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春暁記  作者: 槐
駿東編

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20-2 駿東 興国寺~浮嶋城

 生い茂る草原を、黄金の輝きがまるで波のように走る。

 ところどころにある木立ちは濃い影を落とし、半ば紫色に染まった空が、夕暮れの美しいグラデーションを作っている。

 周囲は夜の色を纏い始めているのに、日没間近の太陽だけが強烈な輝きを放っていた。

「眩い」

 孫九郎が呟くと、ぶ厚い父の手が目の前に影を作る。

 美しいこの情景をもっと見ていたかったのだが……

 父の手は大きい。孫九郎が両手でつかんでもつかみ切れないぐらいだ。

 いつかこんな大きな手の持ち主になれるのだろうか。

 諦めきれない願望に溜息をつきつつ、片腕で巧みに手綱を操る父に笑顔を向けた。

「そろそろ休憩ですか?」

「いや、浮嶋城に入り、そこで一泊だ」

 富士川まで一気に進み、二日で国境にたどり着く予定だった。そのつもりで、歩兵も交じる軍にしては異例のスピードで移動していた。

 だが、浮嶋城といえば吉原宿だ。せいぜい行程の三分の一しかこなせていない。

 それに、城に入れば時間を取られるから避けると言っていなかったか?

 父が目を細めもせず太陽の方角を見ているので、そちらに何かがあるのかと視線を向けてみるが、さっぱりわからない。

 むしろ陽光をまじまじと見てしまい目の奥がシクシクと痛んだ。

 何を思って予定を変えたのか……例の追っ手が原因か?

 それとも、興国寺城に引き返す可能性を考えているのかもしれない。

「まだいるのですか?」

「つかず離れずだな」

 父の返答に「そうですか」と頷きを返し、目を閉ざしてもなお瞼の裏に残る陽光に眉間を揉んだ。

「国境に近づく前に、片をつけてしまいましょう」

「だが、まだ素性が分らぬ」

 それは直接聞けばいいんじゃないか? ……正直に答えるとは言い切れないが。

 孫九郎は肩を竦めた。

「では浮嶋城に招きましょう。用があるなら承知するでしょう」

 首を傾けて少し思案して。

「用件は父上と朝比奈殿で聞いてください。くれぐれも喧嘩腰は駄目ですよ」

 孫九郎は出ない方がいい。そもそも興国寺城にいることになっているし。

 海からの風がさらさらと草を靡かせる。遠くの海に沈む太陽が、目に見えてその輝きを減らしていく。

「夜が来ます」

 孫九郎のつぶやきはに、父が「そうだな」と頷いた。

 

 浮嶋城は、吉原宿の南側にある。城下町というには少し距離があるが、それは街道と築城に適した場所との距離の問題だろう。

 そう、ここは富士川が作る湿地帯の一部なのだ。中でも比較的地盤が安定している場所に浮嶋城はあるというが、それでも、これだけまわりが葦の原だらけでは水害に弱そうだ。

 そもそも、浮嶋という名称自体が水場に近い地域なのだと告げている。

 そんなところに城を築いても、水害の被害を負うだけだと思うだろう?

 だがそのリスクの反面、敵は湿地帯を避けて進軍しようとするので、防衛に役立つという側面もあるのだ。

 実際、過去何度かこの辺りを通過したことはあるが、浮嶋城に立ち寄ったことはない。

 雨の多い季節などは特に、徒歩では近づけないそうだ。

 初めて見る浮嶋城は、まさに葦の原に浮いているように見えた。

 現代の建築技術があれば、深い杭を打てば何とかなるのかもしれないが、こんな場所によく建てたなと感心してしまう。

 もちろん石積みの城壁がある時代ではないので、平屋に櫓がいくつかあるだけの、まるで海賊の基地のようにも見えるが、これで本丸二の丸がきちんとある、れっきとした城だ。

 全員が馬を降りる。足元が悪いので、馬が怪我をしかねないからだ。

 荷台も人力で押さねば前に進めない。雨が降ったわけでもないのに、踏みしめた感触が柔らかい。これぞ湿地帯だ。

 ようやくたどり着いた城の正面、大手門と呼んでも良いのかわからない武骨な造りの門扉が、ギギギと軋みながら開いた。

 横にではなく、縦にだ。堀があるわけでもないのに跳ね板式の扉が開き、落ちる時に「よーい、よーい」と威勢のいい掛け声が響く。

 ばしゃん、と水を跳ねながら扉が開いた。

 その向こうから走り出てきたのは、見覚えのある駿河衆の若手だ。伊豆侵攻には加わらなかった……のか行きたくても行けなかったのかわからないが、一定数いる居残り組。

 いやこんなことを思うべきではないのだろう。今川家にとっておそらく最古参の家柄の者たちだ。

 彼らは孫九郎に気づいて驚愕の表情を浮かべたが、すぐにそれを飲み込んだ。


 遠目に、向かい合っている二組を見る。

 片方は父と朝比奈殿だ。もう片方の代表者は……少年? ずいぶんと華奢な若い男だ。

「……男ではありません」

 側で控える弥太郎が口を開く。

「あれは女です」

 女⁈ 孫九郎は「えっ」と声を上げた。

 大丈夫なのか、悲鳴をあげて逃げられたりはしないか、そんな心配をしながらと目を凝らすと、丁度彼女が何かを父に渡す所だった。

 遠目には、布に巻かれた細長いものとしかわからなかった。

 差し出されそれを、父が直々に受け取り布をめくる。

「あ」

 孫九郎は思わず声を上げた。彼女を含め、十五名ほどの男たちがその場で両膝をついたからだ。

「……扇子です」

 弥太郎に言われずとも、父が手元で広げたので、孫九郎にもわかった。

 扇子で連想したのは、遠からぬ前に渡した例のもの。一度だけ助命し、孫九郎に会える機会をやった。

 だが渡したのは武田の敵将、飯富殿へだ。

 父がちらりとこちらを見るのがわかった。

 ……間違いなく、あの扇子なのだろう。

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― 新着の感想 ―
[一言] オブトラ「ボスケテ」
[一言] ついに飯富一族から接触が。虎昌本人は来てないけど伏せてるか逝ったのか。 甲斐方面の責任者の福島&朝比奈の元を訪ねるのは妥当なところだけど、そこに総責任者の孫九郎もいるとは思ってなかったはず。…
[一言] 年代的にはのちの赤備え山県昌景のお母さんこと飯富のお姉さんかな?とか→扇子持ってきた女性 だけどよく出られましたね。甲斐の国内ガタガタやん。
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