8、 アメリカでの再会
8、 アメリカでの再会
― 一年前 ―
鬱を患った。会社を辞めた。
今までにないことを経て、等々僕の人生も足止めを食った。
それでも日は過ぎ去り、少しはその病気も治まり、なんとか日常生活を送れるようになった頃に、僕は動いた。
僕は、一人で飛行機に乗って、高校の時から行きたいと思っていたアメリカに向かったのだった。
なぜそう思ったのか、嫌な思いを吹っ切りたかったこともあるが、時間が出来たことにより、昔の高校時代に立てた夢を、思い出していたこともある。アメリカに留学したい、という夢を。
今なら時間、それから金だってある。
目的や計画なんかはなかった。ただアメリカの地に降り立ったのだ。
最初は、ニューヨーク。
僕は、英語をまともに喋れなかたし、それから初めての海外ということもあり、随分と苦労を余儀なくされた。
そりゃ、行く前に英会話スクールに通い、少しは喋れる、と思い、向かったのだが、あまかった。
初めての海外。しかもそこで生活を送ることになったのだ。
勿論、知った顔など、誰一人としていない。だから、カルチャーショックになったのは、必然だったといえる。
時折、頭が熱を帯び、どうしていいのか分からず、精神的にもきつかったが、それでも僕は一人でバスに乗って、西へと向かった。
これといった目的はなかった。
ただ憧れのアメリカが見たかった。という半ば安易な考えでやってきのだ。
ニューヨーク、ワシントン、ニューオーリンズ、ラスベガスという都市を見て廻り、そして、カリフォルニアへと足を延ばしながら、旅を続けてきた。
大都市から人が疎らな田舎町。ラスベガスなんかは、まるで現実感のない夢の世界だった。
きらびやかなネオンなんかを見ていると、まさに眠らない街であった。
何回も危ない目にあった。
財布を掏られたこと。
ホテルの予約が取れず、公園で寝ていると、ジャンキーに殴られ、金品を持ち逃げされたこと。
その後、警官に職質をされたこと。
それでも救いは、パスポートとカードを取られなかったことだ。
その二つは別の所で保管していたために、大事に至らなかった。
それから、ホテルにいる時に、頼んだものが、こなかったことも一度や二度ではない。
それに、ビーチで一人寛いでいる時だ。
ゲイに腕を引っ張られ、エグいことを言われ、びっくりしたこともあった。
とにかく色々なことがあった。
僕は移動が多く、一ヶ所に止まることをしなかった為に、いつも一人だった。
なので、仲のいい友人など出来るはずもなかった。
一人で旅を続けるのは、自由だったが、不便でもあった。だが、なぜ、そんな過酷でもある旅をしたのか。
それは、高校時代に立てていた夢。
大学にいったら留学したいと思っていたこと。
だが、学生の時には出来なかった。
なぜなら、学費は勿論、アパート代や生活費などもかさなり、家からの援助を貰うのに、多額の費用を要してしまい、更に留学なんて大それた希望を、言えるほどの資金はうちの家庭にはなかったこともある。
あの時、言ったこと。それが実現出来ていなかったことにも、消化不良的な気持ちはあっただろう。
だから大人になり、会社を辞め、自由を手に入れることができると、自分の金で、アメリカにやってきたのだ。
形は違うが、夢を叶えたともいえなくはないが・・・。
そんな時に、沙織とロサンゼルスで再会したのだった。
といっても必ずしも劇的な再会ではない。偶然が重なり、それが必然へと変わっていったのだろう。
高校を出て十九年間、彼女のことを想い続けていたわけでもない。
本当に、たまたまアメリカで再会したのだ。
それまでは、正直忘れていたほどだったのだから。
でも、高校時代の夢。アメリカでの生活。こんなことを思い出さなければ、沙織との再会はなかったはずだ。
アメリカでは、日本国籍を持った人間ならば、九十日以内の観光で、米国で滞在する場合は、ビザが不要であるが、その時の僕は、もうすぐその三ヶ月が迫ろうとしていた頃であった。
そして、赤いれんが造りのカワダホテルという中級ホテルを選び、僕はロサンゼルスに滞在していた。
これといった理由はない。費用が手頃で、日本人街のリトル東京の近くにあったということで決めたのだった。
それが三十七歳の冬だ。
