18-6 駿東 興国寺城3
背中を丸めて遠ざかっていく背中を見送って、孫九郎はするりと顎をさすった。
あの滲み出る苦労人感。集団での三番手か四番手まではのぼり詰めても、決してトップには立てない感じ。
才気とか野心とかそういったものは微塵も感じさせないが、誰かの下にいる分には有能なのだろう。いわゆる「縁の下」だ。
ああいう男が必死で支えようとする神輿は強い。
「……武田殿はしぶとく生き延びる気がします」
「いや、踏み台にしても微塵も気にせぬ質だ。踏まれ続ける方も我慢の限界があろうよ」
武田殿と長く刀を交えてきた父がそう言って、朝比奈殿も同意するように頷いている。
だが工藤という名の「踏み台」は、踏まれ続けることを自身の価値だと思っている気がする。
「こちらの怒りを宥め、なんとか会談のきっかけをもぎ取りました。交渉役としてはなかなかではないでしょうか」
孫九郎はその背中が消えた先に目を細め、さてどう交渉を進めるべきかと思案した。
西日が深くまで差し込み、茜色に夜の気配が混じりはじめる。
朝比奈殿が目配せをすると、庭に面した障子が素早く閉められた。回廊側には簾が下ろされ、そちらからも覗き見られないようにしている。
視界が完全に遮られたのを確認してから、朝比奈殿が孫九郎に向き直って両手の拳を床についた。
「御屋形様は直接お出ましにならない方がよろしいかと存じます」
「何故です?」
「工藤とやら、敵意を隠しきれていない使者殿よりはよほど有能です」
「なるほど。それではやはり交渉相手はその使者殿にするべきですね」
とっさに思いついたのは、使者である板垣駿河守と工藤との不和を煽る事だ。板垣が工藤にたいして不審を感じれば、工藤は思うように動けなくなるだろう。
「そうですね、朝比奈殿がこのまま板垣と停戦の条件を詰めてください。退く必要はありません。不利なのは武田側です」
朝比奈殿が諾と頭を下げるのに頷きを返して、親指と人差し指で持ち上がりそうになる口角を押さえた。
どんどん性格が悪くなるな。そう思いながら、小さく喉を鳴らす。
「果たして板垣は、有能な配下の行動を許容できる器量の持ち主でしょうか」
平和な令和の時代でも、競争社会だった。多くが争いごとを嫌う日本人でさえ、同僚と張り合い足を引っ張るなどよくある事だ。
「次郎三郎」
「はい」
孫九郎が声を掛けると、真横で若干ひっくり返った声で返事があった。
「その方、工藤を釣りに誘え」
日焼けした少年の呆気にとられた表情と、そのほかの大人たちの呆れた表情との対比に、こらえきれずに肩を揺らす。
「つ、釣りですか?」
「あの男は不器用そうだ。コテンパンにやっつけて凹ましてやれ」
「……はあ」
頭の回転の速い次郎三郎は、すぐに孫九郎の意図することを察したようだった。
「なに、難しく考える必要はない。仲良く釣りをして……そうよな、釣果がよければ褒美をやろう」
「交渉の間、引き止めればよろしいでしょうか」
「それだけではない。仲良くだ」
次郎三郎は少し考えるように首を傾げ、「どうしよう」と言いたげに周囲を見回した。
「何なら小姓組も連れていけ。握り飯を持ってな」
工藤は少年たちの中に孫九郎がいるかもしれないと思うだろう。
この誘いを、交渉の一環だと思うかもしれない。
工藤は真剣に孫九郎を探そうとするだろうし、小姓たちと楽しく釣りをしている工藤の事を、使者団の皆は白い目で見るのではないか。
「和気あいあいと楽しくな」
その間、朝比奈殿は板垣を締め上げる。女中に怪我をさせた事を許す必要は全くないし、険悪な雰囲気のまま平行線の交渉を続ければよい。
もちろん孫九郎も釣りに参加するつもりだったのに、大反対の上に強制隔離された。父に。
ここまで強引に持ち上げられて運ばれるのも久々だ。
奥まった朝比奈殿の居室に下ろされて、懇々と説教をされた。
藤次郎も谷もしれっと明後日の方向を見ていて庇ってもくれない。ひどい。
「大人しくしておれ。ドシンと構えて結果を待つのも大事だ」
戦になれば先陣を切る父に言われたくない。
むくれて唇を尖らせると、わしゃわしゃと頭を撫でられた。
やめて。せっかく結んだ元結が解ける。
「碁でも打つか?」
碁なら長久保城でさんざんやった。将棋もだ。
「そんなに釣りがしたいのなら、あ奴らが引き上げた後にともに参ろう」
孫九郎に甘い父がそう言って宥めてくる。
駄々をこねるような年ではないが、あざとく我儘を言うのにも慣れてきたので、しっかり父との釣りの約束を取り付けておいた。
父と二人で甲斐の地図を眺める。
現在の今川方の砦の位置に凸のマークを書き、朝比奈軍と福島軍の布陣にも印が入っている。
武田は今、大きく三つの勢力に分かれているようで、黒い碁石が武田殿、白い碁石が造反組、庭で拾った小石が様子見組だ。
こうやって見ると、白い碁石の数はそれほど多くはない。だが様子見組を勢力下に組み込めば、武田殿の勢力をぐるりと取り囲める。
「……この辺りが肝になりそうですね」
孫九郎が指し示したのは、茶色く丸い小石だ。信濃国境に近い。
「信濃か」
「小県を村上殿がまとめ、佐久まで勢力を広げていれば、武田は沈んでいたでしょう」
戦の申し子のような村上殿が、この状況の甲斐を指をくわえて見ているとは思えない。
だが現状の佐久は武田に攻め込むような状況ではないし、むしろ敵対関係だ。
あとは……諏訪家。
「お勝ならどうする」
尋ねられて、指を諏訪の方にスライドさせた。
「武田と諏訪が組めば、このあたりの勢力は武田殿に転ぶでしょう」
あるいは……武蔵国。
「山内上杉家の動きにも注視するべきかと」
武田殿は四方に敵を作ってきた。敵ならば、今の甲斐は食べごろの柿だ。
今川家が攻め込むのをやめれば、おそらく山内上杉家が出てくる。
「今川と同程度に敵対している山内上杉家が、武田と組むことはまずないでしょう。武田殿が取れる手立ては多くない」
「ではやはり諏訪か」
孫九郎は黙って頷き、黒い碁石を諏訪領のある位置に置いた。
武田殿が一番恐れているのは、造反した者たちが今川家、あるいは山内上杉家と通じる事だろう。
豪雨の中、飢えた獣のような顔で襲い掛かってきた武田殿は、敵に頭を下げて従う事ができるようには見えなかった。
武田殿がとるのは常に、守勢ではなく攻勢だ。
つまりこの停戦交渉は、今だけの時間稼ぎと考える方が良い。




