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16 陸の人魚

 僕らはツィーブラウで船を下りずそのまま旅を続け、母や大伯母のいるメルクヴェグまで行った。

 一人でふらりと訪ねていくことはよくあったので気にも留めていなかったのだが、予告もせず女性を連れてメルクヴェグ侯爵邸を訪れた僕は、周りからずいぶんと驚かれた。母などは久々の対面であるにも関わらず、挨拶よりもまずマリーナへの対応の悪さを指摘してきた。

「女性の旅に侍女もつけないなんて、何て気が利かないのかしら。育て方を間違えたわ。え、服もこれだけ?? ドレスはお嫌い? 身軽な格好がいいなら伯母様付きの侍女がいいわね。レヴィー! レヴィー、すぐに来てちょうだい!」

 父から預かっていた宝石箱を取り出す暇もなく、テンションが上がった母にマリーナを連れ去られた。母の姉妹やいとこも来ていて、母と一緒にはしゃぎながら奥の部屋へ移動した。メルクヴェグの館はいつにも増して賑やかだった。


 一人放置された僕は、大伯母の部屋へ向かった。

 一時は海辺の別荘で暮らしていた大伯母も、病に伏せるようになって今は本邸の一室にいる。

 三年ぶりに会う大伯母はずいぶんとやつれ、見るからに年を取っていた。食も細り、ここ一年はベッドにいる時間が長くなっていて、もう浜辺に足を向けることはないという。

 海が一望できる部屋で海風を受け、潮の匂いを感じて過ごす。手には届かないながらも、海を近くに感じながら暮らすことが大伯母の心の慰めになっているようだった。

「久しぶりですね、ヴェッセル殿下」

 身分に沿ったよそよそしい言葉遣いが、遠く離れた年月を思わせた。

「ご無沙汰して申し訳ありません」

「海で遭難したと聞きましたよ? あんなに泳ぎが達者でしたのに…。ご無事で何よりでした」

「海で溺れましたが、海に助けられました。生きているのが不思議です」

「まだお若いのですから、命は大切にしてくださいね。次に海に帰るのは、あなたではなく、私でなければ…」

「大伯母様…」

 ふと遠くを見た大伯母の視線の先には海があった。そして、そこには大伯母に見せるかのようにジャンプをするイルカがいる。僕が小さかった頃のイルカとは違うイルカだろう。大伯母は、今でも遊ばないかと誘われているんだろうか。

「…ヴェッセル、あなた、今日はどなたと一緒に?」

 僕が誰かといるところを見たわけでもないのに、急に大伯母がそんなことを聞いてきた。僕にはそれが何を意味しているか、何となくわかった。

「…大伯母様のように、海から来た人ですよ」

 大伯母の目がかつてのように輝いたように見えた。

「大伯母様にもご紹介したいと思い…、少し待っていてください」

 僕はマリーナを迎えに部屋を出た。


 マリーナは屋敷の女性陣に着せ替え人形にされ、半ば目を回していた。僕が呼ぶと侍女より早く反応し、よたつきながらも走って僕に飛びついてきた。

 それを受け止めると、周りからきゃっと歓声が上がり、冷やかすような目をむけられたけれど、気にせず、蝉のようにしがみつくマリーナを抱えたまま大伯母の部屋へと戻った。

 マリーナを見た大伯母は、声を詰まらせた。

「大伯母様。…今回一緒に来た、マリーナです」

 マリーナはゆっくりと僕から降りて、大伯母の差し出す手を握った。

 大伯母は、驚きながらも、安堵したような笑みを見せた。

「ようこそ。イルカ達がはしゃいでいました。姫様がいらしたと…」

 イルカの言葉を理解し、マリーナを見ただけで海の王の姫だとわかった。やはり、大伯母も人魚だったのだ。

「王は、…王はようやくご自身の娘と人との仲をお許しになられたのですね」

 大伯母の言葉に、マリーナは少し困ったような顔を見せた。

「… ワタシ エラブ マダ」

「まだ、お決めになっていない?」

 少し戸惑い気味にこくりと頷いたマリーナに、大伯母は

「そうですか…」

とつぶやくと、もう片方の手も添え、両手でマリーナの手を包み込んだ。

 マリーナの目に映っているだろう大伯母の手は、僕の記憶の中以上に痩せて、しわが増えていた。

「ご覧ください、姫様。手も、顔も、しわだらけでしょう? 人になればこのように年老い、次第に力が失われていき、やがて海に行くこともできなくなります。今の私はイルカに誘われても、近くに行くこともできません」

 遠くでジャンプしていたイルカは、いつの間にかいなくなっていた。マリーナの訪れを告げて帰ったんだろうか。

「私達は魔法のかかった薬で人の姿になれど、大地に戻ることはできません。命が尽きたなら最後は海に帰り、泡になるしかないのです。それでも…。それでもあなたは人になる気持ちはありますか」

 マリーナは、答えなかった。つながれた自分の手をじっと見つめて、何かを考えている。

「私は、愛する人の子をなすことができませんでした。あなたも同じかもしれません。私の夫は私の唯一の理解者でありながら、私を置いていなくなってしまいました。周りの人に支えられても、私はあの人のいない陸の上でいつも孤独でした」

 大伯母の孤独が、マリーナを揺さぶっていくように見えた。だけど二人の会話を止めることはできない。

 ふと見ると、孤独を告げながらも大伯母は笑っていた。穏やかに、全てを納得して。

「それなのに、どうしてか、私はあの人と共に生きた事を後悔していないのです。出会ってしまえば、離れて三百年を生きる方がよほど孤独だと思えて、共に生きた二十年こそ愛おしいと、今でもそう思っています。今は寂しくても、それもほんの短い間。いつか私が泡になったなら、空に上がり、雲になり、雨になり、土になったあの人の元に降り注ぐ日を夢見ているのです」

 マリーナはゆっくりと大きく頷いた。

「人でいることも、海の者でいることも、どちらにも幸せはあり、悲しみがあるでしょう。どうか姫様、よりよき選択を…」

 話を終えると疲れたのか、やがて大伯母は眠りについた。

 その姿を見守りながら、マリーナは黙って大伯母の言葉をかみしめているようだった。それがどんな答えを導き出すのかはわからない。


 次の日、マリーナは海岸近くまで来ていたイルカ達の元へ行くと、かつて大伯母がそうしたように、岩場から勢いよく海に飛び込んだ。僕もその仲間に入れてもらうことができた。

 イルカ達に触れるなんて何年ぶりだろう。

 マリーナは、部屋から見守る大伯母に手を振ってみせた。

 遠くから大伯母が笑いながら手を振り返すのが見えた。

 その顔は、イルカと共にいるマリーナを羨むこともなく、凪いだ海のように穏やかだった。まるでマリーナを通して一緒にイルカ達と戯れているかのようだった。


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