『1』
私を見るゆかりの瞳。涙が滲んでしまったのは、きっと私のせい。
でも何かおかしい。ゆかりの涙は私の苦しみだったのに。いつも心が破れそうだったのに。
いまの私にはー。
「大丈夫?」
ゆかりが心配しないように、笑顔で答えなきゃ。優しい微笑みで『ありがとう』って言わなきゃいけないのに。
私、いつもどんな顔していたっけ。笑顔って、どうやって作ったっけ。
たしかに知っている。こんな時は、笑顔で向かい合う。でも、どうやって笑うのか、どんな顔すればいいのか。何一つ、わからない。
「本当に大丈夫だよね、あかりん…?」
覚えよう。覚えるんだ。昔の私を、その反応を。いちばん似ている状況を、その時の記憶を思い出すのよ。
記憶を全て探ってもいい。ただ慌てず、焦らず、自然に反応しよう。
ゆかりが驚かないように。思わずあなたを傷つけないように。
今の努力を、『無価値』だと、思わないようにー。
「うん、大丈夫。平気だよ。」
ごめん、ずっとあなたを騙してたの。
実は私、あの日から笑う方法なんか全部忘れちゃってー。
「先輩!」
「ひゃあっ!?」
あれ、ここは、たしかにー。
「先輩、大丈夫っすか?悪い夢でも見ましたか?」
「夢…?」
「はい、居眠りをなさったようです。」
居眠り?じゃ、今のは夢…?
おかしい。眠くなかったのに、突然、瞼が重くなって、あの夢を見て…。
いや、それって、本当にただの『夢』なの?
「ゆかりさんは荷物を片付けています。」
「荷物?」
「はい。帰らなくてはいけないですから。」
「帰る?どこに?」
「もちろん、先輩の居場所ですよ?」
「私の…?」
「家族がまってる、先輩の在り処、帰るべき場所に!」
そんなこと言われても嬉しくない。だって、私の記憶の中に『家族』はいないから。安らぎの場所も、帰るべき所も、私は覚えてないから。
だから当然のこと。笑顔ができない私も、私より喜んでる女の子も。嬉しすぎて喜びを隠せない女の子。見ていると私の家族ではなく、むしろあの子が家族に合うような気がする。
「あかり。」
部屋に入ってくるゆかりは目が充血していた。泣きはらしたまぶたがまだ赤い。ゆかりが持ってる二つのスーツケースは、まるで双子みたい。
「帰ろう。」
ゆかりは私の手をはなさなかった。まるで、手放すと消えてしまう泡をつかまってるように。
「伯父さんはあなたをずっと心配してくれた。でも、お祖父さんはまだ怒ってる。あ、でも、悪い人じゃないわ。ごまかしもすぐ納得してくれたし。」
私の家族なのに、説明を受けるなんて。おかしいけど、実感することが出来なくて。教科書を読むようにただ暗記する。
今の私は行方不明ではなく、アメリカに留学したことになっている。これも全部、アメリカの伯父さんのおかげ。伯父さんはなにも聞かず、協力してくれたみたい。
お祖父さんは心配が溜まったら怒りになる性格で、まだ怒っているらしい。私とゆかりは双子で、お祖父さんに育てられてる。
そして、私達の両親は、遥か昔になくなった。
「しばらく休んだらきっとー。」
突然鳴った着信メロディがゆかりの言葉を断ち切った。
「もしもし。」
ポケットからスマホを取り出したゆかりの右手。でも、左手はずっと私の手を取っていたから、左のポケットのスマホを右手で取り出すため、スマホを落とすところだった。
「はい、先生。ご心配なく。無事に帰国しました…。登校?明日から?」
私を見るゆかりはかなり困惑していた。よくわからないけど、『登校』ってやつが悪そう。
「いや、その、ちょっと、病気と言うか、説明しづらい状況がー。」
ゆかりは突然大声を出す。まるで、怒ってるみたい。やはり『登校』って、倒すべき敵、なの?
