう。
「死なせるな。貴重な尻尾だ」
孫九郎は父の真横に立ち、おざなりに頭を下げた田所に頷きを返した。
もうひとり、話を聞かなければいけない相手がいるが、ここではまずい。
いや、別に構わないのかもしれないが、まだ木野屋やその息子らがいる場所で話すことでもないだろう。
孫九郎はなつめ殿に視線を向けてから、奥の部屋に誘った。
やがておずおずと姿を見せたなつめ殿は、神妙な表情で敷居の手前で両膝をついた。きょろきょろと視線を動かして、この場に孫九郎と数人の護衛しかいないことに不安そうな顔をしている。
「入られよ」
「……あ、あの」
「じき田所が戻ってくる。それまでに、あの男に言うたことをそのまま教えてくれ」
「護衛が少なすぎるのでは……あっ、申し訳」
孫九郎がクスリと笑うのを見て、ますます焦った様子で両手を上げる。
「いや、独り身の若い女子が、むさくるしい男と同室にいたくないのはわかる」
「ちちち違います!」
「見張らせておる故、襖は開けたままでよい。中に」
なつめ殿が恐る恐る部屋に入ってきた。その真後ろに、警戒のために谷が座る。
彼女はびくりと身を引かせたが、恐れている風ではなかった。
「木野屋が山内上杉の手の者だと何故知っている?」
なつめ殿は孫九郎の問いかけにひとつ頷いた。
「……はい。二年ほど前に愚兄のもとへ来たことがあるのです」
「飯富殿の?」
山内上杉家の手の者が飯富家に来る。……非常にきな臭い。
「縁談です……わたくしの。破談になりましたが」
飯富家の妹姫を娶ろうとした? 武田の外堀を埋めようとしたのだろうか。
孫九郎はさっと思案を巡らせて、改めてなつめ殿に向き直った。
何故破談になったのかと問うてもいいものか。いやそれよりも、先の信濃侵攻よりもかなり前から、山内上杉家が武田の調略を進めていたことのほうを気にするべきだろう。
「婚姻の申し込みに商人を通すとは。飯富殿はさぞお怒りだっただろう」
「わたくしはこのような見目でございます。兄は常日頃から嫁ぎ先をさがしておりましたが、武田家家中ではお相手は見つからず……義姉が激怒してくださらねば、愚兄は詳しい話も聞かずに頷いていたやもしれませぬ」
つまり、義理の姉が気づかず話が進んでいれば、武田の敵国に嫁に行っていたかもしれない?
あの武田殿が許すとは思えないが。
「……御屋形様にこの事を知られていれば、もっとは早うに手打ちになっていたでしょう」
なつめ殿がいう「御屋形様」とは武田殿の事だ。
孫九郎は脇息に肘を預け、なつめ殿がずっと「愚兄」「愚兄」と繰り返している理由を察した。
「考え無しなのです」
眉間にギュッとしわをよせ、忌々し気に吐き捨てる口調はそっけないが、その表情の裏には手のかかる兄への愛情が垣間見える。
情の深いいい子じゃないか。
確かに、この時代の女性にしては背が高すぎるし、それが縁遠さの原因かもしれないが、どちらかというと整った容貌の美人の部類だ。嫁入り先がないのなら、ぜひうちに……
「失礼いたします」
開け放たれた襖の向こう側から田所の声がした。相変わらず白味の強い着物を着た男が、衣擦れの男も足音もなく部屋に入ってくる。
谷となつめ殿が素早く左右に分かれて部屋の隅に座った。
田所はしっかりとなつめ殿を目で追って、彼女が強張った表情で顔を伏せるまでじーっと見つめてからこちらを向いた。
やめなさい。女の子をそう脅すもんじゃないよ。
「どうだ」
孫九郎が問うと、田所はうっすらと唇をほころばせた。
「毒や暗器の類は取り上げました。自死できぬよう目を配っております」
「息子の方が早うに口を割るのではないか」
庭先にいた男のほうが、扱いやすい印象だった。
田所は頷き、パンと手を叩いた。
今度はしっかり足音がして、三人の男たちが廊下に座る。
「この者たちに町人達を尋問させました。わりとすぐにわかりました」
いや、お前ら町に到着してまだ半刻ほどだろう。仕事が早すぎる。
彼らの口からもたらされた報告に、ずきずきと頭が痛くなってきた。
何故なら、ここに町を作る許可を出したのは、浮嶋城にいた駿河衆だというのだ。
「しっかりと調べを進め、しかるべき処理をせよ」
「しかるべき処理とは? どの程度までをお考えでしょう」
駿河衆が勝手に伊豆へ攻め込んだのが一度、先日の瀬名の騒動が二度目、今度で三度目だ。駿河衆というくくりはあまりにも大きすぎるかもしれないが、ここで甘い顔をすれば連中を増長させるだけだろう。
「捕縛。隔離。尋問」
孫九郎は端的にそう言って、ぐりぐりと眉間を揉んだ。
「吐き出せるだけ吐き出させろ」
そうだな、ちょうど富士川の対岸に千の兵がいる。連中を甲斐には向かわせず、駿河衆への対応を任せよう。




