7、 それぞれの人生
7、 それぞれの人生
―二十年後の十二月―
その年は冬の気配を感じることもなく、いつまでも秋が居座り、十月には大型台風が続けて二つもきて、局所的ではあったが、甚大な災害をもたらした。
今日も十二月にしては、暖かなか日であった。
僕は自家製湯葉豆腐を注文し、それが来たので一口、口にした。
顔が火照っていたのもあり、冷たくて美味しかった。
豆乳とゼラチンで作るつるんとした喉ごしの簡単豆腐だ。
僕はポン酢がきいたものが好きで、この料理がすぐに好きになった。
アルコールと脂っこい匂い、それからもうもうと立ちこもる煙に、少し圧倒されるが、この部屋でなんとか、居場所を探し、そして、確保する。
「個別にはあるかもしれないが、俺ら全員が、こうやって集まるのは、二十年振りじゃないか」
黒色の礼服を着た楢崎のルックスは、未だに崩れてはいなかった。
年と共に刻まれた皺が、魅力的に、その場所に収まっている。
楢崎は、まるでここが自分の部屋であるかのように、寛いでいた。
こいつならどんな所でも、どんな状況になろうとも、生きていけるだろう。二十年経った今でもそう思える。
「二十年という年月はかなりの時間が経ったよな。
だって、お互い、人相も変わったし、何より体型がな。
ボクシングやっていたとは思えん。しょうがない俺ら三十八歳なんだ。歳とったよ」
頭に白いものが目立つようになった、黒縁眼鏡の三浦が言った。
「お前、何食ってんだよ?」
「牛すじの煮込みだよ。悪いか」
「何だ、それ?」
三浦は枝豆を肴に、はやくも二杯目の生中を飲み干していた。
「牛のすじ肉をじっくり煮込んだもので、七味唐辛子がピリッときいているんだ」
楢崎は言った。
「さっきから気になっていたんだが、河辺一体、何だそれ? 美味しいのか」
「明太チーズ出し巻き卵だ。出し巻き卵に明太子とチーズをプラスしたもので、クリームチーズが何ともいえないんだ」
鼻の下にあるチョビ髭を触りながら河辺が言った。
「楢崎は、顔が少し大きくなっただけだが、河辺なんか、禿げてるし、それに中年太りで、貫録出てきたよな。何だよ、その鼻の下にあるチョビ髭は。
でも、三浦は意外と太ってねぇし、髪の毛もふさふさだ。
近藤は、うん。そんなに変わってねえけど、でも禿げたな。河辺は前からだけど、近藤は頭頂部が危ない」
僕は片方の唇を釣り上げた。
「近藤、お前は相変わらず、そうやって一人だけで、変わってねぇな。隠すなよ。何食ってんだ?」
近藤はそれに答えず、もくもくと口を動かしていた。相変わらずマイペースというのか、周りに振り回されることのない、というのか、まったく影響を受けることのない男だった。
鶏むね肉を、揚げ焼きにし、それをマヨネーズ添えしたものを一人で食べている。
「鶏マヨのねぎまみれ、だよ」
三浦が、近藤の料理を見ながら答えた。
「これ、意外といけんだよ。この前俺も食べたから、知ってんだよ。俺のお墨付きだ。どうだ、お前も」
「いい。遠慮しとくわ」
今日は心配された雨も降らず、予定通り僕と皆川沙織の結婚式が執り行われた。
僕と皆川沙織が結婚したのには、それは大きなことがあり、今までに様々なことがあってのことだった。
所謂、長い、長いストーリーがあるのである。
式は身内もろくに集まらなかったが、それは仕方がない、といえばそうかもしれないが、少し寂しいものがあった。
だが、このように友人がつめかけてくれたお蔭で、こぢんまりとした式ではあったが、無事行われた。
楽しみにしていた、教会前の階段で、集合写真も撮ることができたし、いうことはない。
そして、沙織の方の友達は帰宅したが、僕の方の友人は残ってくれた。
元共栄高校ボクシング部の面々が、結婚式場近くの居酒屋で、急遽、二次会を取り計らってくれたのだ。
「娘はどうだ?」
高校の時のモジャモジャ頭を短く刈り、鼻の下にチョビ髭を生やした河辺が訊いた。
顔をよく見ると、少し大きくなり、皺も増え、それなりに苦労の色が滲み出ていて、それが貫禄を醸し出していた。
「何が?」
いきなりのことで僕は、どう答えていいのか戸惑った。
