16-3 伊豆 下田湊10
興津水軍の副将がちらりとと九兵衛を見る。善之助はまだ海上で、急には戻ることができないそうだ。
九兵衛は唇を一文字に引き結び、瞬きもせず孫九郎を見ている。
その視線の強さは決意だ。
孫九郎はあえて何も言わずに、ただ視線を返した。
「……我らに教えて良かったのですか」
副将又三郎のその声は、孫九郎がかつて良くしてもらった男のものに酷似していた。
取り繕ったものではなく、一本芯が通った強さがある。
九兵衛は黙り込み、すべて話したとばかりにぐっと奥歯を噛みしめる。
「御屋形様」
孫九郎は、九兵衛から又三郎に視線を移した。どちらも海の男だ。肌の色は日に焼けて浅黒く、白目の部分がやけに白々として見える。
「この海図があれば、三浦水軍に奇襲をかけることができます」
やる気だな。それはそうだ。二年前、興津は三浦水軍にかなりの痛手を負わされたのだ。
「許可は出せない」
孫九郎は端的に言った。
「里見水軍が出てくるぞ」
「丁度入り江の影になった部分に入り込める海路があります。気づかれずに躱せます」
「又三郎」
それほど長い付き合いではないが、この男がこれほど前のめりな態度なのは初めて見る。
いつも無口で善之助の影に控えているような男だった。
「そのほうらを失うわけにはいかない」
「しかし」
「里見と北条との仲は良くないと聞くが、三浦水軍の動きを見るに、表向きだけの可能性がある。ひとつ手を打ち損ねるだけで大勢が死ぬのだ」
孫九郎はやおら立ち上がり、大きく広げた海図のそばまで歩いた。
たった数歩の距離を詰めただけだが、九兵衛が臆したように身構えるのが分かった。
「調べたのか? 誰かから聞いたのか?」
この時代の地図の類はすべて手書きだが、この海図は特に細かく書き込みがあった。
読みとれない部分もあるが、おそらく海深やら岩場などが記されているのだろう。安宅船はキールがないのでそれほど深さは必要ないが、岩場などに乗り上げてしまうとさすがに沈む。
九兵衛が持ち込んだ情報は、水軍にとっての命綱、城の縄張りの構造を事細かく書き記してあるようなものだ。
もちろんこの時代にレーザーなどの便利な機器類はないので、すべて手での測量、あるいは伝聞をもとにした転載になる。
これを九兵衛が自力で調べたというのなら、それは「いつか」を考えての準備に他ならない。
九兵衛は孫九郎の問いに答えなかった。
言葉が出ないという風に口ごもり、視線が泳ぐ。
「伝聞ならば、誤った情報である可能性もある」
たとえば、わざと興津水軍を座礁させるとか?
孫九郎の疑惑を否定しようと、九兵衛は大きく首を左右に振った。
「己の手で岩を投げ、計り申した」
「三浦はそのほうが岩を投げて測量しているのを指をくわえて見ていたのか?」
「よ、夜に。泳いでの時も」
泳いで? いや泳いで海底の地形を見て回るというのは正気の沙汰ではない。
九兵衛は覚悟を決めた様子で大きく息を吸い込み、懐からもう一枚の紙を取り出した。丁寧に折りたたまれているが、かなりの大きさだ。
「清水湊の」
九兵衛が言い終わらないうちに、又三郎がそれを横手から奪い取った。
さっと新たな海図を広げて、顔を床につけるようにしてその詳細を確かめている。
孫九郎は、折れ曲がった部分を伸ばし、又三郎が踏んで寄れてしまった部分をまっすぐにした。
この時代の多くの者よりは、俯瞰視点からの正確な地図になじみがある孫九郎だが、普段よく見る子供の一筆書きのものとは違い、それはかなり正確なように思えた。
低い声で唸り始めた又三郎の肩に手を置く。
清水湊の詳細図など、興津家にとっては一番外に出したくない情報だろう。
「……我らが持っているものよりも詳しいです」
「そうか」
いくらか呆然とした様子の又三郎を宥めるように、ぽんぽんとその肩を叩く。
九兵衛がこの海図を手づから書いたというのなら、それは大した才能だ。だが、もっと正確な地図を見たことがある孫九郎にとっては、それほどの驚きはなかった。
「かけるのは海図だけか? 一度下田の地図を描いてみよ。陸の図面だ」
持って来させた紙と筆の前で、九兵衛はしばらくぽかんとした表情をしていたが、おずおずと筆を走らせ始めた。
一度描き始めれば、筆の動きにためらいはなかった。迷いなく描かれる線は、この上もなく正確なように思えた。
しかも、かかった時間はほんの数分だ。
「……なるほど」
やがて仕上がった地図を手に、孫九郎もまた小さく唸った。
「まだです、では清水の地図を」
まだ信じられないのか、更に試そうとする又三郎を、片手を上げて制す。
「九兵衛」
孫九郎は、不安そうな表情をした男の目をじっと見つめた。
「館山の図面は描けるか」
誰かがはっと鋭く息を飲んだ。
「海図と陸図の両方だ。出来る限り正確なものが欲しい」
舘山は里見家の本拠地だ。房総半島の先端にあり、十年ほど前に本領を追われた三浦水軍よりも規模も勢力も大きい。
「……御屋形様」
「つついてみれば、面白いことになるのではないか?」
なにも戦をしようというのではない。
里見と北条が手を組まないよう細工をするぐらいいいだろう?
「そうか、三浦がそれらの地図を北条に渡そうとしたと囁いたら……」
又三郎は、即座に孫九郎が意図するところを察した。