「そんな、無理です、しばらくは、って留年!?」
ゆかりが完全に青ざめた。はたして『留年』は、『登校』より怖い敵なのかな。
「はい、わかりました。」
ゆかりの顔色がわるくなった。なんだか胸がチクチクする。
「あのね、あかり。」
ゆかりはかなり困ってるみたい。やはり戦いの事なのかな。
よく覚えてないけど、記憶を消されて、戦われた事は知っている。その相手が、彼女たちであったことも。
ゆかりたちに誤りたい。償いたい。私に出来ること、ないかな。
「明日から、学校、行ける?」
「学校?」
「これ以上欠席したら、出席日数が足りないって。」
「ゆかり先輩。それって、もしかしてー。」
「留年ですか!?」
『留年』の意味はわからない。でも、今のゆかりはすごく悲しそう。だから励ましてあげたい。大丈夫って言ってあげたい。
あなたを触ることが私なんかに出来るなら、この手で頭を撫でてあげたい。
でも、手をあげた時、呪縛にかかったように、体が動けなかった。感じるのは、魂が縛られている痛み。
ー僕以外の人に、愛情を見せるな。
(うっ、頭痛が、頭が痛い…!)
変な音が頭の中で鳴る。糸で操られてるような、いやな感じがする。
(それより、私、今何しようとしたっけ。)
なんで手を上げていたんだろう。あげた手をじっと見ても思い出せない。先も同じ違和感を感じた気がするけど。これって、まさか私の癖なのかな?記憶はなくても、体は覚えているの?
「先輩?」
「いや、なんでもない。」
仕方ない。今は思い出せないから、ただ、手を下ろすだけ。
「そうか、わかった。」
スマホをポケットに入れたゆかりはまたわたしの手をぎゅっと握った。ちょっとだけ困る。こんな温もり、慣れてないから。
「心配しないで。制服はちゃんとー。」
「学校?まさかあの様で?」
いつのまにか入ってきた小さな女の子がこっちを向いた。ちっちゃな女の子だけど、やはり目が怖い。
「あんた、正気?」
あの子、たしかにナルって言ったよね。年上に呼び捨てか。自信満々だね。圧倒的な気配を感じる。
「勉強ぐらい、私が手伝ったらー。」
「そういう問題じゃない。やっと取り戻したのに、また狙われたらどうするの?」
腹立てるナルは怖い。でもおかしい。全然不愉快ではない。むしろ、心配されてる感じ。なんだか嬉しい。
「大丈夫、大丈夫なはず。」
でも、そんなこと言うゆかりは、すごく不安そうだった。
「そうですよ、先輩!」
いつのまに近づいて、目をきらきらして、私の手を取る女の子。ずっと私のこと『先輩』と呼んでるけど、それってどういう意味なの?
「心配しないでください。わたしがついていますから!」
皆に見られてるのに、手をはなしてくれないから、なんだか恥ずかしい。目を逸らしても、視線がついてくる。
「そのとおりです。わたくしたちがついていますので、ご心配なく。」
美月って呼ばれる少女が微笑んだ。同じ年だと聞いたのに、誰にでも敬語を使う、不思議な少女。誰にでもタメ口であるナルとは正反対。
「どうか心配しないでください、先輩!」
「あ、ありがとう。」
「へへっ。」
「で、そのー。」
苦しめるつもりではなかった。ただ、あなたをなんと呼べばいいのか、それがわからなくて。だってあなたは、赤の他人だから。
「あなたの名前は?」
ショックを受けた表情をしていた女の子は、少し慌てて、すごく傷ついて、でも現れる寸前全てを隠して、明るく笑った。
「ああ、そうですね。先輩はまだ、記憶が曖昧ですから。私のこともー。」
「ごめんなさい。」
「いいえ、大丈夫です。私は春日野そらです。」
「そら?」
「はい。どうか…。」
むりやりに笑う目。引っ張られた唇。どう見ても、不自然な笑顔。
「今度は忘れないでください!」
漏れる本音を隠すため頑張るあなたは、とても痛そうな顔をしていた。