街はクリスマスムード一色で、皆何処となく浮かれていた。
赤や緑、それから白色のクリスマス・イルミネーションが取り付けられ、デパートでは、クリスマス商戦が大々的に行われ、それに見惚れる家族、子供たちでいっぱいだった。
そんな彼らを目にすると、自分が一人だけで異国の地にいるのを痛感させられた。
もしかしたら、自分は場違いな人間なのではないか、そう思った。
なぜならここはクリスマスを楽しむ、愛する家族や、カップルや、仲間たちが闊歩するような所であり、こんな英語も、それから勝手も分からない、孤独な男が来るような所ではなかったのだ。
そんな思いを胸に抱え、孤独な日々を送っていたが、状況が変わったのが、十二月二十三日だった。
このホテルに来て僕は、受付クラークのルぺという小柄で、チャーミングなメキシコ系のアメリカ人女性と仲良くなった。
その日の昼も、いつものように彼女と喋っていた。
三ヶ月もの長い間、ずっと一人だけで、旅をしてきた者には、彼女の笑顔は有り難かった。
その日も僕は、彼女にあまえる、という訳ではないが、喋りかけていた。
この街のいい所、観光スポットなどを訊き、それから行ってはならない危険な場所などを、教えてもらっていた。
ルぺはとても優しかった。その優しさに僕は、救われたのも事実だ。
一人の日本人女性が受付にやってきたのは。そんな時だった。
背は高くはないが、しっかりとした印象の女性だった。
それに清潔感があり、瞳が大きく、鼻筋の通った、エキゾチックな顔をしていた。
その女性はクラークのルぺに用事があるようで、僕は少し離れて、彼女の様子を見ていた。
身振り、手振りでルぺに何やら説明をしていたが、まったく伝わっていない。
英語が苦手なのか、何を言っていいのか分からず、しまいには焦り始めてしまったようだ。
そこで僕は良いところを見せようと、先ずは彼女から事情を訊いてみることにした。
どうやら、彼女はこのホテルに昨日到着し、ガイドとも別れ、そこでトラブルが起きたようだが、よくよく話しを訊いてみると、その事情というのが、小さなことであった。
単に部屋のトイレの水が流れにくく、トイレットペーパーを詰まらせてしまったとのこと。
日本のトイレの性能は良く、世界の中でもトップクラスだ。
だから海外旅行で困るのが、トイレのトラブルが多いことでもある。
彼女はその事情よりも、自分の意思が相手に伝わらないことに、このような焦りを覚えたのだろう。
僕は、ルぺに事情を説明してやると、横にいた彼女の顔がほっとして、段々と弛緩していくのが分かった。
彼女は、僕に何度も礼を言い、英語ができる人はいいな、と呟くように言っていた。
その日は、僕は謙遜しながら、部屋へ戻ることにした。
そして、別れ際に自分の部屋番号を伝えておいた。
「もし困ったことがあれば、いつでも相談に乗るよ」
と言い残し、エレベーターに向かった。
そして、丁度開いたその箱に乗り込み、後ろを振り返ると、彼女が微笑みながら、丁寧にお辞儀をして、見送ってくれたことに気づいた。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込むと、今まで封印していた記憶が止めどとなく溢れ出てきた。
ー 皆川沙織 ? ー
あの子はまさしく皆川沙織だ。
思い出した。高校時代に付き合っていた子だ、と。
まるで、頭を金槌で殴られたような衝撃が走った。
彼女は、高校時代と違い、目に皺もできていたし、あの瑞々しかった肌が姿を消し、体の線も若干崩れていた。
腰の辺りに肉も付いていた。だが年を重ねて、円熟味が増したように思う。
少し穏やかな、何か達観したようなあの表情、それから洗練された彼女のメークに、高校時代のように魅力を感じずにはいられなかった。
自分の弛んだ肉を見、相手の劣化に正直、安心したのもある。
だって、もし、これが抜群のプロポーションに、完璧な顔であれば、気後れしたのかもしれない。
それでもこの状況には、半信半疑の思いだった。
何でこんな所に彼女は、一人でいるんだろう、と。
そんな彼女は、何処となく疲れているようにも見えた。
それはしょうがない。あれから十九年が経っているのだから。
そんなことを考えていると、その夜、部屋のノックが鳴らされた。
