1 見目麗しい魔王様
「魔王陛下がいらしたぞー!」
人魔大戦の休戦協定から百年が経ち、魔人は伝承の存在になりかけていた。だが、突如魔人国アルシエルの使者が訪れて平和協定が結ばれたのだ。今日はその調印式であり、魔王がクレア王国を来訪したのである。街には勇ましい音楽が鳴り響き、王都はお祭り騒ぎだ。輿に乗って進む魔王を一目見ようと人が集まっており、訪れた平和に歓声をあげていた。
「あぁ、もう! 見えない!」
人垣の中にぴょんぴょん跳ねる茶色い頭が一つ。セシルは後ろから見るのを諦め、人をかき分け前へと進む。そして輿が見える最前列まで出た瞬間、息を飲んだ。
「きれい……」
息をするのも忘れ、ただその美に圧倒される。
腰まで届く銀色の長髪は絹のように艶やか。流れるように外に向けられた瞳は真紅で、魔人の特徴である少しとがった耳。動いていなければ彫刻と見間違えるほど完璧な造形で、その美貌を目にして倒れる人が出るほどだった。
レオ・アルシエル。美の結晶と称えらえる、若き魔王だ。
「描きたい……」
その美の化身を目の当たりにしたセシルは、胸のうちに沸き起こった衝動に驚く。セシルは宮廷画家の娘で小さい頃から絵を描いていたが、心の底から絵を描きたいと思ったことはなかった。だが今は一刻も早く筆を持ちたい。
それが、セシルが画家として一歩を踏み出した瞬間だった。
そして一年の月日がたった今、変わらぬ美貌を目の前にして、セシルは唾を飲み込み緊張で高鳴る鼓動を抑えようと必死になっていた。
「レオ様。セシルという少年画家を連れて参りました」
絢爛豪華な玉座の間。十段ほど上にある玉座に座るのは、美の化身たる魔王だ。セシルは圧倒的な美を目の前にし、頭を下げながらも上目使いでその姿を網膜に焼き付け大興奮していた。
(きゃぁぁ! 生魔王! こんな美しいものがこの世に存在していいの? もはや神!)
絵描きなら一度は描いてみたいと憧れる魔王を目の前にして、セシルは感動に打ち震えていた。茶色の髪は首筋で短く切りそろえられ、歓喜の色が弾ける水色の瞳は透き通った湖のよう。着ている服は男物の軽装で、美少年に見える。
(突然、猫に魔王様を描けって言われた時には詐欺だと思ったけど、本当に描けるなんて!)
その子どもの丈ほどの身長で二足歩行をする白猫は、セシルの隣で同じように片膝をついて頭を垂れている。だが魔王の美に興奮しているセシルには、白猫が口にした言葉は届いていなかった。“少年画家”と猫はセシルを紹介したのだ。しかし、セシルは男の恰好をしているが女の子である。
(あぁぁ、生きているうちに魔王様を拝めるなんて、もう死んでもいいわ。だめ、描くまで死ねない!)
頭の中で盛り上がっているセシルをレオは一瞥し、不満そうな顔で頬杖を付いて猫を睨みつけた。それだけで苛立ちが伝わり、二人は肩を震わせる。セシルのうるさい脳内も、一瞬で静かになった。
「またたびの吸い過ぎで、鼻がおかしくなったのか? どう見てもそいつは女だろう」
弦楽器のような伸びのある低音が、鼓膜をくすぐる。だが言葉の内容に心臓が跳ねた。
「……え?」
愕然とした猫の声。小刻みに震えながら、セシルへと顔を向ける。
「女?」
「あ、はい。女ですが……」
セシルは別に隠していたわけでもないのであっさり答えた。さすが魔王。一目で看破された。セシルは謎の感動に浸っているが、猫はしっぽと全身の毛が立ち、ひげまで伸び切っていた。場が凍り付く。
(あ、女だとまずいんだ)
脳内お花畑状態だったセシルも察する。男だと言い張るべきだったようだがもう遅い。
「つまみ出せ」
レオの淡々とした一声で、壁際に待機していた衛兵たちが動き出した。それを見たセシルは慌てて顔を上げ、懇願する。
「ま、待ってください! 女だと言うだけで描かせてもらえないのはあんまりです! せめて一枚だけ! 端の方からでいいので描かせてもらえませんか!」
人間にとって魔王とは畏怖の対象であり、直接話し、まして何かを訴えるなどもってのほか。親が口答えをする子どもに、「魔王に首を跳ねられるよ」と脅すくらいだ。つまり、この状況は首を跳ねられてもおかしくない暴挙である。
連れてきた白猫も丸い目をさらに丸くし、あわあわと手をばたつかせていた。顔にはまずいと大きく書かれているが、セシルは食らいつく。
「私の絵を見て、気に入らないなら諦めますから!」
セシルは流れの絵描き。これがダメなら、また旅を続けるだけだ。目に焼き付けた魔王を描きながら。
するとセシルの気迫に押され、隣の白猫も平身低頭となって言い募った。
「せ、性別を間違えたのは申し訳ございませんでした! しかし、この子が描く絵は美しく想いがこもっており、一見の価値はございます!」
「……ほう。魔人一の審美眼を持つお前が言うほどか」
ゾクゾクと色気を持った声が響き、極上の音色を聞いたようにセシルは鳥肌が立つ。
「はい! なにとぞ寛大なお心を!」
レオは眉間に皺を寄せ、しばし沈黙した。頬杖をついて考える姿は絶対王者の貫禄がある。
(デッサンしたい!)
画家の本能に逆らえず、瞬きもせずに見ているセシルの頭を、猫が慌てて掴み下げさせた。レオは必死に懇願する二人を迷惑そうな顔で見下ろしており、やがて溜息をつくと軽く手を払う。
「チャンスは一度だけだ。女は牢屋に入れておけ。世話はお前に任せる」
話はそこまでだとレオは目で衛兵に合図をし、セシルは屈強な衛兵たちに両脇を抱えられて連れていかれた。
「え、ちょっと、自分で歩きますって!」
驚き目を丸くするセシルと、申し訳なさそうな顔であとからついてくる白猫。
(こうなったら、最後の一瞬まで魔王様の顔を焼き付ける!)
瞬間記憶は画家の命だ。セシルが引きずられながらレオへと顔を向けると、彼はこちらを見てすらいない。完全に興味を失っており、頬杖をついて窓の外を見ていた。そして無情にも扉が閉まり、地下へ連れていかれて牢屋に放り込まれたセシルは、鉄格子の向こうに立つ白猫に恨みがましい目を向けるのだった。