16-6 伊豆 ~狩野郷2
一晩明け、一行は早朝から出立の準備をしていた。
韮山城まではあと二刻ほどの距離なので、昼までには到着できる計算だ。
忙しく皆が支度をする中、家老がものすごく申し訳なさそうな顔であいさつに来た。
今頃になって、当主狩野が面会を希望しているそうだ。
こういう場合、夜のうちに挨拶は済ませておくもののような気がするが、若き狩野殿にとっては違うらしい。あるいは、孫九郎などに挨拶する必要はないとでも?
「昨晩はお恥ずかしい所をお見せしてしまい、申し訳ございませぬ」
そう言いながら頭を下げる若き狩野の当主は、真正面から見るとまだ十代半ば、行っても十六、七の若者だった。
態度も口調もひどく尖って愛想がない。表面上は丁寧だが、孫九郎への侮蔑が透けて見える。
側付きたちは無表情を保っていたが、護衛の谷は静かに刀に手を当てているし、一番怒りをあらわにしているのは原殿か。
孫九郎は軽く扇子を振って「許可さえあればすぐに切りかかります」と思っていそうな面々を諫めた。
この時代の成人年齢は元服の十五前後だから、どんなに若くともれっきとした大人だ。だが精神的にはまだまだ幼い。
丁度この年頃の子供たちの教師をしていた孫九郎にとって、非常に馴染みのある態度でもあった。
こういう子は、世の中のすべてを斜めに見ている。理不尽を嫌がり、世の中の全方向に腹を立て、思うようにならない現実を無視しようとする。
たいていの場合は大人になるに従って落ち着くものだ。現実を知り、過去を恥じるようにもなる。
だがそこへ至るまでの数年間は、周囲の忍耐と理解が必要だった。
残念ながらこの時代に、のんびりそんな事をしていられる余裕はない。
故に孫九郎は、過去の経験通りに正論から入った。
「女子に手を上げるのは良くないぞ」
顔を上げてこちらを見た青年が、思いっきり不遜に唇を曲げる。
「悪いことをすれば、折檻を受けるのは当然にございます」
「悪い事?」
「あの毒婦は、狩野家を乗っ取ろうとしているのです!」
「ほう?」
何かを言おうとした家老を制し、孫九郎は先を促した。
狩野青年は鼻息も荒く胸を張り、持論を展開する。何でも家老一家は身中の虫であり、他所の種の子を跡継ぎにするべく画策していると言い張る。
どうやらそのお相手を承菊だと思い込んでいるようで、孫九郎に「どう責任を取るつもりだ」と威圧してくる始末だ。
……どこから突っ込みを入れるべきだ?
「甚左衛門」
「はっ」
孫九郎が名を呼ぶと、こめかみに青筋を浮かべた家老が、怒りを抑えた口調で返事をする。
家老の名前は狩野甚左衛門、当主小三郎の大叔父だそうだ。
「今の話をどう思う」
「ありえませぬ」
「根拠は」
「多喜は一度も承菊殿にお会いした事はないはずです」
「嘘だ!」
「娘は韮山城に行ったこともなく、承菊殿がこちらにいらしたこともない。いいかげんになさってください」
ここまで頑固に自身の子ではないと言い張るには、彼の方にも彼なりの根拠があるのだろう。
孫九郎は、ふてくされた表情の狩野青年と、場をわきまえず叱りつけようとする家老とを交互に見た。
誰の目にも、不遜な当主が悪い様に見えるだろう。
苦労人の家老と、いわれのない暴力を受けた正室を気の毒にも思うのだろう。
だが孫九郎の意見は違う。
よりにもよって孫九郎の前で、お家の醜聞を露呈した家老の思惑が気になる。
こんな態度を取るとわかっているなら、挨拶に来させないほうがまだよかった。急病になったなど、言い訳などいくらでもできる。
はた目にもわかるほど年上の娘を、当主の正室に据えているところにも違和感があった。
「たとえどのような理由があろうとも、身重の女性への暴力はよくない」
再び正論を口にして、たちまち嫌悪の表情をした青年の反応を観察する。
鼻を鳴らしこそしなかったが、それに近い表情をして、ふいと視線を逸らせてしまうところがまだまだ子供だ。
「……狩野家は不義を犯した正室を人質にだすつもりか」
辛抱たまらないとばかりに口を挟んできたのは原殿だ。
「御屋形様を愚弄するにもほどがあろう!」
貫禄ある武将からの叱責に、狩野青年の身体が大きくビクリと動いた。
きょろきょろと視線が動き、「いや、それは……そんなつもりは」と首を振る。
「御屋形様、早う出立いたしましょう。このような所に長居することはありません」
「支度が済み次第出立する」
「では、某は様子を見て参ります」
怒りも露わに席を立った原殿を引き止める者はいなかった。
「うちの者が済まぬな」
孫九郎は、足音も荒く遠ざかっていく男の背中を見送りながら、脇息に肘を預けた。
「他家の事ゆえ、口出ししようとは思わぬが……そういう話は、表に出さぬ方が良い」
若干顔色が悪くなった狩野青年は、なおも不服を口にしようとしたが、孫九郎の周囲にいる者たちの表情を見て言葉を飲み込んだ。
「今の其の方の立ち回り方は、上手とは言えぬな」
まあ、余計なお世話なんだろうけど。
心配なのは身重の正室の体調の事だけで、それ以外は勝手にすればいい。
ここまでこじれた夫婦仲は、他者が仲介しようがどうにかなるものでもないだろうし。
「甚左衛門」
床に額を押し当てて平伏した家老に声を掛ける。
「承菊の子だそうだが」
「ち、違います! 我が殿は誤解をしているのですっ」
実際に承菊の悪辣なやり口を知っていれば、そう言うしかないだろう。
「もし本当ならば還俗させるが」
からかい半分にそう言うと、面白いほどに甚左衛門の顔から血の気が引いた。ぶるぶると首を振り、額を床にめり込ませそうなほど擦りつける。
「あれでも名門庵原の血筋だ。優れた手腕の持ち主でもあるし、城持ちでもある。婿にするか?」
「御堪忍くださいませ!」
そんなに必死に拒否しなくても。
孫九郎は、片手で扇子を弄びながら、この話を聞いた承菊の反応を想像してみた。
……楽しかったのは最初だけだった。




