2-2 遠江 掛川城9
夜中に寝間着から着替えるのは、随分久々な気がする。
孫九郎はぎゅっと元結を絞めてもらいながら、胸元に扇子を差した。
手伝いは三浦藤次郎と宿直の南だ。
夜番の南はともかくとして、三浦はまだ起きて側に控えていた。
ブラック勤務が当たり前なのはよくない。何度も改善しようとしてみたのだが、基本昼番は孫九郎が起きている時間は起きている。
つまり孫九郎が早く寝ればいいのだそうだ。
……それはそうなのだろうが。
「早田市之助が来たようです」
土井が若干の冷ややかさを含んだ声で言った。
早田殿、ではなく早田と呼び捨てか。そう言えば下級武士に格下げされたのだった。
孫九郎がそれについてあまり実感がないのは、あの尊大な態度が頭にあるからだろう。
土井が一礼してから、居室の襖を開いた。
孫九郎の立っている位置から、あの男の姿は見えない。
それはそうだろう。
早田は庭先に控えていた。廊下ですらなかった。土の上に直接、両手両膝をついている。
さながら下人、あるいは罪人のような体勢だ。
孫九郎が、さすがにこれは……と口を開こうとする前に、小柄な男が進み出て早田の背後に立った。
先程までは孫九郎の部屋の隅で、退屈そうな顔をしていた谷だ。眠そうな目から一転、獲物を見つけた猟犬のような目つきをしている。
孫九郎はそれを見て、そう言えば早田が異母兄千代丸の手首を跳ね飛ばしたのだと、改めてあの時の事を思い出していた。
つまりは、何をするかわからない人物として、要警戒対象なのだろう。
だが人目がある。この状況が馬廻り衆側に知られると、また余計なことを勘繰られかねない。
とりあえず上がれと言おうとしたが、谷が一瞬も早田から視線を離さないのに気づき、やめておくことにした。
谷が危険人物だと思っているなら、余計な隙を見せるべきではない。
優秀なうちの側付きたちが、人払いをしていないはずはなく、見られる心配はしない事にした。室内であればより密談しているように見えるだろう。
谷らの動きも制限されるのだろうし。
孫九郎は廊下の際のところまで歩いた。
この時代の建造物は、公家風から徐々に武家風に移行し始めている。
廊下に欄干はなく、縁側のような形状だ。
階段のある場所まで回り込まなくても、どこからでも室内に上がることが出来る。
便利は便利だが、それは味方側だけに言える事ではない。
「……久しいな。息災だったか?」
咎め立てしたそうな藤次郎らが口を噤んだのは、二年前から新規に側付きになっている者たちの目を気にしてだろう。
彼らにしてみれば、福島系列の家臣たちの態度が随分ぶしつけに映るようで、時折口論になっているのは知っている。
孫九郎にしてみれば、お前らこそもっとフレンドリーに接してくれと言いたいのだが、彼らの中でどう偶像化されているのか知らないが、声を掛けると、とんでもない勢いで畏まれて謝罪されるのだ。
……その話はまあいい。
孫九郎が声を掛けても、早田が顔をあげる事はなかった。
こいつが本心からそんな態度でいるとは思えない。
幸松を見送りに出た時の、あの目。
こちらを恨んでいるとかそういう感じではなかったが、相変わらずだなと感じた。
つまりは……幸松至上主義者の頑固者だ。
身分を落とされても、馬廻り衆にとっては英雄的扱いなのだとは聞いている。幸松より立場が強い千代丸の腕を切り飛ばしたのだ。忠義心は確かに大したものだ。否定はしない。
「顔をあげよ。話が聞きたい」
それでも顔を上げないでいるのは、頑固者だというよりも、そうしなければ孫九郎側からの叱責を浴びるからだろう。
今のこの立場の孫九郎に六年前のような態度をとっては、それこそ早田家、いやお葉殿に及ぶほどの問題になりかねない。
ちなみに早田はお葉殿の従弟なのだ。
「幸松の事だ」
だが、この一言でがばりと上半身を上げた。
効果覿面だな。
こちらを見上げる表情を読み取ろうとしてみるが、ひたすらに真剣なものだ。真摯といってもいい。
六年歳をとった早田の顔は、年齢以上の重みが積み重なっていた。
苦労したというよりも、荒波を乗り越えてきた男の顔だ。
「中山から何か聞いているか?」
中山というのは、福島家における馬廻り衆とりまとめの家……つまりお葉殿の実家だ。
「何かございましたか」
声も変わっていた。
声そのものというよりも、喋り方が、以前よりずっと重みがある。
恐れる様子もなく孫九郎を見上げる表情に、かつてはあった敵意などは感じない。
……これはなかなかだ。
「空気読めない男・早田」から「空気読み出来る男・早田」にバージョンアップしたのなら、もう少し様子見してからだが、身分を引き上げてやってもいいかもしれない。
幸松に対して、この男ほどの忠義を捧げている者はいないだろうし。
孫九郎の言葉短い説明を、早田は最後まできちんと聞いた。
成長したなぁ、お前。
「御処分頂いてかまいません」
だがしかし、聞き終えた後の台詞はちょっとアレだった。
「万が一にも、若君の御身に障ることがあってはなりません」
せっかく感心していたのにと、孫九郎は顔をしかめた。
「そういうわけにはいかぬ。目的が何かわからないのだ」
そこでちょっと言い淀むあたり、やはり人間的に成長したのだろう。
早田は孫九郎をじっと見上げて、何かを言いかけてやめた。
お葉殿のことだろうか。中山家、あるいは早田の実家の事を思ってだろうか。
「早田」
孫九郎は縁側に腰を下ろした。胡坐ではなく、ぶらんと足を外に出して。
それにはさすがに周囲も顔をしかめた。
靴下などない時代だし、足袋なども履かない。つまりは素足だ。
土井が素早く階にまわり、草履を持って走ってくる。
だがそれが届くまで、孫九郎はぶらぶらと足を揺らした。
「幸松の側付きに戻りたいか?」
早田の表情が能面のようになった。
なかなか面白い反応だと思いながら、土井が片膝をついて草履を履かせてくれるまで待つ。
鼻緒の位置もきっちりと、親指と人差し指の間の良い感じの位置におさまり、ようやく犬走の上に両足を降ろした。
誰も口を開かない。
だが、護衛たちの警戒心が否応もなく増しているのが伝わってくる。
孫九郎は両膝をついてこちらを見ている男に、数歩の距離まで近づいた。さらに一歩、歩を進め、顔を近づける。
谷が刀の柄に手を置いた。谷だけではなく、そのほかの護衛たちもだ。
だが早田は丸腰だ。隠し武器を持っていないかも調べただろう。
孫九郎は、微動だにせずこちらを見ている男の顎に、扇子の先を添えた。
「この孫九郎の為に働け」
中山や早田の為ではなく、お葉殿の為でもなく。
「悪い様にはせぬ」
扇子の先で、早田の喉ぼとけがごくりと一度、上下した。




