4、掌から零れ落ちたもの
4、掌から零れ落ちたもの
日が長くなり、気温もぐんぐんと上昇し、夏が近づいてきたのを肌で感じると共に、梅雨独特の湿り気のある不愉快なシーズンがやってきたことを知る。
緊張感があるためか、体がだるく、いつもより欠伸がよく出た。
人間は緊張すると欠伸が出るといわれている。
それと陽気がいいためか目を瞑り、横になっていると、瞼も重くなり、いつの間にかうとうと、と・・・。
いや、違う。
実際のところは、試合前の恐怖心からの防衛本能とでもいうのか、身体が委縮して、動けない。
まるで金縛りにあったかのように。
「お~い。藤賀!」
最初は遠くから、そして、徐々に近くでするようになり、やがては耳元で、声がした。
「なんだ、寝てたのか」
僕は目を見開いた。
「ここはどこだ?」
「何言ってんだよ。城南大だよ」
髪の毛を所々お洒落に立たせ、眉毛を細く、整えている男が上から覗き込んできた。
目の前に楢崎の顔があった。
「城南大? 何で俺がここにいるんだ?」
「はぁ? お前、本当に寝てたな。度胸があるのか、本当の馬鹿なのか。
いいか、俺たちはまさに今、ボクシングのインターハイ予選決勝を迎えようとしているんだ、分かるか」
「試合、終わったのか?」
僕は、大欠伸をしてから訊いた。
楢崎は口をあんぐりと開け、その後、いきなり僕の頬をペチペチと叩いた。
「ったく、めんどくせえな。お~い。大丈夫か。早く起きろよ」
楢崎は声を大にした。
「ここで寝てもいいが、リングの上でだけは寝るなよ。さあ、さあ、もう起きて、お前、もうすぐ試合だぞ。わかってんのか?
その次は俺だからな。ぶちかましてやるからよ、その時は目を見開いて、ちゃんと見てろ。
なにせ俺の試合は、歴史的一戦なんだから。見逃すんじゃないぞ。
それに比べ、お前の試合は、俺の前座でしかないがな、フフッ」
「何いってんだか」
度胸なんかこれっぽっちもなく、
逆に緊張で体が動かないくらいだ。
リング上の音に敏感で、ちょっとでも変わった音がすれば、背筋に電流が流れ、気になって、振り向く。
それに、ダウンシーンがあれば、それと自分を重ね合わせてしまい、どうしても悪い方、悪い方へと考えがいってしまう。
楢崎のその余裕が羨ましい。
僕なんか、早く自分の番になって、とっとと試合が終わればいい。
願わくは、相手が急遽欠場するだとかして、自分の試合が無くなってしまえばいい、なんて思っていたくらいだから。
「いいか、今日は決勝だ。気合をいれていくぞ」
コーチがボクシング部全員にエンジンを組ませた。
「俺が指示を出すから。お前らは声を揃えて、その後連呼する」
「はい!」
全員が頷く。試合のない部員でさえ気合が乗ってくる。
「中沢、俺の近くにこい。それで、指示した言葉を皆に大声で伝えるんだ。
なにせ、セコンドに付いた者が声を出すことを、禁じられているからな。
だから、その役目をお前にやってもらうんだ」
中沢と言われた男は、目のくりくりっとした愛嬌のある、二年生の体格のいい男だ。常に元気がいい。
「それに、声援は選手を勇気づける。じゃ、練習だ」
コーチが号令を出した。
「ハイ、ワンツー」
コーチが指を二本立てた。
「ワンツー! ワンツー!」
「四つ」
今度は指を四本突き立てた。
「四つ! 四つ!」
「連打」
掌をリングに向かって、連呼と共に振る。
「連打! 連打!」
「藤賀」
「行け、行け藤賀! 頑張れ、頑張れ藤賀!」
「そうだ。その調子だぞ」
なんか皆からこのように声援を送られると、こしょばいい、と感じると共に、気合が乗ってくるから不思議だった。
一人だけで戦っているのではなく、皆と一緒で心強い。
勇気が足元から湧いてきて、それで身体全体を鼓舞する。
ゾクゾクと鳥肌も立ってきた。
「藤賀、用意をしてから、アップを始めろ」
「はい」
僕は頷いた。そして、共栄高校のユニィフォームを着る。
燃えるような赤色のランニングシャツに、トランクス。
集中力を維持することに努め、バンテージを巻いてからは、頑なに口を閉じ、誰の顔も見ないようにした。
リングシューズに足を通し、急所をガードするノーファールカップを付けて、ようやく動き出す。
ゆっくりと柔軟体操から始め、ストレッチをした。
筋肉を解しながら体育館北側の端に目をやると、黒いユニフォームの集団が視界に入った。
その真ん中にどっしりと座った太田の姿を確認した。
三鷹高校の待機場所だ。
その中にいる彼は堂々としており、存在感がある。
遠くから彼が、僕に目を向けてきたのが分かった。
これで太田との試合からは逃れられないことを知る。僕の惨殺劇にならなければいいのだが・・・。
柔軟体操を終え、立ち上がってシャドーをした。
腰を落とし、両膝に均等に重心を置き、左右どちらにも動けるこのフォーム。
今までずっとこのフォームで練習してきた。
僕のフォームは相手に対し、やや正面に向いてしまっているがオーソドックス・スタイルだ。
本当はパンチを貰わないよう、もっと半身に構えないといけないのだが、僕はスピードを重視し、誰に、何を言われようとも頑なに三年間、このフォームを貫いてきた。
手先ではあるが、スピードに乗ったいくつもの連打を出すには、適している。
それに目がいいし、反射神経も優れていると自負する。
太田の右に合わせ、右のオーバーハンドを放つ。クロス・カウンターだ。
