15-10 伊豆 下田湊7
「お勝様は、今川の殿様なのですか?」
改めて問われて、今度驚いたのは孫九郎のほうだ。
今更それか。そう笑おうとして、相手の声色がひどく真面目そうなのに気づいた。
飛丸と孫九郎の年のころは同じぐらいか、せいぜい一歳、二歳差だ。
一般的な十歳は、世の中の大抵のことは察することができるが、まだまだ子供といってもいい。
「そうだ。だが気にせずお勝と呼べばよい」
「いやそれはちょっと」
「出来ぬのか?」
「叱られます」
深夜、お互いの顔もよく見えないからこそ軽口も叩けた。だが実際のところ、二人の間に横たわる身分差は、尋常ではないほどに歴然としている。
「佐吉のところはどうだ? 上手くやっているか?」
「はい。とてもよくしてくださいます」
「この度はすまなかったな。夜の海に漕ぎ出すのは恐ろしかっただろう」
「いいえ」
きらきらと光る子供の視線が、真正面から孫九郎を見つめた。
「波よりも人のほうが恐ろしゅうございます」
それはつまり、下田での扱いのほうが辛かったということだろうか。申し訳ない。
飛丸はわざとなのだろう、もの凄く楽しそうな口調で小舟での冒険を語ってくれた。
幸いにも波はかなり穏やかで、船酔いすることもなかったそうだ。
「酔わぬのは本当に羨ましい。そうだ、今度釣りに行かぬか? 一度磯釣りをしてみたいと……」
近くでわざとらしい咳払いが聞こえた。
わかっている、孫九郎が親しくして良い相手ではない。そんなことをすれば、飛丸はたちまち大人たちの悪意に利用されてしまうだろう。
「釣りは下手なのです」
「そうなのか?」
つい、無意識のうちに語尾が跳ねた。
「その日の為に、うまくなっておきます」
おお、如才なくやんわり断られたな。
本人の意思もあって商家に預けたのだが、コミュ力的に向いていそうだ。
孫九郎は二度ほど首を上下させ、こういう若者の未来を潰さずに済んだことに心から安堵した。
「これから先のことについて、佐吉には何か指示を受けているのか?」
「興国寺のお店で待つようにと」
「そうか」
「必要そうなら、方々を小田原に案内するようにとも申し使っております」
「今のところはその予定はない。ではしばらくは今川軍に同行せよ。単独で興国寺に行くのは危うい。韮山が戦場になっている」
神妙に頷く飛丸は、何も言われなければこっそり下田を去るつもりでいたのかもしれない。今川軍に同行するのが安全だとは言い切れないが、子供がひとりで何日も旅をするなど危険すぎる。
だが……小舟か。
孫九郎は、月明かりにきらめく湊に目を向けた。
こうやって見ると、空より海の色が深く昏い。すぐそこにある入江すらわからないほどの闇だ。
飛丸の案内は問題外だが、十歳の素人の子供ですら乗り越えてきた穏やかな波だ、熟練の水軍の者たちなら軽々と越えていくだろう。
いや、一艘の無人に見える小舟ならまだしも、連なっていけばさすがに目立つ。当然警戒もしているだろうし。
そんな危険のただ中に、孫九郎とそう年齢も変わらない商人の子を連れて行くわけにはもちろんいかない。
孫九郎が黙って海を見ていると、飛丸も大人しく口をつぐんで同じように海を見つめている。月明かりにぼんやりと浮かぶその横顔は、まだひどく幼く見えた。
四半刻ほどの邂逅の後、部屋に戻って寝ようかということになったのだが、飛丸にはそもそも部屋が用意されていなかった。
わざとそうしたわけではなく、食事の世話と同じく、誰もそのことに気が回らなかったのだろう。
落ち着かないだろうが今晩は護衛の側で眠らせることにした。明日からは誰かに頼むことにしよう。
部屋の前で別れるとき、もの凄く深々と頭を下げられた。
それに軽く手を振ってこたえ、部屋に戻ると、いつの間に先回りしたのか弥太郎が控えていた。
「韮山からの知らせが来ております」
「承菊からか?」
いつもの呪物を想像して顔をしかめたのは孫九郎だけではないだろう。だがしかし弥太郎は首を横に振って、視線を隣室との仕切りに向けた。
わずかに開かれた襖の影は暗く、そこに誰かがいるのは察しが付くが、まったく姿は見えない。
背後で、廊下に続く部屋の襖が閉ざされた。
夜番の側付きが素早く火打ち箱を持って来て、灯明に火を入れる。
カチカチと打ち金を鳴らす音がして数秒、あっという間に室内がほのかに明るくなった。
灯明の光は極めて弱いので、隣室まで届きはしないが、目が慣れてくるとそこに大柄な男が控えているのがわかった。
ふわりと、それまではなかった匂いがした。
錆びた鉄のような臭い……つまりは血臭だ。
顔の見えないその男は、ひどく擦れた声で端的に報告をしてきた。
―――北条左馬之助殿捕縛。北条軍壊滅。
たった数語のそれらの言葉が、淡々と告げられる。
おそらくそうなるだろうとわかっていたが、ぎゅっと鳩尾あたりが強張った。
予想していたよりもかなり早い。それは承菊の策によるものか、北条の自滅か。
「……それだけか?」
問いかけると、男は無言で頭を下げた。
門徒らはどうしたのかとか、味方の被害はどれぐらいだったのかとか、その手の話はないようだ。それはつまり、報告するほどではない些事だということ。
「わかった。ご苦労だった。手傷を負うておるのだろう、ゆっくり休め」
影になって顔も見えない男は、瞬き数回する間に気配もなく消えていた。
後には血の匂いすら残らない。むしろ、火口が燃えた煤けた臭いと、灯明の油の匂いの方が強い。
これこそ忍びだと感心して、無人になった木襖の隙間を見ていると、「……あれは返り血です」と弥太郎が教えてくれた。余計な情報だった。