誰かと思い、慎重にドアを開けると、昼間の彼女が立っていた。
「夕食を摂りたいんですけど・・ホテルのレストランも、閉まっちゃってて、」
彼女は不安そうに切り出した。
「外に出なきゃいけないのは、分かるんですけど。
この辺り、とっても真っ暗で、店も頑丈な鉄格子なんかで閉まってるでしょ。
その雰囲気が怖くて、どうしようかと思っていたんです・・・」
「もしかして、」
僕は、口にしていた。
「沙織じゃないか? 俺、藤賀だよ」
「・・・え?」
彼女の驚いたその顔が、みるみる赤く変色していくのが分かった。
「藤賀?」
まるで夢の中で起きていたことが、自分の目の前で、それが現実に起こったかのようだった。
「え、え? 何でこんな所に、しかも、一人でいるの?」
「うん。ちょっとね。色々あったから」
「藤賀こそ、何で、こんな所にいるの?」
沙織は、声を弾ませていた。
「俺も、色々あったんだよ」
「そうよね。あれから・・・十九年経ってるもんね。
その間に色々あった。それには頷けるけど、でも突然、しかもこんな所でね、お互い一人だけだもん。
びっくりした。何か、世界って広いようで、狭いのかも」
しばらくは言葉が続かず、お互いハニカムだけで、瞳を見つめ合っていたが、時折、沙織が僕の部屋の中に視線を送ってくるのが分かった。
すると、廊下を大柄な五十代くらいの白人男性が歩いていく。
その彼がチラチラと盗み見るように見てきたし、その後を南米系の子供たちが笑いながら、走り去っていった。
「入る?」
僕は、落ち着かないのもあり、沙織を部屋に招き入れた。
沙織は促されるままに、部屋に入って来た。
ここが異国の地であり、あれから十九年が過ぎ、お互いが高校生の時の初心さが無くなっていることを感じた。
沙織は、男に接することに何の抵抗もない、というか、あまりにも自然に思えた。
僕は、沙織をソファに座らせ、冷蔵庫からジュースではなく、ビールを取り出し、栓を抜いてやり、コップと共に手渡してやった。
沙織は何の躊躇いもなく、コップに液体を注ぎ、それを飲んだ。
僕は瓶にそのまま口を付けて、その液体を胃の中に流し込む。
「結婚してんの?」
沙織は首を振った。
「そうだよね、こんな所に一人だけでいるんだ。そりゃ・・・ね」
僕は言った。
「俺も結婚してない。優雅な独身貴族だよ」
そして、ビールを飲み干した。
「喉渇いてたんだ、俺。丁度いいや、二人で、飲もう」
だが、沙織はまた首を振った。
今度は少し激しく。
「してたー」
「えっ?」
「一か月前に、離婚したの」
僕は彼女を見た。
しばらく沙織は無言で、なみなみと注がれたビールのコップに写る自分の顔を、じっと眺めていた。
どんな想いで、それを見ているのだろう、知りたいと思った。
「子供もいる・・」
また後頭部を、金槌で殴られたような衝撃を受けた。
僕は頭の整理が出来ず、戸惑い、何かに恐れ、そして、理性が無様に転がるところを、必死に冷静になるよう心掛け、頭を擦りながら、それに耐えていた。
まるで積み上げてきた積み木のピースが目の前で崩れていったように。
でも舞台は終わらないから、それをどうにかして立て直さないといけない。
「そうか。やっぱ十九年も経てば、人は変わるもんなんだなー」
僕は、沙織の顔を見た。
どうにか立て直すことができたようだ。
「子供は・・・連れてきてないの?」
「うん。母親に預けてきた。これからのことを考えると、不安で。
私ってズルい女だと思う。だって、大事な時期に、こんな風に逃げ出したりして・・・」
僕は首を振った。
だが何を言ってやればいいのか、分からなかった。結婚もしたことのない男が、発する言葉なんて、もしかしたら、ないのかもしれない、そう思い、口を告ぐんだのだ。
それから、きっと、僕も同じようなものなのかもしれない。
僕も逃げ出してきたことには、変わりないのだから。
沙織は、恥ずかしそうに僕の顔を見てきた。そして、
「また、来ちゃった、LAに。
だって、心が塞ぎ気味の時には、ここにくると、きっと立ち直れると思ったから」
と静かに、上向き加減に顔をやりながら、見つめてきた。
そんな沙織を見、僕は鼓動が跳ね上がった。
「ああ・・・そうだね。沙織のお祖父さんの、故郷だったよね、ここは」
