12-7 駿河 今川館7
小さなことだが、まるで小骨が喉に引っかかったように、気になって仕方がないことがある。
孫九郎は繰り返し見かける筆跡に、手を止める。
その報告書を上げてくるのは下級文官だ。
だが非常に達筆で、要点もよくまとまっている。
一度奥平に聞いてみた事がある。奥平もよくわからない様子で、調べておくと言っていたが、以降バタバタしていてその返事はまだない。
気になっているのは、文字の美しさだけではない。
書き方の作法に、覚えがあるのだ。
ひょっとして、という予感はあれど、究明しようと思うほど強い感情はわかず。
公的な報告書を見ただけで判断できることではないから、小骨のように引っかかっている、という状態が続いていた。
その書き手の正体が分かったのは偶然だった。
休憩がてら、遊びに来てくれた幸と庭を歩いていた。
少し離れた場所を通りがかった文官たちのうちのひとりが、不自然にさっと顔を伏せたのが目についた。
違和感を覚えたのは、孫九郎だけではない。
幸でさえ、不思議そうな顔をしてその集団を見送っている。
孫九郎はその男の背中をまじまじと見つめた。
背が高い、肩幅の広い男だ。文官というよりも武官向きの体格をしている。
背中を丸めているのはわざとか?
……いや、あの男は。
「藤次郎」
「はい」
「あれは松田殿の息子ではないか」
思わず詰問調になったのは、護衛たちにたいして警戒した様子がなかったからだ。
つまり知っていた?
京で最初に知己を得た松田殿は、不運にも死んでしまったが、その息子の九郎殿とも顔見知りになっていた。二年前はまだ少年の雰囲気を残した、育ちがよさそうな若者だったが……。
「九郎殿だろう」
幕臣であるはずの松田家の当主が、こんなところで何をしているのだ。
疑問は不審になり、何か知っている様子の大人たちをジロリと見回した。
隠すほどの何かがあるなら、むしろ逆に孫九郎に報告があっただろう。ということは、たいした事情ではないのだとは思う。
「口止めをされたのか?」
そうとしか思えずに問うと、藤次郎はちらりと松田九郎殿の背中を見て首を振った。
「いえ、我らが信濃に出ている時に今川館にいらっしゃり、下級文官として仕官されたとか」
「仕官? 誰かを頼ったわけではなく?」
松田家の当主だぞ。おそらくは階位も官職も持っている。
だが、孫九郎が信濃に行っていたときに来たのであれば、すぐに報告が上がってこなかったのはやむを得ない。
戻ってきてからもゴタゴタしていたし、そもそも九郎殿について誰も報告しようと思いつかなかっただけかもしれない。
それに……そうか、あの書類を書いていたのは九郎殿か。どうりで京風の言い回しが多いと思っていた。
「問題はないのか?」
たとえば、今川家の根幹をなす重要な部分を探るために来たとか……いや、そもそも孫九郎だけではなく大勢に顔を知られた男だ、間者の真似などできるはずはない。
「まだ仕官したてなので、ちょっとした文書の代筆やお手伝い程度の仕事しかしていないようです」
孫九郎はまじまじと藤次郎を見つめた。
松田家は、幕府の重臣であり名門だ。地方の小役人に顎で使われるような身分ではない。
そのような状況に甘んじている理由を、把握しておくべきではないのか?
そう問いたかったのだが、遠くで九郎殿が同僚たちと談笑している姿を見て黙った。
今川の機密を入手するためではないにせよ、何か目的があってここに来たのだとは思う。
孫九郎より先に気づいた連中がそのあたりは調べただろうから、当面の問題はないのだろうが……
「ずいぶんと優秀な御方のようです。八郎様が、もう少し重要な仕事を任せたいとおっしゃっておられました」
「いやそれは」
知られて困るような何かがあるわけではないが、今川家内の仕置きに深入りさせるのはどうかと思う。
おそらくは、いやほぼ確実に、今の職に長居はしないだろう。
やはり話をしておくべきだ。
孫九郎は文官たちに背中を向けてから、小声でそう命じた。
奥平はこの事を知っていた。
孫九郎が尋ねた後に直接本人から事情を聴き、むしろ率先して面倒を見ていたようだ。
「申し訳ございません」
深々と頭を下げる奥平の傍らで、同じように丁寧に両手を床についているのは、当の九郎殿だ。
謝ってもらいたいわけではない。
家内のことすべてを把握などできるわけがなく、そのための家宰なのだから、ある程度の裁量はあってしかるべきだ。
「事情がおありなのでしょう」
孫九郎がそう言うと、九郎殿は見覚えがある表情で苦笑した。
「京は、えらい変わってしまいました」
懐かしい京訛りも比較的薄い。
「旧臣はまとめてお役御免と相成りました。やむを得ぬことですが」
かつて権勢をふるっていた幕臣たちは総入れ替えになり、今京都は阿波細川家が優勢だという。
三好殿か。
時折交わす書簡では、子煩悩な父親の側面が垣間見える文面で、阿波公方の勢力を着々と伸ばしているのが伝わってきた。
阿波公方は若く、すべてを三好殿に頼っていると聞く。あの優秀な男ならば、不足なく務めるだろう。
そうか、治世の邪魔になり得る旧幕臣たちを京から追い払ったのか。
強硬手段をとった三好に反発して、京兆家側に移籍した者も多いだろう。
九郎殿が望むなら、三好殿へ口利きをしてもよい。孫九郎が頼めば、否とは言わないはずだ。そう言ってみたのだが、九郎殿は軽く首を横に振った。
幕臣でなくなったとしても、松田家にはそれなりの身代がある。食うに困るほどではないはずだ。だったら何故今川家に来たのか。
遠回しに聞いても仕方がないので、ストレートに質問してみた。
「当家としては、優秀な文官は喉から手が出るほど欲しいのです。九郎殿がこのまま務めてくれるのなら、もっと大きな職を任せたい。ですが……何か思うところがあって駿河にいらしたのでしょう?」
それに対して、九郎殿が差し出したのは一通の結び文。
大切そうに懐に潜めていたそれを取り出し、床に置く。
……何だ?
「松永からです」
孫九郎はぎょっとして息を飲んだ。
松永といえば、二年前に左馬之助殿について北条に仕官した男だ。
ずっと消息は聞いていなかったし、気にもしていないなかったのだが……
「死ぬ覚悟はあるが、妻子だけは救いたいと書かれております」
左馬之助殿付きならば、伊豆戦に出てくるだろう。
孫九郎はため息をついた。
表面上は、生活に窮して仕官した風に見せかけておいて、実際は友人の家族を救う機会をうかがっていたのか。。
「ほかに何もすることがございませんでしたので」
九郎殿は自嘲しながらそういうが、彼もまた、命を懸ける決意をしているのだろう。その表情は険しい。
何もかもが、伊豆に行きつく。
方々の支流から勢いよく水が流れ込み、時代という河の大きな流れがうなりを強めているように感じた。