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春暁記  作者: 槐
伊豆編

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14-5 伊豆 韮山城5

 孫九郎は腕組みをして目を閉じていた。

 もう数時間はそのままだ。貴重な時間が刻一刻と過ぎていく。

 迷っている時間などないのだ。

 だが、決断を下すには勇気が要った。

 小太郎は死ぬ気だ。片腕を失い、忍び働きはもうできぬと、最後の奉公のつもりで来たのだろう。

 左馬之助殿の命令ではないはずだ。北条殿か? 長綱殿か?

 孫九郎に会えたら殺せと言われていたはずだが、小太郎が選んだのは懇願だった。

 今は素直に縄につき、牢でおとなしくしている。

 片腕になったとはいえ、風魔小太郎を牢に入れても何の意味もないだろう。自由に牢を出入りしそうですらある。

 これでわかったのは、風魔衆が従っているのは北条殿かもしれないが、小太郎が仕えているのは左馬之助殿だということだ。

 これまで、どうしてあんなにも実の弟を警戒しているのか疑問だったが、ようやく理解した。

 風魔小太郎を家臣にしている有能な武官。しかも嫡流の実弟。

 北条殿にしてみれば、いつ寝首を掻かれるかという不安があったのだろう。

 相手は実の弟であり、本来であればもっとも信頼を置くべき身内のはずなのに。

 改めて現実の厳しさを突き付けられ、じくじくと胸が痛んだ。

 左馬之助殿は、例のあのがむしゃらさで突き進んでくるだろう。

 櫓から見えた農民たちも、雑兵たちも、知己である孫九郎のことですら、容赦なく切り捨てるだろう。

 手打ちにされた側室と娘は見せしめだ。逆らうと、残された者たちも殺すという恫喝だ。

 あの呑気で人の好い男を、武士の本分ではなく力で押さえつけようとしている。

 受け入れがたい気持ちと、所詮は敵だという諦観と。

 それが武家というものだと思いたくなかった。

 だが、奪い、殺し、力で支配するのが武家だ。たとえ身内であろうとも、邪魔なら排除する。そう考えるほうが一般的なのかもしれない。

 ゆっくりと目を開ける。しばらく虚空を見つめて、ゆっくりと視線を手元に落とす。

 これは戦争だ。全員が望むものを手に入れる事などない。だが……

「承菊」

「はい」

 意外なほどの近さで声がした。小太郎が控えていた室内。広さはあまりなく、襖を閉められているので薄暗い。

 八畳ほどの室内に、主だった者たちが無言で控えていた。

 かなりの時間が経過しているのに、皆動かずにいたらしい。

「北条を下す」

 誰も何も喋らない。真顔のまま、置物のように動かない。

 その中でただ一人、坊主頭の承菊だけがにこやかに微笑んだ。 


 とはいえ、すぐというのは無理だ。

 まずは左馬之助殿の伊豆攻めを凌がなければならない。

 承菊の事だから、諸々無視して策を進めるのだろうと思っていたが……違った。

「捕縛してしまえばよろしいのでは」

 少なくとも、孫九郎の意をくむつもりはあるようだ。

 だが敵大将を捕まえるという。あの左馬之助殿を? ……いや、父や村上殿に比べればまだ可能性はあるのか?

「暴れ馬も眠らせてしまえば仔馬のようなものです」

 よりにもよって、敵総大将を仔馬と称した承菊は、笑顔のまま続けた。

「門徒を逃す条件として、北条軍への仕掛けを依頼しましょう。なにも総大将を捕まえてこいとは申しません。北条軍を混乱させ、足を止めさせる……門徒お得意の錯乱です」

 確かに、そのあたりなら可能だろう。そもそも門徒が嫌われる一番の理由が、国ではなく教義で結ばれた敵と内応して動くからなのだ。

「小田原にいる左馬之助様の奥方や家臣らですが……」

 意をくむといっても、そこまで手を差し伸べる理由がない、敵の家族まで気にする必要はない。そのあたりの事を言うのだろうと確信していた。

 だが承菊はにこりと、さながら聖母のように微笑んだ。

「取り急ぎ、安全な場所まで逃すとしましょう。風魔衆がいないのであれば、さほど難しい事ではありますまい。風魔もそれを見越して投降したのでは」

 その慈愛に満ちた笑顔が怖いんだが。

「小田原を狙うには、時期がいささか悪うございます」

 異様なほどの笑みを浮かべた承菊は、ことさら優し気口調で続けた。

「小田原を落とした後には、房総や扇谷やそのほかの者たちと向き合う必要も出て参ります。まずは北条の弱体化を狙うのはいかがでしょう」

「左馬之助どのと風魔がいなくなれば、両手両足をもがれるようなものではないのか」

 いや、北条家には長綱殿や優秀な家臣も揃っている。左馬之助殿ほどはいかなくとも、武勇に優れた者も多い。

「北条などと御立派な名乗りをなさっておいでですが、所詮は下克上を狙い飼い主の手を噛んだ犬」

 お、おう。……急に話の風向きが変わったな。

「犬には犬なりのしつけが必要です」

 ものすっごい笑顔だ。音声ミュートになっていたら、ありがたい説法でもしていると錯覚しそうだ。

 視線をそらせたくとも、炯々と輝く双眸が逃がしてくれない。

「首に縄をつけられ、じわじわと締められる恐怖を味わって頂きましょう」

 比喩だ。……比喩だよな?

 孫九郎は背中に汗が伝うのを感じつつ、「そうだな」と相槌を打った。


 息詰まる城を出て、佐吉が兵糧を運び入れた湊に向かった。

 韮山城から目と鼻の距離、川を渡ってすぐの好立地だ。二年前にはまんまと三浦水軍に奪われた湊だが、荒らされてはいなかったので、最も復興が早かった町でもある。

 こんな時だから城からも兵を出し、厳重な警備付きでのお出かけだった。

 前回を踏まえて、相当数の兵が配備されていて、活気かあり賑やかだ。

 今は特に、巨大な商船が入港しているから、それを目当てに地元の商人などが興奮気味に集まってきていた。

「つまり、左馬之助様を捕まえるのですか?」

 狭い室内には入りきらなかった側付きたちが、不安そうに問いかけてくる。京での左馬之助殿を見ているのだ、気持ちはわかる。

「それは承菊に任せる」

 なにしろ、是非やらせてくれと名乗りを上げていたからな。任せて大丈夫かかなり不安だが、やりたいといっているのだからやらせてやろう。

 孫九郎の仕事は別にある。

 遠目に見守っていると、船から荷下ろしをしている一団の中から、見覚えのある小柄な男が進み出た。

 手を上げて合図をすると、まだ距離がある位置にいる今川家の御用商人、佐吉が丁寧に頭を下げた。

 ……最近、「困った時の佐吉」になりつつあるな。

時期が悪いというよりも、現在の伊豆にいる兵の数では、小田原まで遠征するのは不可能です

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 一向宗が大麻を使っているという描写ですが、何か歴史的根拠はあるのでしょうか? ないのであれば、その点はフィクションであることをしっかり前書きや後書きで説明しないとかなりの誤解を産みま…
[良い点] 孫九郎が決断して承菊もやる気になってきた事。 [一言] 承菊が小太郎や証如を丸め込んで、いろいろ悪だくみをしそう。 僧に忍びに一向一揆。うまく出し抜く事ができるのは誰?
[一言] 忍びが雇われ要素の強い時代の中でも比較的お抱えの要素が強い風魔が個人へ忠誠を誓うという点や忠義に篤い配下を持つ弟をうまくコントロールできないで妻子を人質にとって命令しないといけないとか当主氏…
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