「覚えて、いてくれたんだ」
沙織のこの笑顔に、ぼくはすっかり、十九年前のあの時の気持ちに戻っていた。
「ああ」
僕は淀んだ、というか、むしろ晴れやかな気持ちになっていた。
「それにしても、お腹、空いたな」
「そうね」
沙織は言った。
「私も、お腹減っちゃった。何か食べに行こ。
この話しは長くなると思うから。それから、藤賀の今までの人生も知りたいしー」
「ああ」
僕は少し緊張をしているようだった。だから、絞り出すように返事をした。
そして、
「あ、俺も夕食まだだし、それじゃ案内しようか?」
どうやって接していいのか、分からないじゃないか。
「もし、迷惑でなければ・・」
「全然。でも、レストランとかじゃなくてもいい? テイクアウトだけど」
「いいわ。お願いする。私は何も知らないから。お任せで」
沙織は微笑んだ。
「じゃ、ヒスパニック系がやってるタコスの屋台が、ここから歩いて七分くらいの所にあるんだ。そこにしょうか?」
少しでもいいところを見せたい、そんなことを思った。
なぜだ? 僕は、まだ彼女のことを思っているとでもいうのだろうか。
「うん。いいけど、ヒスパニック系って、何?」
「ここLAに沢山いる中南米系の人種だよ。
もしかしたら、この辺りでは白人の数よりも多いのかもしれないね。
一人で歩くことがあったら、不法滞在者もいるから、とにかく、気を付けた方がいいよ」
その日は屋台でタコスを買い、二人でホテルまで戻ってきたが、お互い別々の部屋に戻り、一緒に食べることなかった。
それは、やはりお互いが意識しすぎたのかは分からなかったが、その日は、一人で夕食を済ませたのだった。
翌日。
その日も天気が良く、衣類が身体に纏わりつき、そこかしこでバチバチと静電気を起こすような、そんな乾燥した日だった。
観光するには雨の心配がなく、傘が不要で、荷物も少なくて済むので、有り難いのだが。
僕は、その日はアメリカでも有数な金持ちや著名人など、セレブが暮らす、ビバリーヒルズの街を散策していた。
そんな時だ。
カワダホテルにいた時と違い、少しめかし込んでいる沙織の姿を見かけた。
僕は道路を渡り、弾む気持ちを抑えながら、彼女に近づいていくと、途中で彼女も気づき、遠目からも、表情が緩んできたのが分かった。
「あっ、偶然。しかもこんな所で」
沙織は、微笑みながら大きな声で言った。
笑顔は、高校時代と変わらないな、と彼女に近づくにつれ僕はそう実感した。
「ここまでは、何できたの?」
彼女は足を止め、掌をヒラヒラと振っている。
「俺はバスだけど」
僕はようやく道路を渡り切り、沙織と合流した。
「すごーい。よくここまで来れたね?」
僕らは向かい合って、話した。
「藤賀、昔は方向音痴だったじゃない。なおったの?」
「そうじゃないけど。まあ、いろんな人に尋ねながらきたんだ。
それに、意外とアメリカの街は区画毎に整理されていて、ほら、道が真っ直ぐだから、日本よりは分かり易いのかもしれない。
それから、まだ、俺の方向音痴は、なおってないよ」
二人が立ち止まり、道端で話をしていると、それを避け、何人もの人々が通り過ぎていった。
五十代のサングラスをした身体の大きな白人男性。
上は赤いジャンパーを着ているのに、下は白色の半ズボンを履き、冬だというのに額に汗をかいている太った白人男性。
紺色のパンツスーツを身に纏い、颯爽と歩いていく、知的そうな黒人女性。
彼女は、携帯を片手に淡々と話しながら、先を急いでいた。
それからカジュアルな服を着た白人の高校生らしき男が二人。
彼らは、まるでラップを歌うかのように、大声で喋り合い、時折笑みを浮かべ、ゆっくりと歩いていた。
「さすが」
沙織は、僕を見ながら言った。
「安いでしょ、バスって」
「うん。庶民の足だからね」
僕は咽の渇きを覚え、持参してきたミネラルウォーターを一口飲んだ。
「いる?」
沙織は首を振った。そして、
「そうね。で、ここには、何時までいるの?」
と何事もなかったように訊いた。
僕は少し、居心地の悪い思いをした。
一度、後ろの方を見ると、先程の二人の学生が無邪気にじゃれ合っていた。
若いな。僕は仕方なく、もう一度ミネラルウォーターを口にした。
「もうそろそろ帰ろうかと、思ってたんだ」
