3-1 遠江 福島本陣1
孫九郎らが北遠に到着したのは、それから二日後だ。
歩兵は置いて早駆けで駆けつけたかったが、全員に反対されたのでそれは出来なかった。
幸松らのもとに兵二百がいるのだから、心配することはないのに、誰一人としてその言い分を聞き入れてはくれない。
説得され、納得はした。
実際、幸松らの本陣が見えてきたとき、明るい日差しの下でくつろぐ彼らの様子は、呑気としか言いようがない平穏ぶりだった。
到着が一日遅れていたとしても、何かがあったとは思えない。
「兄上!」
満面の笑みの幸松がこちらに向かって駆けてくる。
可愛いなおい……いや違った。
「幸松、無事か」
孫九郎がそう問いかけると、幸松は不思議そうに首を傾げた。
この分だと、三河勢はもとより、馬廻り衆からの追尾にも気づいていなかったのだろう。
「何かございましたか?」
「いや」
背後にいる田所弟に視線を向けると、軽く首を真横に振られた。
襲撃などはなかったのか。よかった。
「手がすいた故に、来てみたのだ」
言い訳にしては苦しいが、幸松は素直に信じたようだった。
嬉しそうにはじける笑顔が眩しい。
「釣りをしておりました!」
ここ数日の待機の間、何をしていたのかと尋ねると、返ってきたのはそんな元気な返答だ。
孫九郎の影響で、すっかり渓流釣りが趣味な幸松だ。
一緒に行こうと誘われて、「いいね」と言いそうになったのを飲み込んだ。遊んでいる場合ではない。
「海野と話をせねばならなくなったのだ」
「信濃へご一緒できるのですか?」
「んんんっ」
逢坂からの最大級の咳払いをチラ見して、孫九郎は苦笑した。
さすがにそれはまずいとわかっている。
否定しようとしたのだが、それより早く、「御一緒できてうれしいです!」とピカピカの笑顔で言われた。いや、行かないからね。
はっきりそう言おうとしたのだが、幸松らの背後から、新之助殿が姿を見せたので内々の会話は切り上げざるを得なかった。
「お久しぶりでございます」
そういって丁寧に頭を下げられ、直接会うのは二年ぶりの男に視線を向ける。
頻繁に書簡を交わしていたので、言うほど久々という感じはしない。
孫九郎はさりげなく、今は「お勝」だと告げると、新之助殿の目が楽しそうにきらりと光った。
「なるほど」
とはいえ、幸松に兄上と呼ばれていては誰もが察してしまいそうだが。
「それではお勝殿。二、三話しておいた方が良いことがございます。よろしいでしょうか」
この男の、さらりと周囲を憚る態度はスマートだ。
孫九郎も、おそらく側室の懐妊のことだろうと察しながら、「では歩きましょうか」と丁寧な態度で頷いた。
幸松を先に歩かせ、二人は連れ立って本陣に向かってその後を追った。
さりげなく周囲の者たちには距離を置かせている。
もちろん護衛の谷は真後ろに張り付いているが、新之助殿側に護衛らしきものはいなかった。
ちらりと視線を巡らせると、相変わらず気配の薄い、忍びらしき連中がいる。
二年前より忍びの数が多い気がする。
「……某、海野家から出る事になり申した」
「分家ですか?」
孫九郎は努めて気楽に問い返した。
新之助殿の口調から、言うほどいい意味合いではなさそうだと伝わってくる。
わざわざ改まって言ってくるぐらいだから、孫九郎に……というよりも源九郎叔父に関係してくることなのだろう。
「城を任されました、松尾です」
申し訳ないがまったくわからない。
小首を傾げた孫九郎を見て、新之助殿は苦笑する。
「兄が戦で命を落とし、妻子が残されました。まだ子が幼過ぎます故に、真田郷を守るために某が」
まじまじと新之助殿を見上げる。
確かこの男には奥方がいなかったか。子はないと聞いた気がするが。
「先年、某の奥が病気で儚くなりもうした。互いに連れ合いに先立たれたもの同士と、三輪御前が」
三輪御前というのは海野の正室の呼び名だ。
この時代、兄弟が死んだ場合にその奥方をスライドで娶ることもあると聞いたことはある。
だが、はっきりと聞いたわけではないが、新之助殿は愛妻家だった気がする。
大切にしていた奥方を亡くした直後に、次の縁談を……兄の妻子をまとめて面倒みろと命じられたのか。
いやそれよりも……真田?
確かに真田幸村は信濃の出だ。だが秀吉の時代に青年だった記憶がある。
「それは……おめでとうございますと言うべきですか?」
「真田姓になりますが、婚姻までは」
断った? それはそれで角が立ちそうだが。
「ここだけの話、甥っ子たちは可愛いのです」
新之助殿は苦笑して、手で口元を隠した。
「ですが義姉とは折り合いが良くなくて」
「……ややこしそうですね」
それって大丈夫なのか?
孫九郎はしばらく無言で歩いた。
新之助殿が言いたいのは個人的な問題だけではない。
つまり海野家での影響力が奪われ、源九郎叔父への助力ができなくなるという意味だ。
ますます正室……三輪御前の勢力が増し、叔父の立場が弱まっているのだろう。
「叔父上はお元気でしょうか」
しばらくしてそう問いかけると、「今のところは」と、何ともあやふやな返答が返ってきた。
新之助殿がそう言うしかないという事は、あまり良くないと考えるべきか。
「海野殿のお考えはどうなのでしょう」
せめて正室との合意の上で、叔父上を婿養子にしたのならよかった。
だがそうではない。
嫡男とその母親が反発するのは事前にわかりそうなものだ。
にもかかわらず強行したのは、海野家のやむに已まれぬ事情……戦に勝たねばならないというのっぴきならない状況があるのだろうが、なればこそ、当主海野殿の意思をもっと強く発揮してほしい。
「もし叔父上が肩身の狭い思いをなさっておいでなら、妻子含め福島家に引き取ると父が申しております」
「……それは」
「海野家としても、今川の一門衆と縁続きになるのは悪くないでしょう」
孫九郎が直接信濃に出向き、叔父上を引き取りに行けば話は早いが、そういうわけにもいかない。
書簡を書いてその旨を申し出るが、新之助殿にも口をきいてもらうつもりでいた。
だが真田姓になるのか。これも婿入りというのか?
いや、婚姻するわけではないから違うか。
「新之助殿」
「……はい」
向かう先に、田所兄の白っぽいひょろりとした姿が見えた。
一同揃って立ち並び、丁寧に頭を下げている。
膝をついていないだけ、配慮した出迎えだ。
一見幸松を迎え入れているように見えるだろう。
「何か問題がありましたら、いつでもお引き受けいたします故ご遠慮なさらず」
真田の血統なら優秀そうだ。たしか幸村の父も祖父も、有能な武将だった気がする。
そんな下心込みの申し出に、新之助殿が少し言葉に詰まったように黙った。
軽く頭を下げられたが、あえてそちらは見なかった。