「いきなり十一歳の娘ができて、その、感想とか聞きたいわけだが、お前に懐いているのかよ、その子は?」
「まだな。あんま、交流が少なくて・・・」
僕はしどろもどろに答えた。
「そりゃ、難しいだろ。ま、娘といってもお前とは、あかの他人なんだから」
楢崎が胸のポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
そうである。未だに信じられないのだが、結婚と同時に僕には、現在十一歳の娘ができたのだ。勿論、血は繋がってはいない。
その娘、香世は、結婚式が終わると沙織の母親に引き取られ、一足先に帰宅している。
最初こそ、母親の背中に隠れ、僕の前には出て来てくれなかったが、今ではようやく隣に並んで、一緒に歩くことができるようになった。
それでも、二人きりになると、お互いが緊張して、口数が減るのだが。
「俺のことはいいから、お前らのことを教えてくれよ。せっかくこうして集まったんだから」
僕は話しを切り替えるために、言った。
今は、丁度沙織がトイレに立ち、野郎だけとなっていた。
何処となく落ち着いた雰囲気になったので、口にしたのだろう。
だが、僕はその話には正直抵抗があった。
「お前も変わってねえな。むしろ、痩せてないか?」
楢崎が酎ハイを手に、しんみりとした口調で言った。
「いや。数年前までは太ってたよ。でも、十五キロかな、急激に痩せたんだ」
「何でだ?」
黒縁眼鏡に手をかけて、その後、枝豆を摘まみ、三浦が言った。
「色々と深い事情がありそうだな。聞かせろや」
「まあな。色々あってね・・・。説明すると、長い話しになる」
「何、勿体つけてんだよ。ところで、お前ら仕事は何してんだ?」
楢崎が僕の顔色を窺いながら言った。
「俺は大工だけど」
「大工って朝早いんだろ?」
僕は訊いた。
「まあな。大変だよ。でも、新しい家建てて、お客に喜んでもらえると、うれしいんだな、これが。
お前らには、わからねぇだろうが」
「わからねぇよ。それより、お前のところは、中学の時の同級生と結婚したんだよな?」
「そうだよ。中学の時は、フッたんだけど、成人式の時に再会すると、綺麗になっててな。
それで今度はこっちから付き合ってくれ、って言ったんだ」
「それで結婚したんだよな?」
僕は、楢崎の結婚式に出ており、そこで友人代表として、祝辞を述べた経緯がある。
「ああ」
「子供は何人いるんだ?」
「二人だ。二人共男だよ。年は十四と十二」
「そっか。それより、お前、ほんと勿体ないよ。高校を卒業してから、ボクシングをしてないんだから」
「まあな」
「何でだよ? 大学からも誘われたのに、なぜ断ったんだ?」
「ボクシングは痛いし、それに、疲れる。それ以上でも、それ以下でもない」
楢崎は煙りを、天井に向かって吐き出した。
「俺のことはいいから、他の奴らのことを訊けよ」
「情けねんだよ、楢崎は。せっかくいいもん持っていたのに。
アマより、プロでやるべきだったんだ。ま、終わったことはしょうがないが・・」
黒縁眼鏡の三浦。
「俺自身は、今花屋で修業中」
「今、って最近?」
存在感の薄い近藤が珍しく食いついてきた。
「まあな。今まで色々やってきたからな。最初は大仏の営業。文字通り大仏を売ってきたんだ。
で、次に宅配業者の仕分け。殆んど夜勤だったよ。あの頃は昼夜逆転の生活で、起きてるのか、寝てるのか判別に苦しんだものだ。
そして、大型の免許を所得して、トラックの運転手をしてた時もある。
その後、しばらく無職が続いて最近、嫁の友人の紹介で、やっと花屋に就職したんだ」
「三浦のところは、何人子供がいるんだっけ?」
三浦のところは、入籍だけで、結婚式を行わなかった。この中で、一番早く結婚をしたのが、この三浦だ。出来ちゃった結婚だ。
「三人いるよ。高二、高一、それから中二の娘ばかり」
「そうか大変だな。嫁さんは年上だったよな? だから家じゃ、頭上がんねんだよ、女ばっかの家族だし」
「ああ。十歳離れてるよ」
三浦はブスっとした。
「河辺のところは、まだ小さかったよな?」