「そうなんだ。私はもうちょっと観光したいと思ってるんだけど、良かったら、案内してくれない。なんか面白そうだし。
あ、迷惑?」
「いや、全然」
途中、スタバでコーヒーを飲みながら、そこで、お互い今までの人生を語り合った。
沙織の方は、専ら引き取った一人娘のこと。
僕の方はいまだ無職であることを。もう少し詳しく。まるで高校時代のように。
「ね、藤賀って、今までに付き合ったことある?」
「そりゃ、あるさ。この歳だからね」
「え? じゃ、どんな人と?」
「数人いるけど、一番長かったのが、大学二年生の時かな。その子は、同級生の京都出身の子でね、四年生までの約三年間付き合った。
彼女とは、四年生から一緒にアパートを探し、そして、同棲をしたんだ」
「へぇ~。藤賀もそんな人生を送っていたんだ。
でも、別れた、んだよね? どうしてかな?」
「ああ、別れたよ。でも、別に大学を卒業したら、離ればなれになるからとかじゃないんだ。それだけじゃ、ね。
きっと、価値観の違いとか、その他諸々なことが重なり合って、それらが積もりに積り、いつしか爆発したんだろう」
「そうかもね。だって、藤賀って、短気なとこ、あるから」
「違うよ。キレてはいない。お互いが憎しみ合わなくてもいいようにって、俺から部屋を出ていったんだよ」
「それで、彼女は納得したの? っていうか、音沙汰はなかったの? ううん。今じゃないけど、その時の話しだけどね」
「ああ。ないよ」
僕は言った。
「だって、俺が出ていく時、机の上に、ちゃんと書き置きをしてきたからね。その時の思いのすべてを、残してね」
「藤賀も、私と別れて、ちょっとは、大人になれたのかもしれないね」
「ああ。そうかもしれない」
スタバを後にしても、僕らは別れを惜しむように、話していた。
そして、バスに乗り、ホテルに帰る途中、彼女と携帯電話の番号を交換し合った。
なぜ電話番号を交換し合ったのか。
それは、とても自然なことのように思えた。
きっとお互いが淋しくて、誰かを頼りたかったのかもしれない。
だって、周りには、話ができる日本人などいなかったのだから。
それは郷土愛的な、とでもいうものなのであろうか。あるいはこれから始まろうとしている何かに、期待を込めたものか、その時の僕らには、知るよしもなかった。
僕の方は、きっと、何かの望みを断ち切らないために、とった行動だったのであろう。
その時は分からなかったが、今にして思えば、それらをひっくるめて、彼女と繋がっていたかったのかもしれない。
このLAの旅は本当に楽しいと思った。
今までは一人で、旅をしてきたのだ。
ここに来て、これ程までに人と繋がっていないことを、実感したことは、今までになかった。
僕らは、リトル東京でバスを降りた。
雑貨屋を見つけたので、そこで立ち止まり、一緒にあれはかわいい、とか言いながら、店内を見て廻っていると、童心にでも帰って、デートを楽しんでいるかのような錯覚に陥った。
それが楽しいと、正直に思えた。
男一人では、こんな店には入らなかっただろうし、こんな風に雑貨を手に持って、眺めることもなかった。
ただ、外から覗くくらいが関の山だ。
いや、きっと素通りしていたに違いない。
人間、自由でいることへの憧れはあるが、いざその自由に浸り続けていると、やがて居心地が悪くなり、その自由でいることへの暴走を誰かに止めてほしい時がくる。
だから、一人旅での一番の恐怖は孤独なのではないか。
誰も、自分の行動に対し、何も言わない。言う筋合いもない。
困った時でさえ助けてもらえず、ましてや励ましてくれる人もいない。
そう実感するのがホテルの暗い、明かりの灯らない自分の部屋に帰った時だ。
昼間が楽しければ、楽しいほどに、夜は孤独な人間には、とてもやっかいで、恐ろしいものに変貌する。
その日の夜も、部屋で寛いでいるとドアがノックされた。
「いい、入っても?」
薄い白地のブラウスに、紺色のスカートといった軽い服装で、沙織が立っていた。
少し慣れたのか、沙織は、少しも怯むことなく、部屋に入ってきた。
髪の毛に薄っすらと水滴が乗っており、湿り気を帯びていた。
シャワーを浴びてきたのが分かった。
「下のカフェでケーキを買ってきたのよ。よかったら、食べる?
