11-6 駿河 賤機山城ふもと 今川八郎屋敷
乳の匂いがする。
その何ともいえない甘い匂いに、居心地が悪いというか、居たたまれない気持ちがするのは、過去世を通して乳飲み子と関わることがほとんどなかったからか。
「抱いてやってくださいませ」
そう言って笑うのは、八郎殿の御正室妙殿だ。
出産を終えそれほど経っていないとは思えないほど、体調は良さそうだった。
源九郎叔父の奥方はまだ臥せりがちだというが、あちらはストレスの多い産前産後だったし、妙殿の場合は気がかりが全くない待望の出産だった。
比べてどうなるものではないが、産後はもう少し弱ってしまうものだとばかり思っていただけに、にこにこと輝かしい満面の笑みを浮かべる妙殿の、身なりも以前と変わらぬきっちりした姿に圧倒された。
「もうすっかりよいのか?」
「……母子ともに。ありがたい事です」
孫九郎の問いに答えたのは今川八郎殿だ。妙殿よりげっそりとやつれた風に見える。八郎殿が腹を痛めたわけではあるまいに。
赤子がふにゃふにゃとぐずり始め、慌てたのは男衆で、妙殿がさっと臥所から小さな我が子を抱き上げる。
迷いなくあやす姿は、もはや一端の母親で、出番のなかった乳母が微笑まし気な表情でこちらを見ていた。
「名づけは済んだのか?」
「勝丸と。御屋形様にあやからせていただきました」
ほほほ、と軽やかに笑いながら、妙殿がリズミカルに赤子の背中を叩く。
ぐずっていた赤子が次第に落ち着きを取り戻し、軽くゲップをしてすうすうと寝始める。
「ところで、牢が賑やかなことになっているとお伺いいたしましたが」
孫九郎は、相変わらずの妙殿に笑みをこぼした。
子を産み母となっても、長く今川館に根を張っていた彼女の影響力は健在らしい。
そのことで相談をしようと思っていたのだ。
もちろん出産直後の妙殿に対処を頼むわけにはいかないが、何か有益なアドバイスでもないかとあてにしていた。
瀬名と庵原の女衆の扱いをどうするべきか……放置しておくのは論外だが、「か弱い」女衆を処分してしまうのもちょっと。
「まとめて髪を落とさせてしまえばよろしいかと」
触りだけを軽く説明すると、妙殿はあっさりと結論を出した。
だが、ずっとそれを続けると、駿河が尼寺だらけになりそうなんだが。
「寺でよい暮らしをさせる必要はございませんよ。死んでいった者たちの菩提を弔いながら、日々清貧に尼僧として天寿をまっとうすればよい」
孫九郎は、妙殿の強烈な口調にたじろいだ。
そうか、長くこの地にいた妙殿は、もちろん瀬名庵原の女衆とも顔見知りか。
「……意地悪でもされたか?」
「さて、何をもって意地悪と申されるのでしょう。嫁ぎ遅れの行かず後家と嗤われ、子を持てぬなど気の毒と謗り……あくまでも噂話をばらまかれた程度で、実害はございませんでした」
これはひどく根に持っているな。
「言葉も時に刃となる」
「……ええ、ええ、その通りに御座います」
妙殿は莞爾と微笑み、勝丸を八郎殿に預けた。そこは乳母じゃないのか。誰もがそう思ったが、今この場で妙殿に逆らえる者は存在しない。
「女衆の扱いはお任せください。取り急ぎ田所で心底肝を冷やさせればよろしいかと存じます。特に手厚い世話などは不要」
「いや、妙殿はまだ身体を休めたほうがよい」
「御屋形様」
「はい」しまった、変な声が出てしまった。
「わたくし、やられっぱなしは嫌なのです」
孫九郎はまじまじと、光り輝く笑顔の妙殿を見つめた。
なるほど、男に生まれていたら堀越を倍の大きさにしていただろうと言われるだけはある。
ちらりと、赤子を抱えた八郎殿と目があった。
「恨みは買うものではないな」
孫九郎がそう言うと、軽い苦笑を返してきたが、それでも彼は幸せそうに見えた。
今の堀越家当主がもう少し大きくなり、後見の必要がなくなったら、この夫婦に瀬名の名を任せるのもいいかもしれない。
瀬名本家筋の妙殿ならば、どこからも不満は出ないだろう。
そしていずれ、一門衆として、今川家を支えてくれるだろう。
「妙が不躾な事を申しまして」
賤機山城のふもとにある屋敷を出るところまで、八郎殿が見送りに来てくれた。
すっかりいい夫振りも板についてきている。いや、尻に敷かれていると言うべきか。
「母子ともに健やかそうで安心した。妙殿が無理をせぬよう、気を付けてやれ」
「はい」と目尻にしわを寄せながら笑う男は、今伊豆で対北条との戦になろうとしている事を知っているはずだ。
結果がどうなるかはまだわからないが、このまま敵対し続けるようなら、いずれは北条家を潰す方向に考えなければならない。
北条家当主は八郎殿の実兄だ。会った記憶もないと聞くが、実際どう思っているのだろう。
屋敷を出ると、そこはもう駿府の街の郊外だ。
目をこらさずとも今川館が見えるし、視線を山に向ければ賤機山城大手門がある。
見上げる山城は今川館よりもよっぽど武家らしく、その城主である八郎殿も武士だということを思い出させた。
「八郎殿」
立ち止まり、城を見上げた状態で口を開く。
「……伊豆で大きな戦になる」
その言葉の意味はわかったはずなのに、「そうですね」と答えた八郎殿の表情は、穏やかなままだった。