「ああ、生まれて、まだ十か月の赤ちゃんだよ」
「生まれたばかりなんだな」
僕は、河辺の結婚式にも参列した。
「うちは、子供が出来なくてな、それで不妊治療を受けて、ようやく生まれたんだ。
嫁は、俺の二つ下なんだけど、病院に行かなきゃならなかったから働けなくて、あの時は、ほんと苦労したんだ。
医療費はかさむし、嫁の体調が優れなかったから。
ま、でも医療費控除があった分、助かったけどな。あれがなかったら、今頃破産してただろうな」
「そっか。仕事の方は? お前んとこ、自営業の電気屋だろ?」
「ああ。でも電気屋って、販売の方じゃないぞ。うちの会社は工場の配線工事を請け負ったりしているんだ。
高校を卒業してから、ずっと。親父から手解きを受け、後を継いで、今じゃ俺が社長として経営しているよ」
「かっこいいな」
僕は正直にそう思った。
「そんなことはないさ。今じゃ不景気でな、仕事も減ってきているし、利益なんてまったく出ていない。
それどころか赤字が続き、従業員に給料を支払うのもままならない状態なんだ。
ここだけの話だが・・・借金抱えててな。
正直取り立てにもあっているくらいだ。家も抵当に入っているし、このままじゃ従業員の削減に動かないと、ほんとやっていけないのが実情だよ」
「自営業も大変なんだな」
楢崎は、かっこつけて煙草の煙を吐き出していた。
「そうだよ。で、近藤は? 今何やってんだ」
「お、お、お俺は、いいよ」
頭頂部をしきりに気にした近藤の目は泳いでいた。
高校時代よりも病的になったような気がする。
自分の話しになると、存在を消そうと、体を小さくし、それで目立たないようにするのだ。
「もしかして、無職とか?」
近藤は、忙しなく目を瞬かせてから何回も頷いた。頷く度に上半身も揺れていた。
もしかしたら、社会に適応できないのかもしれない。引き籠りから脱するには、相当な覚悟と勇気を必要とする。
なるべく早く、脱出しなければ、体力のなくなった歳になれば、そこから出られなくなってしまう。
果たして、近藤は、そこから抜け出せるのであろうか。少し不安を感じた。
「ずっとじゃないんだ。かれこれ、一年になるかな。
工場でラインに入っていたこともあるし、新聞配達もやったことある。あ、そうそう牛乳配達のバイトもしたよ」
「相変わらず、人とあまり会話の必要がない仕事ばっか、してたんだな」
近藤は小さく頷いた。
「で、今は親と一緒に暮らして、面倒を見てもらってるのか」
楢崎が訊いた。
「うん。いけないことだと思ってはいるんだけど。人前に出ることに、抵抗があってね、どうにも・・・」
「親御さんは、いくつだよ? まだ働いているのか?」
「いや、父親が六十八で、母親は六十六。とっくに隠居してる」
「両親の年金生活か」
楢崎が独り言のようにいった。
「皆、苦労してんだな。高校時代に、こんな自分の将来、予想してた奴いるか? 二十年後の今を」
三浦が誰に言うでもなく、投げかけた。
皆が首を振ると、しばらくは沈黙が落ちて、溜息と共にそれが充満し、この部屋に広がっていった。
そして、この言葉の重みをじわじわと感じることになる。
「一番信じられないことは、今、ここにいない奴のことだけどさ・・・」
三浦が静かに口を開いた。
「一年前に川島が亡くなったことだ」
「肺癌で亡くなったんだよな。俺だけが葬式に参列できなかった」
僕は言い訳をするみたいに言った。
「日本にいなかったんだ。その時は。アメリカにいて・・・」
「しょうがないさ。何しろ急な話しだったんだ。それにこの年で癌になるなんてな」
「何で、あいつ、肺癌なんかになったんだ?」
僕は訊いた。
「煙草でも、吸ってたのか?」
「ああ、煙草も酒もやってたよー。あの時は、半ば、ヤケ糞気味に、な」
川島誠二は、僕らの中では、高校を卒業してからも唯一ボクシングを続けていた男だ。
日立大に特待生として入学し、四年間そこで活躍し、国体や全日本選手権で好成績を収めている。
そして、大学を卒業したと同時にボクシングを辞めた。
川島は最後まで、ボクシングを辞めたことに納得をしていなかった。