十二月二十四日。クリスマス・イヴだもんね。今日くらいはいいでしょ・・・」
「入りなよ」
部屋に招くと、沙織と交差した時に、シャンプーの香りを感じた。
「ビール飲むか?」
沙織は頷いた。
「日本から新しい自分に生まれ変わろうと、飛び出してきたのはいいけど、夜になって、ホテルの部屋で、一人だけでいると、何だかね・・・」
「分かるよ。その気持ち。俺もニューヨークからずっと西に移動してきて、何回も、一人だけの夜を過ごしていくうちに、自分はこの世の中にちゃんと存在しているのかって、思ったんだ。
そして、この希薄な自分の存在が分からなくなって、不安で、精神や、思考がめちゃくちゃになりかけた時もあった。
昼間はいいさ。明るい大地に、自分を知らぬ人間に気を使う心配も、時間に追われることもなく、自分がここに行きたいと思えば、そこに行き、腹が空けば、レストランに入って食べればいいんだから。
それが自由なんだよ。自由を満喫できる身分なんだと、悦に入っていればいい。
でも、夜になると急に心細くなるんだよな。日本語が恋しいなって思えてくる・・・」
「随分と、弱気になったのね。高校時代と違って」
沙織が淋しげに言った。
「色々あったから」
僕は沙織にビールを渡し、自分もビールを飲んだ。
「コップいる?」
「要らない。このままでいい」
「乾杯」
沙織がソファに座り、バドワイザーの瓶を傾けた。
僕もバドを傾け、彼女の瓶と合わせてから、ベッドに腰掛けた。
しばらくはお互い黙ったままビールを飲んでいた。
部屋には所々に点在している薄明りの点いた照明に、靴で歩き回れる厚い絨毯、ベッドのサイドテーブルに置かれた英語の羅列した雑誌、テレビからはこれまた英語が飛び交っていて、時折大きな効果音の笑い声が漏れている。
それらは僕に取って、まったく現実感がなかった。
それが嫌で、僕は立ち上がり、外を眺めるために、窓に近寄った。
カーテンを開けると、この十二階から見える外のゴーストタウン化した街並みもまた、現実感はなかった。
またテレビから揃った人工的な笑い声が聞こえてきた。
「LAって夜になるとゴーストタウンになるんだね」
いつの間にか沙織が隣に来ていた。鼻先でシャンプーの香りを感じた。
「うん。危険が巣食う街だからね、ここは」
「知ってる。だから早くから店じまいをするんでしょ」
「日本のようにシャッターじゃなく、鉄格子を閉めている店もいっぱいあるよ」
「不思議だね」
「だってここはアメリカなんだ。日本の常識が通じない国なんだよ」
深夜に響くパトカーのサイレン。
僕は、沙織の横顔を見ていた。
沙織はずっと外を眺めている。
三十七という年齢よりも若いし、子供を二人生んだとも思えない。
自然に体が動いていた。
僕は沙織の頬に口づけをした。
柔らかな頬の感触がし、いけないことをしてしまったことに気づいた時には、遅かった。
「えっ?」
沙織はハッとし、僕から遠ざかった。
「嘘でしょ」
「ごめん」
「何で?」
高校時代、沙織とは健全な付き合いだった。
一緒に映画を見たり、カフェでお茶をしたり、時には手を繋いで、街を歩くだけだった。ただそれだけだった。
「私には子供がいるんだよ。それなのに、こんなことして、藤賀は今まで結婚もしたことないんでしょ?」
「ああ」
「だったら、こんなことしない方がいいよ」
彼女がどんな思いで、それからどんな意味を持って言ったのかが、ちゃんと把握できた。
でも・・・。
僕は自分の思いを、止めることができなかった。
それは沙織に対しての心からの想いなのか、今までの孤独から人の温もりを欲していたのか、それとも性的な欲求なのかは分からなかった。
「お前が、いけないんだ。
こんな所に、そして、俺がこんな心の状態の時に、姿を見せたんだから」
僕は沙織を窓に押し付け、強く抱きしめた後、口づけをした。
沙織は、今度は遠ざかることもなく、やがて、ゆっくりと目を瞑った。
なんて柔らかくて、それに弱々しいんだ。
これじゃ、ちょっとの力で折れそうじゃないか、俺が守ってやらなければならい、そう思った。
しばらくは彼女を抱きしめていた。
そして、僕はゆっくりと、丁寧に沙織のブラウスのボタンを一個ずつ解き、脱がせていった。
「駄目だよ・・・こんなことしちゃ」
沙織はそう言って、俯いた。
だが僕は無言で、沙織を抱き上げ、ベッドに運んだ。
そして、布団の中に二人で入り込んでから、そっと、まるでガラス細工を包み込むようにして、抱き合った。
