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春暁記  作者: 槐
伊豆編

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16-2 伊豆 下田湊9

 九兵衛の両手の指が地面を掻く。日焼けした手の、爪だけが白くなるほど強く。

 孫九郎は半笑いを収め、真顔で向き直った。

 清水水軍はもともとそれほどの規模ではない。にもかかわらず潰されずにいたのは、伊豆半島突端というこの場所の優位性と、もしかするとこの男の才覚だ。

「九兵衛」

 孫九郎が名を呼び捨てにしても、腹を立てる様子はなく、むしろ縋りつくような目で見上げてくる。

 一番槍や怨敵などと、強気な事を言っているが、本質は気弱なのが透けて見えた。

 清水殿とはまったく外見から受ける印象は違うが、孫九郎を見る涙の膜の張った目の形だけは同じだった。

 ……いい年をした大人が泣くんじゃないよ。

「興津の傘下に入れ」

「……えっ」

「小さなままでは食われるぞ」

 九兵衛はぽかんと口を開け、そして閉じた。その目に浮かんだのは反骨心か? ……いいぞ、その調子だ。

「いずれ北条を討つ際に連れて行ってやろう」

 周囲の視線が微妙なのは、孫九郎の言い方が同世代の子供に対するもののようだったからだろう。

「だが今ではない。今すぐに攻め込むことはできない」

 戦には準備が必要なんだよ。

 特に、相模の周辺には勢力が乱立し、どこも団栗の背比べの状況だ。

 「信長の野望」ならば、それぞれが小さいうちに平らげるべき土地柄というべきか。

 ただ北条を落とすだけならいいが、その先の事を考えれば安易に国を奪うのは悪手だ。

 だがいずれは、決着をつけることになるだろう。

 孫九郎は首を傾げ、這いつくばっている日焼けした男の顔をじっと見つめた。

「信頼を築け。役に立つところを見せよ」

 戦国時代、既存の勢力をその家臣や傍系が奪い取る形で力あるものが台頭してきた。

 いわゆる下克上だ。

 その言葉が一般的になるほどには、それはどこにでもある「時代の流れ」だった。

 弱いと食われる。そのひと言に尽きる。

 血筋だけで無条件で頭を下げられる時代ではもはやない。

 必要なのは第一に運。次に武家の才覚。どう立ち回ったか、誰を味方につけて、誰と敵対するのかを選ぶのも重要な要素だ。

 清水殿は、今川に頭を下げる事を選んだ。

 それが北条への意趣返しであろうとも、今川を選んだ限りは孫九郎の庇護下だ。

 だが九兵衛はどう思っている? 代わりにいじめっ子を殴ってくれるから頭を下げているのなら、残念ながら食った方が早い。

 興津の水軍はこの二年でかなり大きく膨れ上がった。あちらこちらにあった小さな勢力を傘下に収めつつの拡大だ。

 清水も吸収しようと思っていたが、九兵衛がやる気をみせるというのなら、興津の指揮下という条件で下田を任せてもいい。

 それを聞いて、九兵衛が勢いよく顔を上げた。

 やたらともの凄い勢いで息を吸い、ぱくぱくと口を開閉する。おい、落ち着け。

「も、申し上げたいことが!」

「ん?」

「わ、わしは……いや某はっ!」

 額に汗までにじませた必死の前のめり具合に、告白する思春期男子を連想したのは孫九郎だけではないだろう。……いや冗談だけど。

 護衛組が仕事をして、九兵衛の襟首をとっさに掴まなければ、勢い余って孫九郎にしがみつこうとしたかもしれない。

 もちろんそんなことができる距離ではなかったが、それぐらいの勢いはあった。

 九兵衛は襟首をつかまれて、不自然な体勢で顔から地面にぶつかる。

 「ぐう」とひしゃげた声がした。めげず上げた顔は鼻血で真っ赤だ。その酷い面相の、汚く血が飛び散った顔は何かを決意したかのように必死だった。

「ぬぬ抜け道を知っております!」

 いや、抜け道など北条の方がよく知っているだろう。

「海です。海路です。座礁せず安宅船が入れる海路があるのです」

 それも、相模湾を熟知している三浦水軍の方が詳しそうだ。特に今は戦時下にある。あらゆるところに目を光らせているだろう。

「早川湊ではありません。三浦の本拠地の勝山です」

 更に大声を張ろうとした九兵衛を、孫九郎は手を上げて制した。

 さっと周囲を見回して、余人の耳がない事を確かめる。

 もちろん孫九郎に正確なところはわからないが、護衛や側付きや兵らの表情を見ての判断だ。

「……中で話を聞こう」

 ちなみに、早川湊は小田原からすぐのところにある。三浦の今の本拠地は房総だ。

 三浦氏はかつて北条に敗れて三浦半島を追われ、里見の庇護下で勢力を盛り返してきたと聞く。おそらく彼らが北条と同盟を組んだのは、その里見氏の意向もあるのではないか。

 里見氏と北条はかなり険悪な仲だと聞くが、水面下では和睦の話でも進んでいるのだろうか。あるいは……

 頭の中で、これまではわずかにはあったが、度外視していたことがある。


「善之助を呼べ」

 土井にそう命じ、一足早く居室に戻ることにする。

 この手の情報は慎重に扱わなければならない。間違っても、誰に聞かれるともしれない場所で大声で叫んでいいものではない。

 足早に歩きながら、湧き上がって聞きた「もしかして」という予感にかぶりを振った。

 安易な予測は危険だ。

 だがもしかすると、糸口を見つけたかもしれない。

 三浦との同盟がなくなれば、北条はますます弱体化する。

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― 新着の感想 ―
[一言] 転生初期に安土桃山時代(前期・後期)の知識は一般的な現代日本人準拠の最低限しか知らない事への言及があるし、読者への例えとしてノブヤボを出したと読んでて思ったけど変な受け取り方をした方が結構い…
[一言] >必要なのは第一に運 身内に命を狙われ続けた死にかけ庶子から大国の主に成り上がった戦国のシンデレラボーイが言うと説得力が違うw 天命に身をゆだねるしかないことが多すぎる時代ですから、天運に…
[良い点] そういえば孫九郎はそろそろ自分がどのぐらいの時代に居るのか認識したんでしょうかね ノブヤボに出て来る有名武将の名前聞かないから「桶狭間よりは相当前」ぐらいの認識なのかな
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