15 縁
その答えを待っていたのは、僕だけではなかったようだ。
突然海に大きな渦が巻き、その中心部から浮き出るように大きな男が現れた。
頭に冠を頂き、神話の時代を思わせる薄い衣をまとい、立っているだけで感じる威圧感。…海の王、海神だ。
海神はマリーナに目をやり、続いて僕に侮蔑的な視線を投げつけてきた。
「まだ殺してないのか」
人とは違う、深く響く声。
「コロス ナイ」
マリーナの口の動きに合わせて、ペンダントの言葉が語ると、海神は大きく溜息をつき、
「殺さぬのか…」
そうつぶやいて、目を伏せた。
僕は深い礼で敬意を示した。人ではない、人を超えた海の神に。
「海の王のご尊顔を拝し、光栄にございます」
「ふん。人間など、とっとと殺されておればいいものを…」
人と人魚が接するたびに、王自ら人魚の決意を聞いているのだろうか。殺されなかった僕に、嫉妬に似たような目を向けた。僕の命一つでとっとと終わりにしたかったのかも知れない
「人魚が殺さぬと決めたなら、約条通り、縁を結ぶ事を許さぬ訳にはいくまい…」
殺す、殺さぬを決めるのは人魚。そして、マリーナは、殺さない、そう決めた。海の王であっても、僕らを引き離すことはできない。
それを知っていたからこそ、海神を前に僕は笑顔で立っていられる。
「だが、気に入らないと思ったら、さっさと人魚に戻るがいい。その時は…殺そうとも、殺さずともよい。おまえに任せる」
僕はマリーナの肩に手をやり、そっと自分の元に引き寄せた。
「ありがとうございます」
僕がしたことは挑発行為だったかもしれない。しかし海神は苦々しい顔をして僕を睨み付けただけで、僕を害することはなく、
「まだ人に託すと決まった訳ではない。半年後、再び見えよう」
そう言って、海の世界へ去って行った。
「失礼」
気がつけば、僕の隣に深い紫色のローブを着た謎の生き物が立っていた。
僕の腕に浅く刃物を当てると、流れ出る血を小瓶に一本分取った。不思議と大した痛みはなかった。
謎の生き物は、恐らく笑顔だろう表情を見せながら、マリーナに語りかけた。
「これで『人魚に戻る薬』と『完全に人間になる薬』を作れるよ。どっちを使うか決めたら、もう一方の薬は買い取ってやるからね。ただし、完全に人間になったら、もう戻れないからね。よーく考えて、結論をお出し」
その謎めいたおどろおどろしい姿には似つかわしくない、世話好きでおせっかいなばあさんのような語り口だった。
ローブを着た者が指で傷をなぞると、傷は瞬く間に塞がった。そうしながらマリーナに聞こえないよう、僕の耳元で
「この子はまだ人じゃない。…何かと早まるんじゃないよ」
と告げると、けっけっけ、と下品な笑い声を上げた。
そしてその姿は霧になって消えていき、明るく照らす月の下、僕とマリーナだけが残されていた。
マリーナはまだ完全な人ではない。人になるか、人魚に戻るか。それを決めるのは半年後。
例え海の世界に戻ることになっても、泡になって消えるのではないと聞いて、少し安心した。
窮屈な靴を履き、服に縛られて生きる生き方を、マリーナは選ぶだろうか。
もし人になることを選ばなかったとしても、大伯母がイルカのもとへ走って行ったように、マリーナが呼んでくれるなら、僕はいつだって海に飛び込んで会いに行く。
どちらを選んでも、僕らの縁が切れることはないだろう。




