19-4 駿東 興国寺城10
その夜はあまりよく眠れなかった。
考えることが多すぎて、あれもこれもと思考が飛ぶ。
タスク管理が上手くいっていないとき特有の、焦りにも似た感覚。地に足がついていないというか……何かを忘れているような不安が付きまとって離れない。
おおむね想定した通りに事は進んでいる。これから起こり得る出来事が、目に見えるようでさえあった。
それなのに不安が消えないのは、孫九郎にとっての「武田家」が、「武田信玄」という高名な武将を排出する強い国だという印象があるからだろう。
上手くいき過ぎていて、逆に落とし穴がある気がしてならない。
思い通りに事が進むたびに、こんなに簡単に行くはずはないと、逆に警戒心が増している。
小さく溜息がこぼれた。
「お目覚めでございますか」
本当に、いつ寝ているのだと問いただしたくなる弥太郎が、青臭い匂いの薬湯を手に枕元に膝をついた。
弥太郎が入ってきたのは続き部屋の方からだが、そこは既に明るい陽光が差し込み、朝の支度が整えられていた。「早朝」と呼べる時刻は過ぎているようだ。
身体を起こし、もう一度こぼれそうになったため息を飲み込む。
せめて冷たい水で顔を洗って、温かい薬湯を飲めば少しは顔色も良くなるだろうか。
すぐに目の下にクマができる体質は、きっと実父譲りだな。
孫九郎が臥所から身を起こした瞬間から、一斉に周囲が動き始める。
四方の襖が開け放たれて、その眩さに目を瞬かせた。
昨晩遅くに下がった側付きや小姓たちが、すでにもうきちんとした身なりで控えている。
孫九郎はあくびを噛み殺し、彼らの丁寧なあいさつに頷きを返した。
運ばれてきた盥の水で顔を洗い、髪を結ってもらう。着換えを済ませる頃には、寝間の臥所は片付けられ、一間続きの居室になっていた。
いつもの朝のルーティーン、顔触れは変わらないので、どこに居ようが同じ一日の始まりだ。
「夜のうちに、面白い事がありました」
起き抜けの薬湯をチビチビすすっていると、弥太郎が夜間の出来事を世間話のように教えてくれる。これもいつもの事だ。
だがこの男が言う「面白い事」というのはそうそうない。
ちらりと視線を向けると、いつものにこやかな表情がさらに笑み崩れた。
相変わらず、銀行か役所の窓口で見かけそうな笑顔だ。
「板垣さまと三尾さまが諍いを」
感じのいい笑顔でクスクスと笑い、口元を手で覆う。
「それを止めようとした工藤さまが殴りとばされ、柱に額をぶつけてお怪我をなさいました」
楽しそうに笑う話題ではないぞ。
「……何があった」
「武田の若君の嫁取りの話が、ようやく伝わったようです」
「それでなぜ揉める」
「主家の窮状に今更気づき、焦ったのでしょう」
この件に関しては、孫九郎が何かをしたわけではない。彼ら自身の選択だ。
だからといって、「面白いことになってきた」と笑うのは、あまりにも悪趣味だろう。
「……忠告ぐらいはした方がよいか?」
「御冗談を」
ぽつりとこぼしたひと言を、過たずすくい上げて首を振ったのは藤次郎だ。
ちらりと横目で見ると、この男の口角もきゅっと持ち上がり、半笑いの顔になっていた。
かつての好青年ぶりは健在だが、最近はその裏にニヒルさを感じる。六年間、孫九郎に付き合ったせいではないと思いたい。
いや、相手は武田。今川家にとっては長年の敵であり、記憶が正しければ藤次郎の父親も対甲斐戦で討ち死にしていたはずだ。
敵が滅びに向かっている様は、見ていて楽しいに違いない。
「放置でよろしいのではないでしょうか。このまま内輪もめの末に戦力を大きく削ぎ、しばらくは駿河に侵攻してくることはないでしょう」
「佐久衆も村上殿も……大井家もよくは思わぬだろうな」
諏訪家は、これまで脅かされてきた武田の斜陽を見逃しはしないだろう。うまくいけば、甲斐の国主になれる目もあるのだ。
そしてそんな諏訪の動きは、武田家内で警戒の目を向けられているはずだ。特に、御正室の実家大井家は反対しているだろう。
信濃衆にとっても歓迎できるものではない。
諏訪が武田と結ぶとなれば、佐久衆が警戒するのは当然だし、村上家もそうだ。
仮に二年後、村上が小県佐久を塗りつぶすつもりなのだとして、諏訪はその次の目標の候補に挙がっているだろう。将来的な村上家の狙いが信濃一国、いやその半分の統治なのだとしても、ここで諏訪と武田が結びつくことは歓迎できまい。
孫九郎はしばらく思案した末に、コツンと扇子で床を叩いた。
居室にいた者たち全員の視線がこちらを向いた。
「父上は?」
愛用の槍の穂先が欠けたと、鍛冶師のところへ出向くというのは聞いていた。
福島軍も朝比奈軍も、停戦交渉は不備に終わると考えているから、早くも前線に戻る支度にとりかかっているのだ。
「昼にはお戻りかと」
土井のその言葉に頷き返し、孫九郎は立ち上がった。
「御屋形様、武田の使者がいる間は」
襲撃される可能性を考え、できるだけ部屋にいるようにと言われていた。証如らに捕まったことを含めとにかく心配されていて、移動するのなら父が側にいるときにしてくれと懇願されたのは昨晩のことだ。
もちろん忘れてはいないし、その通りだとも思う。
だが父が戻るまであと数刻は掛かるのだろう?
「厠だ。厠に行くだけだ」
間に合わなくて袴を濡らすわけにはいかないからな。……すぐに戻るぞ? 使者殿らの様子を盗み見ようなどとは断じて思っていない。
周囲の者たちが一斉に顔をしかめたのは何故だ。




