1 人と人魚の約条
おなじみ「人魚姫」の物語を過去の逸話としたところから始まる話です。
まだ幼かった頃、夏になると南部の都市メルクヴェグに住む大伯父夫妻のところに遊びに行くのが楽しみだった。
大伯父の家は海の近くにあり、海辺にイルカを見かけると、大伯母は手を振ってかけていった。長めの外套の下は貴族とは思えない軽装で、海に近づくと外套をその場に脱ぎ捨て、高い崖から躊躇なく海に飛び込み、イルカ達と戯れていた。イルカ達は大伯母を遊びに誘いに来ていたのだ。
僕も一度だけ、一緒に遊んだことがある。
少しゴワゴワしたイルカの皮膚に触れて、ひれにつかまってまたがり、ジャンプに思わず手を離すと、沈んでいく僕を背中に乗せて岸まで運んでくれた。
周りを海に囲まれたこの国では、海の加護なしでは生きていけない。
「特別なことはしなくていいの。大地を愛するように、海も愛してくれれば」
自分を海から来た人だ、と言う大伯母の話を、周りの人達は
「また始まった…」
と笑っていた。だけど大伯父と僕だけは、大伯母は本当に海から来たに違いない、そう信じていた。
大伯父と大伯母は二十才ほど年が離れていて、奔放な大伯母の生き方を受け入れられない者も多かった。しかし大伯父と大伯母は互いを敬愛し、いたわり合い、仲睦まじく暮らしていて、僕は幼いなりにこんな風に共に生きる人を見つけ、生きていけたら、と憧れを抱いていた。
ある日、集まった親戚の子供たちに、大伯父は王家に伝わる一つの伝説を教えてくれた。
昔、この国の王子が船で遭難した。
打ち上げられた浜辺で世話をしてくれた人を命の恩人だと思い、感謝の気持ちはやがて恋心に変わった。しかしその人は修道院に住む人であり、王子はその人への思いを募らせながらも胸に秘めるしかなかった。
ある日、王子は一人の乙女を浜辺で拾った。乙女は口もきけず、歩みもおぼつかない様子だった。王子はその乙女の面倒を見ることにした。その理由は、恩人に似ていたからだった。
乙女は王子に恋をしていた。いつか本当の自分を見てくれると信じ、ささやかな期待を胸に、王子のそばにいることを願った。王子もまた乙女がそばにいることを許したが、乙女を妻にする気はなかった。ただそばに置き、かわいがるだけの存在。愛しい恩人の代わりに過ぎなかった。
やがて、王子に隣国から縁談が来た。その相手はあの時の恩人だった。隣国の王女が行儀を学ぶために修道院にいただけだったと知ると、王子は迷うことなく結婚を決めた。愚かにも、すぐ傍にいる乙女にもその喜びを伝えるほど浮かれていた。
忘れられた乙女は、王子を殺せば元の生活に戻れることを知った。しかしその道を選ぶことなく、王子に気付かれぬままに船から身を投げた。その体は泡になり、二度と見ることはなかった。
似ていたのは、恩人と言われた人間の方だった。
荒れ狂う海から浜辺まで王子を運んだのは乙女の方であり、乙女は人魚だった。王子に会いたいがあまりに人になり、王子に寄り添ったが、想いを伝えることもかなわず、傷心のまま消えてしまった。
やがて、乙女の父である海の王が現れた。
娘を死に追いやった人間を恨み、罰を与えた。海からの恵みを絶ち、船出もできず、高い波が陸地を削っていった。
しかし、それが乙女の願いではないことは父王も知っていた。父王は二月かけて心を静め、やがて海は凪いだ。
海の王は人と海の国は相互不可侵であることを改めて宣言した。
娘の命を摘み取った人間の贖罪として、人魚と人が出会ってしまった場合、人魚には人を殺す権利が与えられた。例え殺されても、人はそれを受け入れなければいけない。それは一方的な約束だったが、海の王は有無を言わさなかった。
ただし、人魚が人の死を望まず、人との友好を願うなら、その縁は保たれ得る。人と人魚が共に願い、共に望むなら。
この約条が結ばれてからも、ごくまれに人と人魚が巡り会うことがあった。それは数十年に一度あるかないかだったが、人が命を落とすこともあれば、人魚と縁を持ち、共に暮らすこともあったという。
どのように縁を持ったかは伝えられていない。しかし、人魚が人の世で暮らす間、海の恵みはもたらされ、国は豊かになると言われている。
ただの架空の物語。そう思っていたのに、大伯父は語り終わると、僕だけに声をかけてきた。
「おまえに興味があれば、王室の文書室を訪ねるといい。そこには我が国と海の王国との約条が残されている。王子であるおまえなら、その気になれば見ることができるだろう」
そう言って、僕の頭を大きな手でくしゃりと撫でた。
十二才を過ぎ、文書室への出入りを許されるようになると、他の文書を確認する傍ら、海の王との約条の文書を探した。
大伯父の言うとおり、その約条は実在した。
百五十年以上前に交わされた約条は、当時使われていたものよりずっと古い文字で、見たことのない風変わりな紙に書かれていた。長い間誰の目にも触れられず、ほとんどの人が忘れているだろう。
しかし、この約条が残っていることで、この国のそばに広がる海には海の王が治める海の国があり、そこには人魚がいるのだと、その存在を信じて疑わなかった。
やがて、大伯父が亡くなると、子供がいなかった大伯父の家は母の姉の子供が継ぐことになり、大伯母は海に近い館に移ったと聞いた。
僕にも徐々に王家の人間としての仕事が与えられるようになり、毎日を忙しく過ごすうちに、メルクヴェグへ行くことも、海に遊びに行くことも少なくなっていった。
そのうちに他の周りの者と同様に、海の国も人魚も遠い昔に作られたおとぎ話程度にしか思えなくなり、あの頃の海への特別な憧れは、子供特有の好奇心が抱かせた夢想だったと納得するようになっていた。
気がつけば、窓から見える青い世界を目で追っているにも関わらず…。