大学を卒業し、しばらくは呆然自失に生活を送り、それで、ボクシングを辞めたことを分からせるべく、煙草と酒を始め、自分の身体を虐めたのだった。
それがいけなかったのだろう。
今になって思わされる。
だが、その時の川島には分かるはずもなく、ただ、そうすればボクシングが出来ない体になり、見切りをつけられると思ったのだ。
そんな川島は、大学を卒業し、名古屋に戻ってきて、就職をした。
名古屋の繁華街、栄にある広告代理店で働き出している。
その会社は広告、マスコミ、宣伝関連を一手に引き受ける会社で、広告を出す場所や方法は何が一番効果的か、などを戦略的に考える会社だ。
仕事は忙しく、やがてボクシングを辞めたことが頭から離れていった。
それでも高校や大学の時の充実した気分を味わうことはない。
名古屋に戻ってきて、最初こそは親元に戻ったが、しばらくすると家を出て、自分で暮らすことになる。
昔から自立心の強い男だった。
だが、貰った給料で自活すると、思っていた以上に金が必要なことに気づき、遊ぶこともままならず、そのせいか友達も出来ず、高校の時に仲の良かった三浦と一緒に、お決まりの物静かな居酒屋で杯を交わすのが唯一の息抜きであった。
ボクシングを辞めても体型や容姿が変わることはなく、それなりに女に不自由することはなかった。
合コンなんかに参加すると女が付き、電話番号、メールアドレスを交換し、デートをした。
それで月に何度かはホテルに行き、自分の性欲を満たしてくれる女や、一緒に寝てくれる女も複数いた。
川島は栄にアパートを借り、一人で暮らしていたが、そこに女を招くことはなかった。
気が真面目なのか、そうゆうことをすれば、結婚を意識せずにはいられなかったわけで、川島には身を固める覚悟はなかった。
生涯独身でいいとは思わなかったが、とにかくそうゆう形というものが嫌いだった。
自分が何かにのめり込んでしまえば、人がいることも忘れ、それに没頭する性格だ。
結婚は自分には向いていない、と思っていたからだろう。
しかし、体の変調を来し、入院してからは、その想いも変わっていった。
自分が思った以上に体力が落ち、今まで出来ていたことができなくなると、人恋しくなり、傍にいてくれる女がいればいい、と思うようになったが、その時には、もう遅かった。
川島の周りにいた女友達は、皆姿を消し、男の友達も最初こそ見舞いに来てくれたが、そのうち一人減り、二人減っていき、三浦が来てくれる以外は親がいるだけだった。
そんなことから、川島は夜になるといつもベッドの上で、一人泣いていた。
時には、誰もいない病室で、カーテンを開け、そして、窓に向かってファイティングポーズを取ってみる。
しかし、窓に映った自分のその弱々しいフォームに、また涙ぐむことになる。
ジャブを出したくても、力が入らない。フックも、アッパーも。
そればかりか、立っていることさえ、ままならないのだ。
「―ま、それが必ずしも原因だとは、分からないが、今思えば、そんなのに手を出さなければ良かったのに、と思うよ」
三浦は煙草の煙りを、鼻から出し、静かに言った。
「川島がな、ある時、あれは夜中だったかな、俺に電話してきたことがあるんだよ。
俺は眠気眼で電話をとり、どうした?
って聞くと、しばらくは無言で、それでも俺がずっと待ってると、ようやくこんな時間にごめんと、えらく神妙な声で、喋り出したんだ。
咳が出て、肺が苦しいって。
最初は風邪か煙草の原因かと思ったようだが、違和感があるから病院に行くと、言ったんだ。
あいつは昔から病院嫌いで、自分からそういい出したっていうことは、相当切羽詰まった、というより、症状が悪化した状態だったんだと思うよ。
で、病院に行くと、早速検査をやらされたようだ。
結果、右の肺に腫瘍が出来ていたんだ。
肺癌は非常に進行のスピードが早くて、発見された時点では転移していた。
その肺に出来た癌細胞は進行するにつれ、周りの組織を破壊しながら増殖し、広がっていったー」
「早期じゃ、なかったのか?」
「いや、あいつ仕事が忙しくて、我慢しながらやっていたんだよ」
