2-4 遠江 掛川城11
その知らせは夜半、さすがの孫九郎もぐっすりと寝入っている真夜中にもたらされた。
就寝中も寝間に誰かがいる状況にすっかり慣れてしまっていたので、南が立ち上がり動いても意識は微睡の中だ。
最近は固い枕にも慣れてきて、つまりはまっすぐ上を向いて眠る癖も付いた。
だからこそ、肩を揺すられ目を開けた時に、天井ではなく逢坂老のどアップを見て、「えっ」と思わず声がこぼれた。
今川館に置いてきた逢坂が、何故ここにいる。
問いかける前に、五日で戻ると約束したその期日を、既に三日も超過している事に思い当たった。
……まあ、来るよな。
「すまん」
寝起きのひと言目の謝罪に、怒りの表情が若干緩んだ気がした。
人間、悪いと思ったらすぐに謝るべきだよ、うん。
「お起こししてもうしわけございませぬ。至急お伝えせねばならぬことが」
ああ、嫌な予感がするぞ。
「甲斐国境から武田軍が完全撤退しました。例年にはないことです」
早口の逢坂の報告に、まだ回転の良くない頭が渋々と回り始める。
……武田が国境から引いた?
いつもは春の侵攻のあとは、秋口になるまで国境で今川軍とにらみ合っている。
次に大規模な攻撃が始まるのが、米の刈り入れ後の時季だと言うのは定番だ。
春秋以外でも、武田軍は常に国境付近に兵を置いていて、規模は少ないが小競り合いは常にある。
それが、いなくなった?
「……起きる」
そう言うと逢坂が退いてくれたので、孫九郎は上半身を起こした。
「今着いたのか?」
逢坂はまだ旅装のままだった。
多少埃は落としてから来ただろうが、服装を改めた様子はない。
「はい」
ちらりと見た逢坂の背後は真っ暗だ。明け方までも遠そうだ。
夜を徹して馬を駆ってきたのだろう。それほどの急ぎか。
改めて、この事態に危機感を募らせる。
起き上がり、ゴシゴシと目を擦った。あくびを噛み殺し、差し出された白湯で口をゆすぐ。
「父上には?」
「殿のもとには愚息が」
逢坂をはじめ、福島系列の家臣は、父の事を「殿」と呼び、孫九郎のことを「御屋形様」と呼ぶ。
「渋沢より、詳細を調べる為に兵を送る許可をと」
「朝比奈殿からは?」
「まだ何も。渋沢からの知らせは忍びが運んできましたゆえに、一日は早うございます」
だとしても、今頃はすでに今川館に届いているだろう。
奥平が別便を出してくれるはずだ。
臥所に座ったまま、渋沢からの書簡を広げ、一読した。
室内は暗いが、孫九郎が書簡を開き始めた時に、側付きのひとりが気を利かせて蝋燭に火を灯してくれた。
これまでは灯明だけだったので、少し距離があるだけで容貌の判別も難しいぐらいに暗かったのだが、高級な蝋燭はさすがに明るく、広げた書簡の文字もはっきり読み取れる。いいよな蝋燭。
孫九郎は書簡を二度ほど読みこみ、「うーん」と唸った。
「……よくわからんな」
内容は逢坂の報告に多少の毛が生えた程度のもので、だからこそ調べたいという事だろう。
だが渋沢が、つまり今川軍が国境にいる状況で兵を退く? 国内で何かあったのか?
「朝までまだ時間がある。逢坂は少し休め」
これの返答は、朝比奈殿の知らせを読んでから考えよう。
逢坂でなくとも、駿府から掛川まで早馬を飛ばしたのなら、休息は必要だ。
もういい年なんだから、という言葉は胸の内だけにとどめた。
そんな事を言った日には、百倍になって小言で返ってくるのは実証済みだ。
逢坂を下がらせてしばらくしてから、孫九郎はひとつ頷いて立ち上がった。
「まだ早うございます」
宿直を代表して、南が言う。
確かに夜明けまでは遠そうだが、目が冴えてしまった。
そもそもこんな時代だから、就寝時間も早いのだ。多少早起きしても十分寝ている。
側付きたちに身支度を整えてもらい、南が両手で差し出した扇子を受け取る。
孫九郎はあまり身なりに気を使わない方だが、洒落者の藤次郎がコーディネート管理をしてくれていて、いつもそれなりに見える組み合わせで着る物を準備してくれる。
だからというわけではないが、あいつ以外に用意をさせると若干のコレジャナイ感があるのだが……まあ、気にしても仕方がない。
身支度が終わると同時に、臥所も片付けられていて、まだ周囲は真夜中の暗さだが、孫九郎の思考は滑らかに回り始めた。
胡坐をかいて座ってそれほど経たないうちに、夜番の護衛が身を強張らせるのに気づいた。
孫九郎は渋沢の書簡を読み返していたが、露骨にざっと裾を裁く音がしたので、思わず顔を上げてそちらを見た。
数人の護衛が、暗闇に目を向けて片膝を立て、刀の柄に手を置いている。
残りの半数が、すり足で居室から出て廊下に散開している。
目をこらすと、中庭の方にも兵らがいるのが見えた。
何事。
すぐに事態は収束した。
物々しさは即座になくなり、代わりにそこかしこから苛立ちの気配を感じる。
明け方というにはまだ早すぎる刻限だ。
おそらく午前二時から三時頃? 早朝というよりも丑三つ時だ。草木も眠る時刻じゃなかったのか?
そんな深夜に、庭先に忍んできた男がいる。
「……早いな」
早田だけにな。……いや上手い事を言いたかったわけではない。
早田の方も、孫九郎が起きているとは思わなかったようだ。
蝋燭の明かりが届かない部屋の隅に控え、深々と頭を下げる。
「夜中に申し訳ございませぬ。至急お話しておきたいことが」
直接早田が動くのは良くない。こいつがこちらについたと、いつか誰かが気づくだろう。忍びとの繋ぎの方法を考えてやるべきだな……
そんなことを考えながら、「話せ」と頷き返す。
「若君を追った者の一部が戻ってまいりました。その者が言うには……」
彼らが幸松を守ろうとしていたのは確かなようだ。
だが同時に、第三者目線で幸松ら一行を見守っていて気づいたそうだ。
密かに追っているのは、彼らだけではなかった。
「三河訛りの者たちだったそうです」
早田の早口の報告に、孫九郎の眉間に深いしわが寄った。




