18-9 駿東 興国寺城6
顔色悪く立ち去る武田の使者団を見送った。
板垣の顔色が悪いのは元からだが、工藤を含め残りの者たちも似たような顔色になっている。
一団の最後尾にふらふらと続く工藤が、しっかり魚籠を握りしめているのが笑えた。
孫九郎はひとしきりニヤニヤと悪い表情をしていたが、ややあって真顔に戻った。
「……板垣は何の病だ? ずいぶんと悪そうだが」
「あの顔色は臓腑のどれかでしょう」
部屋の隅に控えていた弥太郎が、穏やかな口調で言った。
ちらりと頭をかすめたのは、甲斐といえばの寄生虫だ。確か巻貝を介しての風土病だが、あれは主に水辺で作業をする農民に多いはずだ。
「服用している薬を調べましたが、効くとは思えないものでした。もう長くないと思われているのやもしれませぬ」
もちろん板垣が自ら使者を名乗り出たのかもしれないし、事情を知らない孫九郎が口出しするいわれはないのだが……
「治せるか?」
「治療するのですか?」
不思議そうに問い返されて、それもそうだと苦笑する。
わざわざ敵将の病の治療を考えるなど、おかしな話だ。
確か、甲斐の……なんだったかな、日本住血吸虫症? は近代になるまでその治療法は確立していなかったし、駆虫薬も西洋医学の製薬によるものだったはずだ。弥太郎が得意な生薬、日本に生育する薬草類で治療できるとは思えないが……あくまでもそれが問題の病気だった場合だ。
「あの男は死ぬ気でいるのだろう。それほどの覚悟を持って交渉に臨んだはずだ。それにしてはお粗末な煽りだった。まだ何か考えがあるのではないか」
弥太郎は大勢の武士からの視線を浴びながらニコリと微笑んだ。知らない者なら、この男を忍びだとは思わないだろう。それほどにこやかな笑顔だ。
「それでは、助かるかもしれないと希望を持たせるのはいかがでしょう」
だがその発言は、一般的な善良な医師がするようなものではない。
孫九郎はそんな弥太郎を横目で見やった。
「国元で診てもらっているだろう」
そのうえで、余命を宣告されているのではないか。セカンドオピニオンどころではない数の医者に診てもらった上での結論を、覆す言葉を信じるだろうか。
いやそもそも、そんな甘言に乗るか? あの男が?
源九郎叔父が片腕を軽く上げた。
「命がけで、御屋形様のお命を奪いに来たのではないでしょうか」
ああ、その可能性はある。
今川家の一番の弱みは、孫九郎が若すぎる事と、それゆえに後継がいない事だ。
孫九郎が失われれば、たちまち混乱に陥るだろう。
有力な譜代も国人衆もいるが、一門衆が弱すぎる。
誰かがまとめることはできず、分裂して独立勢力になっていくのではないか。
孫九郎は「うーん」と唸り、板垣らが去っていった方向に目を向けた。
盤面をひっくり返す唯一にしてこれ以上ないほどの攻撃。
確かに、武田が生き残る道はそこしかないのかもしれない。
その場はいったん解散になった。
居室まで戻り、孫九郎は弥太郎に差し出された白湯を口に含んだ。
釣りに行っていた小姓たちも職務に戻っており、どことなく溌剌して見える。リフレッシュできたようで羨ましい。
「次郎三郎」
生真面目な表情で控えている少年に声を掛ける。
「工藤は何か口を滑らせたか」
そう問いかけると、少し思案するように首を傾ける。
次郎三郎は孫九郎の小姓の中でも異質で、どことなく野趣味のあるやんちゃ坊主のように見えるのだが、実際は頭の回転が速くよく気づく子だ。
「御屋形様について根掘り葉掘り」
それはそうだろう。もちろん小姓たちが余計な情報を漏らすとは思っていない。
「あとは……某についていくらか」
「ほう」
「訛りから信濃の出だと気づいたようです。何故かひどく同情されました」
「同情?」
「故郷を遠く離れて辛いだろうと。こちらを懐柔しようとしているようではなく、武田が頻繁に信濃に攻め込んでいる事を負い目に感じている印象を受けました」
へえ……面白い。
本心か否かはともかくとして、それに対して恨みを持つ者がいるという認識はあるということだ。
「確かに武田が攻め込んできたせいで国を追われたが、工藤様の責任ではないと言うておきました」
孫九郎は、ちらりとその日焼けした顔を見た。
次郎三郎は変わらず真顔だが、この子が実は向こうっ気の強い激情家だというのはわかっている。表面を取り繕い、胸に収めるのが上手いだけだ。
じっと見つめていると、気まずそうに視線が泳ぐ。
「……鼻緒が切れるように細工をしておいたので、竿に引っ張られ川に頭から突っ込んで往生しておりました」
護衛につけた真田の忍びを、そんな小細工に使うのはやめなさい。
ああ、だから会談に駆けつけるのが遅くなったのか。
どうせ道中で頻繁に足を取られて転び、着換えようとして小物が足りないとか、草履が片方ないとか、そんな有様だったのだろう。
「戦働きに向く男ではないと感じました」
気づかず鼻緒を切られていれば、躓くぐらいしそうだけど。
「こちらを疑っている様子はまったくなく、むしろ不器用さと不手際を詫びられる始末で」
工藤が恥じ入りながら子供たちに謝罪する様子が目に浮かぶ。
総括すると、見た目通りの損を引くタイプの善良な男だということか?
いやそれだけなら、孫九郎とニアミスをするほどに接近するのは難しいだろう。
「あれが態とならば、たいしたものです」
次郎三郎はそう前置きをしてから、道中に話をした内容をひとつづつ、事細かに報告し始めた。