布団から少しだけ出た沙織の白くて、美しい背中が窓に映っている。
その後ろで、ネオンが光っている。
更にその後ろには、高層ビル群が見える。
それらは、まるでひっそりと呼吸をし、僕らのことを見守っているような、そんな気がした。
#
その翌日から彼女の姿を見ることはなかった。
まるで、突然舞台の幕が降りたように、目の前がスーツと暗くなってしまったかのように。
元々彼女の泊まっている部屋番号を聞いていなかったのもあり、会うこともなく、彼女が何をしているのかも、知るよしもなかった。
だから、他人であることをつくづく思い知らされた。
街を歩いていても、何も目に入ることはなかったし、空腹を覚えることもない。
それに、何処かに行きたい、という気さえ起きなくなてしまった。
まさに心が空洞で、がらんどうのようだった。
ホテルの周りを歩いても、ここ数日のことが嘘のように、彼女を見かけることはなかったし、ましてや夜になっても訪ねてくることもなかった。
彼女は五泊の予定でロスにきているので、その日が過ぎれば、直ちに日本に帰国するはずだ。
限界だった。
あんなことがあり、僕のたがが外れるのも自然に思えた。
今になって、後悔しても遅い。僕は暗いホテルの部屋で、天井を見ながら考えていた。考えることしかできなかったのだ。
すると、一匹の蜘蛛が天井からスルスルと糸を伝い、僕の口の中に侵入する。
それが僕の中の栄養を吸収し、みるみる大きくなり、そして、僕の内臓を食い散らしていく。たった一匹の小さな蜘蛛が・・・。
それで僕の身体はがらんどうのように、大きくて、丸い穴があいたー。
アメリカに来て、九十日が間近に控えていた。
滞在期間終了のリミットが近づいてきており、まさにラウンド終了のゴングが打ち鳴らされようとしていた。
僕は惰性で、航空券の手配をし、ホテルを引き払う手筈を整えた。
たとえ、まだ滞在期間が存在していたとしても、僕は帰国の準備をしたはずだ。
もう限界だった。
これ以上アメリカにいれば、この希薄な存在が、この地に溶け込み、液体になって、その後、蒸発し、無くなってしまいそうで、怖かった。
僕は、そうならないためにも、アメリカを後にすることにした。
三十一日に飛行機に乗ったのに、日本に着いた時には年末の装いなど何処にもなく、新しい年がもう始まっていた。
空港も新年の装いになっていて、驚かされた。
まさに狐につままれたようではあったが、それらを見て、やっと現実に戻ってきたような気がした。
まるで今までのことが夢であったかのように。
多くの人が行き交い、賑やかな空港で、僕はポツンと一人だけで立ち竦み、沙織と交換したメモ用紙を握り絞めていた。
##
「出会いというのは偶然が重なり、必然へと変わっていくものなんだな、そう思ったよ」
僕は悦に入りながら、言い終えた。
「それで終わりか? おい、おい、お前、話しの途中を端折っちゃいないか」
楢崎は煙草入れを取り出し、それを左手で持ち、右手の指先でトントンと叩いてから、一本抜きだし、その指で僕を差した。
「ロスの一夜での後、皆川は姿を見せなかったんだろ。どうしてこうなったんだよ?
そして、一年後の三十八歳のお前らが結婚に至った道のりだとか、そうゆう話しは、一体どうなってんだよ、さっぱり分からん」
「何も端折ってねよ」
「変なこと聞くなよ、楢崎。お前も、意外と鈍い男なんだな」
三浦はビールを飲んだ。顔が赤く、火照っている。
「ロスで、電話番号持ってただろ、藤賀が」
「それがどうした?」
「藤賀はあの夜、皆川の全てを受け入れたんだよ。だから・・・」
「だから、何だ?」
「ああっっ、まだ分かんねえのか。いいか、藤賀は日本に帰国して、皆川に電話をかけたんだ。
そして、言ったんだ。娘諸共、面倒を見るから一緒になってくれ、と」
「ほんとかよ」
「ま、おおかれず、すくなからず、っていう感じかな」
僕は正直に答えた。
「何だよ。カッコつけやがって。ちゃんと言えっつうんだ、本人が」
楢崎はようやく煙草を一本口にくわえ、ライターで火を付け、ゆっくりと煙りを吸い込み、そして、吐き出した。
「それより、藤賀、仕事はどうなったんだ?」
「お蔭様で、二か月前に決まったよ」
僕は言った。
「車のディーラーで、販売をやることになったんだ。俺には、やっぱ営業が合ってんだよ、な。
沙織と結婚を決め、いざ仕事を決めなくてはならない、と考えた時、やっぱ、どうしても、営業の求人を見ちゃうんだ。
あれだけ痛い目にあった、というのにな」
