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ヤマダヒフミ自選評論集

オスカー・ワイルド「獄中記」について

 オスカー・ワイルドを読んでいました。「ドリアン・グレイの肖像」「サロメ」といった代表作を読みましたがいずれも傑作だと思います。

 

 ワイルドは今から見ると古風なくらい倫理的だと感じます。少なくとも作品内ではそうです。「ドリアン・グレイ」も「サロメ」も、美に執着した個人が道徳的な罰を受ける話と解釈できます。美・退廃という組み合わせはボードレールなんかも追求しましたが、そうしたものは、それまでの秩序体系、つまり神への反逆という思想を含んでいるのではないかと思います。それが近代であるという風にも言えます。これが日本にやってくると、例によって趣味的な産物になってしまうという事があると思います。

 

 ワイルドに「獄中記」という散文があります。私がワイルドに最初に興味を持ったのは「獄中記」からです。ある視点からすれば、「獄中記」こそが最高傑作だと見れそうです。あるいは最高傑作は、「獄中記」の後に書かれるべきだった。ワイルドがもし、牢獄を出て、どっしりした作品を作るだけの体力・精神力を兼ね備えていたなら、もっと大作家になったかもしれません。そのあたりはドストエフスキーと似ている所があります。ですが、ワイルドはそこまでは生きられませんでした。

 

 「獄中記」に書いてある事を読むと、何もかも真実だと思います。最近、考えている事は表現というのは、生に対して転倒したものだという事です。つまり、表現というのはそれ自体、逆説なのです。

 

 こう考えると、私にも色々なものが多少は理解できるものになる気がします。つまり、余人があまりにもくだらない作品を平気で面白いといい、崇めている事。これは、彼らが作品の独立的価値を求めてやっていると考えるとすると、あまりにも不合理で、ありえない話になってきてしまいます。しかし、彼らが自分達の生の補助物として作品フィクションを求めていると考えると、理解しやすくなります。

 

 ワイルドから離れますが、簡単に説明しておきましょう。私は以前に、現代のある哲学者の本を読んで、その結論部で「家族は大切だ」と言っているのを見て唖然とした事があります。そんな事を今更言ってどうなるのだろうか。そんなものが哲学の結論だったら、書いて発表する事に何の意味があるのだろうか、と。

 

 しかし、後から、別の見方もできると思うようになりました。その哲学者はきっと、本当に家族思いのいい「お父さん」なのだろう。そうして子供と遊んで心底楽しくなれるいい人なのです。

 

 その哲学書それ自体を単独で読んでも、まっとうな哲学書にぶつかった人からすれば馬鹿馬鹿しくて読めたものではない。この確信そのものは今も変わっていません。ただ、こう考えられるのではないか。例えば、私がその哲学者と仲が良くて、子供と遊んだ事もあり、奥さんの顔も知っている。愉快な、優しい家族だと知っている。そうなると、哲学書の凡庸な結論も面白い、意味のあるものになってきます。「家族が大切」と言われた時、彼の家族が目の前に浮かび、現実に存在する人間は常になんらかの意味を持っていますから、足りない意味をいわば、現実の生が補ってくれるのです。

 

 そうして、今生きている人はみなそのようなものを求めている。つまり彼らは、生に対して対立的に、超越的に現れる傑作を必要としているのではなく、自分達の生を補強してくれる結論や芸術作品を求めているのだ、と。


 こう考えると、色々な事が私のような人間にも理解しやすいものになってきます。人々が常識といい、健全といい、普通といい、そうしたものに浸り、現にそうであるにも関わらず、フィクションの世界に飛び出すと実につまらない作品を喜んで受け取る。そこには表現そのものが生に対して対立的なものとして現れるという構造があり、一流の芸術家や哲学者らはみなこの道を歩んだと思えます。つまり、生そのものが転倒して見えるほどにフィクションにのめりこみ、それに価値があると信じ、打ち込んだ。だからこそ、そうした作品は時流の流れに抗して残っていく。時流とは我々の生の入れ替わりですから、我々が必要なくなった時には、生の補助を果たしていた作品も同時にいらないものになります。しかし、最初から生に対して超然と、いわば自己に無用の烙印を押した上で、その上で作られた作品というのが、時流に抗する事ができるのではないか。表現は逆説的というのは大体そういう意味です。