「仕事が忙しかったって、休めなかったのか?」
「違うんだ。恐らく、あいつは分かっていたと思うよ。
病院に行けば、それが重大な病気で、もしかしたら戻って来られなくなることが、頭の片隅にあったのかもしれない。怖かったんだと思う」
「三浦と川島は仲が良かったからな、昔から。だから誰よりも、あいつの心境が分かるんだよ」
「ああ。そうかもしれん。俺はあいつが肺癌になってから、奴の入院する病院に入り浸りになったよ。
でも進行が早くてな、外科手術はできなかったんだ。
奴は、抗がん剤治療で、苦しんでいた。それは治癒することはなく、腫瘍の縮小が目的なだけの治療だったがな。
あいつ、晩年はすっげ、痩せてよ。見てられなかったぜ。
考えてみろよ。俺らの中で、一番強くて、大きかった男がだよ。痩せて、ちっちゃくなってよ。
あの時の、リングの上で活躍してた姿が、微塵も残されていなかったんだから・・・」
「一番強かった男が、あんな弱々しい男になって・・・。
葬儀の時、棺桶の中にいる奴の姿には、正直、胸が詰まる想いだったよ。
俺が、奴の顔を手で触れてみると、それは筋肉が落ちていて、弾力なんてものもなく、柔らかいだけだった」
楢崎が煙草を揉み潰し、今度は生中をぐいっと飲み干した。
「葬儀には、親や職場の上司、それに同僚がいたが、伴侶というか恋人もいなかったよな。あいつ、生涯独身だったんだよなー」
「ああ」
「意外と、人と交わることができなかったのかもしれないな。
だって、いつも一人で、もくもくと練習に取り組み、時には、誰も近づけさせないオーラ―があった」
僕は生中を飲んだ。
「本当は一番淋しがりやだったんだぜ。心配してほしかっただろうし、励ましの言葉を待っていたんだ、でも、あいつ不器用だったから、それを正直に表現できなかったんだ」
三浦の目にうっすらと、涙が滲んできた。
「病室にいる時のあいつ、声を振り絞ってさ、かすれる声で俺といつまでも喋っていたよ。
でさ、俺がいる時に、会社の同僚が見舞いに来た時があったんだけど、そいつが言ったんだ。頑張れよ、って。
多分悪気はなかったと思うぜ。
でも突然、川島が声を荒げていったんだ。
頑張れって、癌患者に向かって言う言葉か、お前も、今の俺の状況に陥ってみろ。
そしたら、その時に、そのチンケで、軽はずみな、その言葉を言えるのか、って凄い剣幕でいったんだぜ。
それから、頑張っても、何ともならない奴に言う言葉じゃない、これ以上何を頑張れというんだ、とも。
その時は、部屋中がシーンとなってさ。
高校の時のあいつだったら、あんなこと言う奴じゃなかったんだ。
どんな状況でも、冷静さを見失わなかった男がだよ。
でも、病気があいつの心を捻くり回してさ、腸を引きちぎり、肺を潰して、胃を掻きむしって、そして、あんな人間にしちまったんだ。
あいつは、あいつなりに頑張って、病気と闘い、生きようとした。
それでも、日々自分の身体が参っていくのを止められなかったんだ。悔しかったと思うよ・・・」
三浦はしくしくと泣き、皆はそんな三浦の話しを、真剣に訊いていた。
「思い出しちまったよ。何で今、あいつの姿がここにないんだって。せっかく皆が集まっているのに・・・。
あいつはキャプテンなんだぜ。高校を卒業して、ここにいる全員がボクシングを引退したのに、あいつだけは東京に行って、大学で四年間続けたんだ。なのにー。
もっと大学のことを訊きたかったよな。だって雑誌や新聞にも載ってたんだぜ、あいつの成績が。
本当なら、大学を卒業し、プロにでもなれただろうに、な。でも、あいつはその道には進まなかった・・・。
なぜ、プロにならなかったのは、本人が口にしなかったから、分からないが、もしかしたら、体の変調を来していたのかもしれないな。
とにかく、人が死ぬっていうのは、こんな風に現実的じゃないんだ。
今までのことを、まるで判を押したように過去に留め、その先を無くしちまうんだから」
三浦が溜息混じりに喋り終えた。
楢崎の小さな溜息。
河辺の煙草を吸う音。
三浦の鼻を啜る音に、近藤の机の上を何回も指でなぞる、神経質的な