「就職、決まったんだな。良かったじゃないか。
ま、そんなもんなんかもしれないな、人生なんて。結婚が決まり、すぐさま就職も決まる」
「まあな。そう思うよ。人生って、そうゆうサイクルで、廻っているのかもしれない」
「ああ。これからは、奥さんと家族を守って、しっかりと生きていかなければいけないな。きついぞ、実際は」
三浦は片側の唇を釣り上げた。
アメリカを一人で旅して分かった。人間ってほんとちっぽけで、枯葉のようだ、と。
道端に落ちている枯葉を、大きな手で握り潰してしまえば、その乾燥した枯葉は、カサカサとすぐに形を無くしてしまう。
人間もそんな風に頼りないものだ。言葉もままならず、異国に滞在すれば、そう実感する。
例えば、レストランに行けば、まるで虫けらを見るような目で、顎で出ていけ、とされた。
僕は、怖くて入ることもできず、速足でホテルに戻っていった。
お蔭でその日は夕食抜きだった。
それから、何度となく自分の思いが、相手に伝わらず、歯がゆい思いをした。
新しい街に着き、バスから降り、重い荷物を背負い、インフォメーションセンターに行き、手頃なホテルを探す。
そして、実際にそのホテルに行き、部屋を見せてもらうと、ここで何泊するのかを訊かれ、決まりや設備の使用方法の説明をまったく違う解釈で理解し、確認のために何回も同じことをスタッフに説明させたこともあった。
気分を損ねさせたことも度々あった。だから少々の不利には目を瞑らなくてはならなかった。
まるで子供だった。
高校の頃は、ボクシングをやっていたし、少々の苦難なんて、へっちゃらだと思っていた。
それに大学を出て、社会に出て、あのような苦労だって体験してきた。
でも、違ったんだ。世界というものは。ほんと大きかった。
僕に取っての世界はいってみれば、まるで小学校の入学式の体育館で、おしっこがしたくなった時のような遠近感じゃないだろうか。
そこはだだっ広くて、外にあるトイレに行くまでには大分時間が掛かる。
途中、周りの人間に見られるあの時の視線。
身体の大きな上級生たちの矢のような視線を、背中に感じたが、それでもたまらない尿意のため、恐怖と恥ずかしさに耐えるようにして歩いていく。
今、思い出しても、緊張してくる。あの時は身体が小さかったから余計に体育館を広く感じたものだ。
そんな風に、自分はほんとに小さい、と思う。
この世界に生きる限り、自分は枯葉のように弱くて、小さいんだ。
そのことが分かっただけでも、少しは楽になったかな。そう思える。
それまでは肩肘を突っ張らせ、何が何でも前へ、前へと進んでいき、目的を持っていないと、カッコ悪い。
夢がないとそれもカッコ悪い、と真剣に思っていた。
恐らく、そんな自分に酔っていたんだと思う。
こんなことで挫けてはいけない。自分は強いんだ。
それに、時間をかけてもいいから、何でも出来なくてはいけないんだ、と。
今から思うと、ただ現実が怖かったから、あるいは、その現実に対応できていなかったから、それを隠すためだけに、他に逃げ場を探していただけなのかもしれない。
疲れていたのかもしれないな。そんな自分の迷路みたいな人生に。
これから、どうするべきか。この先、目的だとか、夢なんていうものは歩いていれば、新たに生まれるもの。
足元がふわついているのに、しゃかりきになって探すものでもない。それでいいのではないか。
夢を掴もうと必死になっても、必ずしも、全ての人が叶えられるものではない。叶えられる者は、ほんの一握りの人間に過ぎない。
それより夢というものは追うものであって、叶えようと思わない方が、気が楽なのかもしれない。
全ては尽きぬ夢であり、果てぬ夢なのだから。
一つだけ、やり残したことがあるとすれば、それは川島のお墓参りをすることだ。
高校時代に、僕が思ったことについて、語り合いたいし、何より、皆川沙織と結婚したことを報告しなくちゃな。
川島だったら何て言うのかな。きっと、お祝いの言葉を言ってくれるに違いない。
ほんというと、僕は、川島という男に憧れていたのだ。こんな男になりたいんだ、と。
だけど、結局、僕はお前には、なれなかったよな。
ボクシングに懸ける情熱は、尊敬に値いする。
結局、僕が一生懸命やったのなんて、あの試合前の一ヶ月くらいだったもんな。
だけど、お前は三年間、ほんと手を抜くことなく、駆け抜けていった。かっこ良かった。
それに比べ、僕なんかいつも口だけだったもんな。かっこ悪かったよ。