 

 ※

 

 この話をもっとすると長くなるのでこれくらいにして「獄中記」に戻ります。「獄中記」に書かれている事は、私は真実だと思います。みな本当の事だ。嘘など一つもない。しかし、それが真実である事は、誰の目にも見える明快なものではありません。真実はそこにたどり着く為の道筋というものを必要とします。そうしてスタートラインから見ている人にとっては、この真実は倒錯的なものに見える事はありうるという話です。真実というのは、それを得るのに払う犠牲というものがあり、それを回避する人には真実は意味のないものや間違ったものに見えたりします。しかしそれを説明する言葉というのは、結局はありません。一冊の本を理解するにも一生を必要とする。これは私には普通の事に見えますが、この事も、皮肉であるとか風刺であるとか取られかねません。誰かが言っていたように、道を教える事はできても、歩くのは結局その人なのです。

 

 「獄中記」の内容に、やっと入る事ができそうです。しかし、実際の所、これ以上、言いたい事はそんなにありません。試しに二、三あげてみます。

 

 『繁栄、快楽及び成功は、いずれも肌理のあらい、繊維のような月並みのようなものであろう。しかし悲哀はありとあらゆる創造物の中で、最も感受性の鋭いものである。』

 

 『悲哀のあるところには聖地がある。いつか人々はこの意味を身にしみて悟ることであろう。それを悟らないかぎり、人生については全く何事も知ることができない。』

 

 こうした言葉はすべて本当だと感じます。すべて真実だ、と感じます。

 

 しかし、人はこう言うかもしれません。「それを悟らないかぎり、人生については全く何事も知ることはできない」というのは言いすぎだろう。そんな事はないだろう、と。

 

 しかし私は真実だと思います。問題は、ここで言われている事が正しいかどうかではなく、そう感じるようになったプロセスの方なのです。この過程そのものを教える事は不可能ですので、結局の所、この言葉は無意味とも言えます。しかし自分の足で歩こうという人間にとって、例えば登山のマップは随分と役立つでしょう。先に登頂した人間の言葉は随分意味のあるものでしょう。ここにおいて、登山に意味があるかないかという議論は無意味です。猫にマラルメの詩の価値を解き明かす事はいつまでたってもできないでしょう。

 

 ワイルドは「獄中記」でキリストを褒め称えています。これも西欧の知識人の典型的な老い方とも見えますが、そう理解すれば失われるものこそが大事だと思います。結局、理解するというのは難しいし、究極的には理解するとはその人になる事だと私は思っています。しかし、その人になるとは不可能ですし、ワイルドになるとはワイルドの人生を生き、彼の脳髄を持つという事を意味します。ですが、それはまさにワイルドという一人の人間でしかなく、そんな人はこの世に一人しかいなかった。その事こそが理解というものの難しさを教えるし、また理解しようとする事の重要性をも我々に教えてくれる気がします。


 確かに、ワイルドの「獄中記」は、断片的な思索が書いてあるだけであり、いきなり理解するのは難しいでしょう。しかし、この本を理解するとは、概念として理解するのではなく、一つの生の共振として理解する。そういう理解でないと、理解とは言えないのではないか。最近は、そういう事を考えます。


 結局、ヤマダヒフミの中の語り得ないものと、オスカー・ワイルドという人の語り得ないものとがうまく共振すれば私はそれを「理解した」というように感じる。言語は語り得ないものと語り得ないものとの媒介でしかない。批評は、共振・共鳴というような形でしか究極的には不可能だ。なぜなら、人は自分が見えるものだけを他人に見るからで、公式的な基準で世界を割る事は可能ではない。科学は世界を等分に割ったが、それは科学が世界を計量可能な存在だと前提したからであり、語り得ない『我』として生きる人間はその先の思考に行き着かねばならない。しかしこんな事もまた別の共振体がなければ、伝わり得ない。「獄中記」のような小著を理解するにも実に骨が折れる。しかし多分、そんな所にこそ古典の価値があるのだろうと思います。



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