その動き。
それらの動きにも、些細な、いつもなら気にならない音さえクリアーに聞こえてきたが、誰もが無言で、その静寂な一時をしばらくは、守らなければならない、と思っていた。
沙織が戻ってきたのは、そんな誰もが沈痛な趣きで、過ごしていた沈黙の中での時だった。
沙織は、ただならぬ状況に部屋に入れず、しばし立ち尽くしていた。
「いいから坐りな」
僕は、自分の嫁に声を掛けた。
三浦は涙を拭いていた。
「ま、いつまでも暗い話しを、してても、いかんだろ。今日は藤賀と皆川の結婚式なんだから。
もっと明るい話しをしようじゃないか。
それはそうと、お前ら、高校の時は付き合ってたよな。なのに、なぜ一度、別れたんだ?」
昔から、嫌な空気を変えることができるのは、いつも楢崎だったような気がする。
僕は昔と変わらぬ楢崎に、安堵のようなものを感じた。
こいつは、こいつで、ガサツに見えなくはないが、本当のところは気を遣う、神経の細かい男なのかもしれない。
「高三の二学期、三学期は沙織と付き合っていたんだ」
まだこの部屋には川島の残像が残されていたが、それでも沙織が僕の隣に腰を下ろすと同時に、僕はその新しい風に乗っかるようにして話し出していた。
「でも、俺は第一志望、第二志望とことごとく受験に失敗してな、それで、やっとのことで第三志望の福岡の博多中央大に受かり、そこに入学を決めた。
だから沙織とは、福岡と愛知で遠距離恋愛になってしまったんだ。
最初は文通したり、電話で情報を共有していたんだ。
それでもお互いの心は離れていき、どんどん遠くなっていき、やがては、自然消滅だよ。
だって、会うことができなかったんだから・・・。
あの時の俺は、どうしていいか、分からず、イライラし、半ば自棄になっていたな。
どうにもならないことに、全てを投げ出してもいいとさえ、思っていたんだ。
それで・・・別れたんだ」
僕が説明すると、皆もさっきまでの暗い雰囲気から脱しようと、空気を変えようとする。
「そうか・・・。やっぱ遠距離恋愛は、映画のようにはいかないよな」
河辺が立ち上がって電話口にまで行き、酎ハイのお代わりを告げた。
「それで、仕事の方はどうなんだよ?」
「ああ。俺の方は、大学を卒業して、名古屋に戻ってきて、就職は、光通信の営業をすることになった。
これでも営業のセンスがあったのか売り上げを伸ばすことができ、多い時には年収八百万円近くを稼いだこともあったよ。嘘じゃないぜ」
僕は喋らないといけない、と思った。今まで自分がしてきたことを。
このことは誰にも、喋ったことはない。
でも、こいつらなら、喋ってもいいとさえ思った。
なぜなら、ここはそうゆう会で、僕に取って、その時期に思えたからだ。
「でも人間関係を上手く続けることができなくて、同僚や上司と度々衝突したよ。
今から考えると、俺って自分勝手なところがあるだろ」
三浦、河辺たちが、そうだ、そうだ、という風に頷いていた。
「そう。人のことを考えず、自分の考えた道を突き進んでいく男。
だから周りの人間は最初、唖然として、それから理解できない行動の男に対しては、自分の視界から遠ざけようとする。そうゆうものだ。
それができないと、遠くから手を廻し、攻撃したり、潰しにかかったり、排除しようとする。
それを理解した俺は、そんな人間関係に辟易していた。
だって、皆いい顔をするんだよ。すごいね、だとか、その仕事手伝うよ、だなんて。
でも、それはまったくの社交辞令で、実際はその逆のことを考えていたんだ。
最初はそれに気づかず、そのままの申し入れを受けるために、いつも後でショックを受け、愕然としたことが一度や二度じゃなかった。
だって何もやってくれないんだからな。でも、俺は疲れた体に鞭打って、笑顔振りまいて・・・。
まだ、明確に見える虐めならいいさ。でも見えない虐めは意外ときつかったぜ。
本人に聞こえるように噂話をしたり、今までやっていた俺の仕事を横取りし、後輩に廻してみたりと、そのあからさまな態度に、心を壊されかけた。
それから陰でネチネチと・・・いわれ、な。わかるだろ?
