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春暁記  作者: 槐
今川館編

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12-5 駿河 今川館5

 左馬之助殿の事情を知っても、どうすることもできない。

 もとより敵陣営の男だ。手を差し伸べるなど、むしろ格好の口実にされてしまうだろう。

 坊主どもの視線が、仔細漏らさずこちらを観察しているのが分かる。

 孫九郎は目を閉じ、ひそかに息を整えた。

 薄目をあけて見た証如の表情は、今に始まったことではないが尊大で、孫九郎を格好の玩具、あるいは都合の良い伝手だとでも考えていそうだ。

 目が合って、悪たれ小坊主が思わずといった風に含み笑う。それはまるで、悪戯の行く末を気にしてワクワクしているようにも見えた。

 遊びじゃないんだぞと、込み上げてきた反感を飲み込んだ。

「……つまりは何をお望みか」

「書面通りに協力してくれるだけでよい」

 間を置かぬ返答に、ため息がこぼれそうになる。

 その、「相模から逃げ出す門徒」の中に、左馬之助殿も含めてという意味だろう。

 だが当の本人が、逃亡など選ぶとは思えない。

 残りの奥方や娘さんたちが、人質となって小田原城にいるのだろうし。

 本願寺であれ、今川であれ、今の段階で小田原にまで手を伸ばすのは、いくら親切心からであろうとも、左馬之助殿にとっては迷惑だろう。

 少し困ったように眉尻を垂らす、モテ男の顔が脳裏をよぎる。

 同時に、荒ぶる猛将振りも思い出してしまい、ままならないものだと首を振った。

「門徒のことはわかりました。ですが、左馬之助殿は駄目です」

「……何故だ」

「そもそも投降はしないでしょう。北条を裏切りもしないでしょう。北条殿への屈折した思いがあるとしても、人質となった妻子を捨てることはできますまい」

 証如の表情が、ますます悪辣な笑みに歪んだ。

「はじけ飛ぶ寸前の鞘の豆だ」

「……はあ」

 意味を計りかねて間抜けな声がこぼれた。

「お勝、わからぬか」

 証如がこらえきれぬように笑い始めた。

 まるっきり、悪役の哄笑のようだった。

「豆ですか」

 言わんとしている事を理解して、思わず苦い表情を浮かべた。

 想像したのは、ホウセンカだ。豆というよりは種。

 小学生の頃に育てなかったか? ホウセンカの種は、軽く触れるだけではじけ飛ぶ。

「いい結果になるとは思いません」

「そうか? わしは上手くいくと思う」

 どうやら、白状していない何かがまだあるようだ。「上手くいく」という言葉自体が、裏で画策している証拠だろう。

 勘助も余計な仕込みをしてくれたものだ。悪辣な空気が漂うやり口は、あの男にとてもよく似ている。

 孫九郎はぐっと唇を引き結んだ。

 ここは止めるべきなのだろう。左馬之助殿があまりにも気の毒だ。

 奥方が惨死した件も、本当は本願寺の策だったのかもしれない。

 門徒を救い出すという大義名分を叶えるためなら、何をしてもいいと思っていそうだから。

 北条殿は左馬之助殿を伊豆戦に送り込んでくるだろう。

 妻子を人質に死地へと送り出す……胸糞悪いが使い古されたやり方だ。

 もしかすると、兵はほとんどが門徒なのか? 都合よくすり潰させるためにまとめて前線送りに?

まさか将が左馬之助殿だけという事はないだろうな。

「鞘がはじけるのが伊豆では、こちらの被害が増えるだけです」

 これ以上坊主が口を挟むなと、牽制のつもりで言ったのだが、証如はまったく気にした様子はなく肩を竦めた。

「いくらでもおぜん立てできる」

 露悪的な口調までも、どこかの誰かにそっくりだ。

 つまりは、悪辣小坊主が巻き起こす問題も、それ相応だと心構えをしておくべきだろう。


 坊主どもが正規のルートで引き上げるのを見送った。

 今日は駿府の外れにある寺で休むそうだ。

 明日また話をしに来ると言っていたが……用事があると逃げたら駄目だろうか。

「御屋形様」

 重苦しい沈黙を破ったのは奥平だった。

「付き合う相手は選ばれた方がよろしいのでは」

「……そんな気はしてきた」

 縁があってここまでつながっていたが、特になにか約定のようなものを交わしているわけではない。

 だが、さりげなく距離をおくというのも難しい相手だ。

 特に近年、門徒の数が指数関数的に増えてきているような気がする。

「弥太郎」

「はい」

 常と同じ口調で、部屋の隅に控えていた男が応えた。

 側付きの数が増えれば増えるだけ、この男が孫九郎の世話を焼くことはなくなったが、それでも視界の片隅にいてくれるだけで無意識に安心できる。

「相模は相変わらずか?」

「はい。風魔衆の警戒が強く、忍びは特に入り込めません」

 孫九郎が北条方の情報に後れを取ったのには理由があって、手を尽くしているがことごとく風魔に退けられているのだ。

 ピンポイントで今川の間者を見分けてくるので、おいそれと人員を投与できない。

 孫九郎はしばらく虚空を眺め、それから頷いた。

「承菊に返信を。出来るだけ足が速い者がよい」

 取り急ぎ、一連の事情を共有しておかなければ。

 坊主の相手は坊主に任せてしまいたいと思ったわけでは……いや、正直な所、是非ともそうしてほしい。承菊は嫌がるだろうが。

 運ばせた文机に向かって、迷いなく文字を書く。

 途中一度筆を止めて思案して、あとは一気に最後まで書きあげた。

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― 新着の感想 ―
御屋形様になって予算規模大きくなったからてっきり風魔全員直臣スカウト済かと思ってた…スカウト無理だったのかな
勘助と会わせない方が良かったですねぇ。 主人公は嫌がるかもしれないけれどまだ世間知らずのうちにこちら側の人物をつけて有利になるような教育を施しておけば良かったのに。
[一言] 面白いです!! 証如が嫌すぎて サックといなくなって欲しいと 思ってしまった。 本願寺門徒は、どーも好きになれない。
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