2-1 遠江 掛川城8
異変が起こったと気づいたのは、二日後の夜の事だった。
孫九郎の周辺で何かが起こったわけではない。
ただ、幸松につけていた忍びからの定時連絡がないと、弥太郎から知らせが上がってきたのだ。
寝る前、いつもの薬湯を飲んでいる時の事だ。
寸前まで父や志郎衛門叔父と一緒にいたのに、わざわざこの時間に伝えてくるのは意図的だろう。
孫九郎は、もはや自身の側近といってもいい忍びの男をちらりと見た。
非常事態の報告にもかかわらず、その表情はいつもと変わらず微妙な笑みを纏っている。
「……何かあったという事か?」
「幸松様ご一行の足であれば、まだ遠江国内です。それほど心配なさることでもないかと思いますが、遅れている事だけはお伝えせねばと」
つけている忍びの数は十五名だと聞いた。結構な数だ。
そのうちのひとりも手隙ではないなどありえない。
「遅れているだけなのは確かか?」
「確認に向かわせております」
何とか父を説得し、ともに駿府へ戻る約束を取り付けたところだった。
父にはそのまま甲斐国境へ戻ってもらいたい。
そこの圧がなくなれば、武田はより信濃へ目を向けそうな気がするからだ。
「詳しいことがわかってからお伝えしてもよろしいかと」
いや何かが起こったとわかってから動くのでは遅すぎる。
孫九郎はしばらく宙を睨み、息を吐いた。
「天野殿がどちらにいるかわかるか?」
「犬居城では」
天野殿には信濃国境を任せているので、おそらく本領のある主城にいるだろう。
「嫡男が元服したと聞いた。祝いに向かうのはまずいだろうか」
「……お喜びでしょう」
その、喜ぶというのは天野殿か? それとも父か?
孫九郎が向かうとなれば、父は嬉々として犬居城に同行するだろう。
犬居城は北遠にある。国境までは距離があるが、信濃へ向かうまでの最大の城ではある。
もっと北にもあることはあるが、あとは山深い土地なので、多くの兵を集めておけると言えばそこぐらいまでだ。
あとは……
ちらりと脳裏に、かつて岡部家に出城として預けられていたあの城が蘇ってくる。
天野奥山両家に主たる国境防衛を任せたので、今は使われていないが、兵を集めておくという点では出兵拠点になり得る城ではある。
いやいや、いくらなんでも出兵は先走り過ぎだ。
「信濃に入ってからも、海野荘までは遠い。道中がやはり心配だ」
二百では少なかったかもしれない。
十分話し合って、諏訪を刺激しない程度の数として一応納得はしたのだが。
考え込んでいると、ふと弥太郎の視線が天井に向かって動いた。
わかりやすく、知らせが来たと教えてくれたのだ。
「通せ」
「……よろしいのですか?」
「幸松らに何かあったのだろう。直接聞きたい」
本来忍びが主君の寝所に上がる事はない。孫九郎にしてみても、白い小袖の寝間着一枚の姿で他者を招くのは気が引けるが、とにかく急ぎだ。
しばらくして、その忍びは隣室の天井裏から室内に入ってきた。
もの凄く緊張した様子で、隣室との境の襖の影に控えている。
「近う。そのように離れていては声が聞こえぬ」
孫九郎がそう言い、弥太郎が重ねて促して初めて、その忍びは這いつくばるようにして寝所に入ってきた。
褪せた風合いの小袖に袴姿の、中肉中背の男だ。
ずっと顔を床に擦りつけているので、顔は見えない。
こういう連中に畏まるなと言っても無駄なので、省略した。
「それで、幸松はどうしている?」
無事かとは聞かない。無事でないなら、畏まるより先にその報告をしてきただろう。
ぼそぼそとした声らしきものが、床に向かってこぼされた。
いや、聞こえないから。
「もっと大きな声でしゃべってくれ」
こちらは忍びではないのだ。
そう注意すると、ぼそぼそ声がぴたりと止まった。
「……海野の忍びが」
そしてややあって聞き取れた言葉に、思わず眉間にしわが寄る。
とっさに襲撃をうけたのかと思ったのだ。
「数は」
「五十にございます」
忍びが五十人? いや全員が忍びではないだろう。
思い浮かべたのは、新之助殿の顔だ。あの男が迎えをよこしたのかもしれない。
いや、信濃の兵が堂々と国境をまたげるか? 海野家ならば叔父がいるから許されるだろうか。
「信濃を通って海野荘までむかうのは、道を選んだほうが良いとのことで」
なるほど、案内役をよこしてきたのか。
「随行の忍びを警戒して、当方も動くに動けず。申し訳ございませぬ」
「いや、こちらへの知らせよりも幸松の身が優先だ」
「追尾してくる者どもは排除いたしました。海野の方々も手を貸してくださり……」
「なんだと」
孫九郎の声が一段低くなった。
這いつくばったままの忍びが、びくりと全身を震わせる。
「幸松らの後をつけてきている者がいたのか?」
再び返答はぼそぼそ声に戻った。
聞き取れない。
弥太郎に視線を向けると、その表情も普段よりいくらか険しくなっていた。
「兵が三十ほどとのことです」
とっさに叔父、あるいは父の顔を想像した。ひそかに追加の兵をつけたのかもしれない。それにしては少ない気もするが。
「ほぼ全員が馬廻り衆とのことです」
だが、そんな希望的観測はあっさりと覆された。
誰何にきちんと答えてくれるならまだ良かった。その身元が分からないよう、彼らの身なりは浪人風、互いの口裏も合わせていたようなのだ。
「……何の目的で?」
身元を隠そうとしているのがいかにも怪しい。
良からぬことをしようとしたと、誰もが思うだろう。
忍びの男が、再びぼそぼそと何かを言って、弥太郎がひとつ頷いた。
「田所様より、許可願いたいとの申し出が」
「……待て」
田所の許可といえばアレだ。拷問系の尋問だ。
馬廻り衆にそれをしては、厄介なことになりはしないか?
「御身分を隠して何やら企んでおいでだったのでしょう? かまわないのでは」
弥太郎の基準は敵か敵でないかで、既にもう馬廻り衆は敵側なのだろう。
それは志郎衛門叔父も同様で、相手が敵ならば迷いなく許可を出すはずだ。
孫九郎はため息をつき、眉間を揉んだ。
「……今すぐ早田を呼べ」
おそらくあの男なら、何かを知っている。
六年間、前線で扱かれ、なお生き延びたのだ。父を怒らせることの意味を、十分理解しているはずだ。