それで、俺は、ちょっと精神が病んでしまってな。
気づいた時には、普通の生活ができなくなっていた。
それで、病院に行くと、うつ病だと診断されたよ。
だって、発病前のその年の一月から三月には毎月百二十時間以上の時間外労働があったし、それに仕事が出来なかった時の上司からの追及が必要以上にしつこくて、厳しかった。
それを助けてくれる同僚もいなかったし、下からの突き上げも酷くて、な。
そのためか心理的負荷が重くなり、耐えられなくなってしまったわけだ」
僕は溜息をついた。
思い出したくない苦い思い出がふつふつと甦り、息苦しさを覚えたのだ。
「それで、十四年間務めた会社を辞めたんだ。
だって、会社に行こうとすると、吐き気を催し、熱が出て、動けなかった。
それでも無理して起き上がると、眩暈を起こし、歩くこともできずに倒れて、救急車だよ。
今までこうでなくてはいけない、こう生きなければならない、それからこの仕事を終えなければ、休まない、なんて強く思ってきた俺だ。
でも、体や精神が、それに対し、拒否反応を示すと、何で俺はできないんだ、どうしてやらないんだ、って自分に苛立ち、歯がゆくて、そして、わびしくなり、虚脱感に苛まれて、何もヤル気が起きなくなってしまった。
最初は、な、大きなことが出来なくなり、やがて小さな、何でもないことでもできなくなっていた。
もう、限界だったんだ。何をやるにも・・・。
うつ、なんていうものは、誰にでも成りうるものなんだな、そう思ったよ。
いくら強い男だったとしても、体の調子を崩し、病気になったり、些細な不利益、失敗が続くと、それがストレスとなり、身体を蝕んでいく。
それを、誰にも相談できず、自分一人だけで抱え込むと、抵抗できるはずの免疫力も落ちるんだ。
いつもだったら何のことはないことでも、出来なくなってしまうように。
それが三十七歳を目の当たりにした時だった・・・」
僕は、一気に喋った。
そして、身体中に蓄積する濁りを、溜息にし、それを吐き出すと、この場にいる一同が唖然として、何を言っていいのか分からない様子で、ただ口をポカーンと開けているだけだった。
だが、しばらくすると、気の抜けた声がした。
「ふ~ん。そんなことがあったのか」
と楢崎の独り言のような、小さな声が聞こえた。
楢崎は、胡座を組み、煙草を吹かし、いつものように、どことなく、めんどくさそうに、枝豆の皮を剥きながら言った。
そんな二十年が経った今でも変わらぬ楢崎に、全員が救われたような気がした。やはり楢崎は、楢崎だった。僕たちの重い過去。
川島の死、僕のうつ病。
だが、楢崎の訊いているのか、いないのか分からない、その受け答え。
本当はもっと、そのうつに対しての原因や理由を話さなければならないのかもしれない。
でも、今、僕はこのように礼服に身を包み、この場でこうして座っている。
だからこれが答えで、それ以上でも以下でもない。
これでいいのだ、と楢崎が言ったような気がして、気分が幾分楽になった。
今、喋らないといけない、と思ったのはこうゆうことだったのかもしれない。
僕には、気を許せる仲間がいる。
このように鬱積した濁りを聞いてくれる友が。
だからこんな時に話さない訳はない、と。そう思ったのだ。
この機会を逃せば、ずっと自分の胸にしまっておかなければ、ならなかったであろう。そして、悶々と生きていかなければならなかったはず。
「そっか。で、皆川の方は、どんな人生だったの?」
楢崎はまるで、もう僕の話しには飽きた、という具合に、沙織に話しを振った。
「私の方は・・・大学が名古屋だったし、藤賀とは疎遠になり、自然消滅もしょうがないかな、って思ったわ。
最初の三ヶ月は良かった。
お互い、頑張ろう、って。電話したり、メールしたりして、日々の報告なんかもした。
でもね、会いたい時に会えないって、大きいわよね。
お互い若かったし、会えないことへの我慢も出来なかったんじゃないかな。
福岡と名古屋では、どちらかが交通費を払って、会いにいかなければならないでしょ。
高校生のデートじゃないんだから。それに遠距離恋愛では、目的も違い、それは濃いものになってくる。
これがね、まだ働いていて、自分でその費用を捻出出来るのであれば、良かったのかもしれないけど、結局は親に無心しなくちゃいけなかった。
だから、それは気を使わなければならなかった、ということよ。
それで、そんなことを考え始めて、半年が経った頃かな。
私から切り出したのよ。
もう、別れましょ、って。
で、お互い別れて、好きな道を歩んだ方が、それがお互いの為になる、って言ったの。
だって、藤賀だって、大学を卒業したら、名古屋に帰ってくるのかも分からないし、もしかしたら、福岡で就職するかもしれないでしょ。
私だってどうなるか、分からないもの。
とにかくあと四年はこんなことが続くのは間違いないんだから。そう思うとね。気が狂いそいだった。
私、あの時のこと。今でも忘れない・・・。
私たち、受話器を握り締めたまま、三十分はずっと無言でいたよね。
そしたら、藤賀が痺れを切らしたのか、突然大きな声を出したの。
もう終りだ、ってね。
その言葉を耳にした途端、私は最初、悲しいというより、あの時は、ほっとした気持ちの方が強かったと思うの。
でも、実際は、そうじゃなかった。涙が止まらなかった。
もしかしたら、本当は俺を信じて待っていてくれ、って言ってもらいたかったのかもしれない。
だから、私は、鳴らない電話を、ずっと眺めていた・・・」
静かに沙織はそう言った。
舐めるようにカクテルを飲む沙織を見ながら、僕は、思った。
そんなこととは、まったく思いもしなかった。
沙織がそれほどまでに思い悩んでいたなんて、今、初めて知った。
あの時の彼女の言葉は、軽はずみに出た言葉だったと思っていたから、僕は自棄になって、終止符を打ったのだ。
僕も、本音は絶対待っている、と言って欲しかったのかもしれない。
結局、あの時の二人はきっと、楽な方へと、逃げたんだろうな。今にして思えば、そうだったのだろう。
「で、私は自分の道を歩くことにした。四年の大学生活を終え、卒業し、貿易会社に入社し、そこで二年間だけ働いたの」
沙織は静かにカクテルを飲み干した。
「二年間しか働いてない、って?
だってその会社に勤める上司、橋本と付き合うようになり、そのまま寿退社だもん。
橋本は三十六歳で、私はその当時は二十四歳。
十二歳差婚よ。で、すぐに男の子が生まれ、二年後には女の子も生まれた。
でも、そんな幸せな生活も、そう長くは続かなかった。
だって仕事が出来る人って、女に手が早いんだもん。
私は、橋本が部下と不倫してたのを知ってた。
それも私の知ってる女だったから、ショックだったわ。
男ってなんで、妻に子供が出来ると、相手に魅力を感じず、家庭から逃げるように、出ていくんだろうね。
その理由はね、大概は他の女に向かうのよ。
いいの、私も言い訳ではないけど、橋本とは元々、価値観が違うと思っていた」
沙織は、更にカクテルを注文した。
「もう一杯飲むね。
だって、机に乗ったほんのちっぽけな小さな埃を気にしたり、自分はよく外出するのに、私の行動にはうるさく言い、監視、というのか詮索ね。それをしてたのよ。
だから私は、そんな橋本の細かな性格に嫌気が差していた頃だった。
ジェネレーションギャップも感じていたしね。
親とも相談した結果。別れることにしたわ。
そして、話し合いの末、息子が橋本に引き取られ、娘は、私が引き取ることにした。
娘が十歳で、私は当時三十七歳。最初は橋本が二人共引き取ると言ったんだけど、娘の名は香世というんだけど、香世がね、私を選んでくれたの。
父親を頑なに拒み、私と暮らすと言ってくれた。
息子の名は翔太と言うんだけど、元々橋本が翔太を溺愛していて、二人でよくキャッチボールをしてたし、それでプロ野球選手にさせるんだ、と躍起になって練習に付き合っていたもの。
私だって翔太は可愛かった。でも、息子は夫を選んだ。
離婚をして、私はちょっと、ね、誰も信じられなくなって、対人恐怖症じゃないけど、そんな風になっちゃった。
でも、娘がいるし、これじゃいけない、と思ったわ。
この子を育てていかなくちゃいけない。でもそんなパワーは、その時の私にはなかった。
それで、矛盾しているのかもしれないけど、私は子供を母親に預け、ちょっと一人になって、考えたいことがあったから、中学時代に行ったことのあるアメリカに旅をすることにしたの。
中途半端かもしれないけど、五泊七日の日程で行くことに決めた。
理由としては、費用的なものもあるけど、娘を長い間、母親の所に預けるわけにはいかないでしょ。
ま、とにかく、娘を一人で育てていく前に、自分が新しく生まれ変わって、少しでも強くならなくちゃって、ってそう思った。
それには過去をリセットしなくてはいけない。娘も納得してくれたし、それで行くことにしたの。
自分勝手よね。こんなことする母親なんて、いないものね。
でも、私は、自分を大きく変えようと思い、アメリカに飛んだの。
そしたら、奇跡的に、そこで藤賀と再会した。
あの時、もし、アメリカで、藤賀と会わなかったら、私はどうなってたかな。分からないわ。
それほどまでに、私は弱っていたもの。肉体的にも精神的にも。
だから、お互い、弱ってた時だし、今になって思うと、こうなることが、奇跡的でもなく、必然的なことに思える。なんかある種、自然なことのような気もしたー」