今まで、この一連の動作ばかりを、練習でやってきた。
相手の右肩が動くのを察知し、思い切って上から右を被せる。
練習は、きっと嘘をつかない。
この動きが自然に身に付いている。ストレートの角度とちょっと違うし、それに耐久時間も長いため、相手が面食らうはず。
「そうだ。いいぞ」
コーチが、僕の尻を叩いた。
「ほれ、打ってみろ」
コーチの差し出す掌に左、右、左と打ち込んでいく。
左で終われば、体が自然に元の位置に戻り、それがガードとなり、流れてパンチを貰うこともない。
「調子はいいな、藤賀」
いいタイミングだ。
いつも絶妙のタイミングでやってくる。
例えば、バンテージを巻いて、一人で集中したい時には席を外してくれるし、相手を意識し、心細くなりかけた時には、このようにそっときてくれる。
「はい」
僕は肯いた。
試合前はとにかく、このようにナーバスなもの。
だから褒められることにより、気持ちも解れる。
余計なことは考えなくていい。テンポ良く、次々に体を動かしていくに限る。何事も考えなくてもいいように。
「よし、ヘッドギアとグローブを付けるぞ」
基本的な動きやパンチは練習で充分身に付いている。
今更、ジタバタしても始まらないし、するものでもない。そう思う。
今は集中をしなくてはならない。そう、集中力を高めることが重要なのだから。
僕の小さな頃といえば、小児喘息を患い、学校をよく休み、病院に行くことが多かった。
体型も骨川筋衛門、と言われる程に痩せていた。
そのためか学校では浮いた存在で、親しい友人もいなかった。
元々人見知りの性格のため、名更のことだった。
だから、教室ではいつも孤立していた。
何時なんどきも、気を緩めることを許されず、常に気をはっていた。
でなければ、何処からか攻撃を受けるかもしれなかったからだ。
例えば、学校にいけば、黒板に悪口が書かれていたり、机の中にはセミの死骸が放り込まれ、ノートやペンが無くなっていたり、と酷い仕打ちを受けた。
更に、授業中にも関わらず、後ろから上履きで叩かれたりしたことがあったが、反撃に移るほどの勇気はなかった。
それどころか、手がプルプルと震えるのを、止めることもできなかったほどだ。
中学校までの自分は、何に対しても卑屈で、逃げ出すことばかりを考えていた。
相手から何かを頼まれれば、はい、と頷き、相手の顔が曇ると、理由もなく、いつも謝っていた。
そのため毎日が苦痛でしかなかった。今から思うと典型的な虐められっ子だったような気がする。
どうして僕は体が弱く、スポーツや勉強もできず、何に対しても自信がなく、すぐに諦めてしまうんだろう。
自分を変えたい、ではなく、自分が変われればいい、と物事を受動的にしか考えることができず、将来に対し、何の望みもなく、悲観することしか知らなかった。
死ねないからこそ、ただ生き、日々を無難に生きることだけを心掛けていた、そんな少年だった。
しかし、人間というものは捨てたものでもない。
環境が変わっただけで、自分の人生がガラリと変わるもの、と実感できるようになった。
それは、高校に入学し、今まで自分を虐めてきた奴らが姿を消したこと。
それが功を擁し、心に余裕が生まれ、高校から僕が明るく振る舞うようにしたこと。
あるいは、たまたまボクシング部がその学校にあったこと。
それら偶然の産物がかみ合い、僕の人生を大きく変えたのだった。
人生とは、自分で物事を変えられなくても、環境が変えてくれることだってある。
今から思えば、環境が変わらなかったら、性格も変わらなかったかもしれない。
だが、それを生かすも自分、殺すもまた、自分なのだ。
人の苦しい時期はずっと続くものではなく、いつかはその暗いトンネルから抜け出すことができるもの。
そう、止まない雨はない、という言葉のように。
だが、それでも壁はあった。
友人に勧められるままに勢いでボクシング部に入部したが、最初は喘息持ちということで、厳しい練習についていくことができず、辞めようと思った時もあった。
でもそこで辞めていたら、元の木阿弥だったはず。
今になって思う。選択というものは、本当に重要なことなんだな、と。
その時にした選択は、誰の責任てもなく、己の責任なのだ。
一つ間違えば、前へ進むその歯車は脆く、崩れ去る。
もしあの時、辞めていたら、こうはなっていなかっただろう。
そんなものだ。
では、俵に足が掛かった状態で、どのようにして自分が残れたのか。
それは同級生の河辺のお蔭もある。彼も喘息持ちで、
「もう少し続けてみようぜ」
という励ましで、頑張ることができた。
同じ病気の河辺が頑張るんだ、それでは僕も、という気持ちで、歯を食い縛って、暑い日も、寒い日も、食べ盛りの高校時代にも関わらず、減量に耐え、そして、きつい練習にも耐えることができた。
それから、もう少しという言葉の魔力って、ほんとすごい、と思う。
なぜなら最初は、百パーセントの力でなくてもいいのだ。
例えば、十パーセントや二十パーセントでもいい。
でもその十、若しくは二十パーセントを克服すれば、更に十パーセントの力を入れ、その上も、と気づいた時にはエスカレーター方式にグングンと上がり、遂には百パーセントに近づいているか、達しているか、のどちらかのはずだ。
僕はリング下に用意された松脂を、リングシューズに擦りつけた。
そして、先週と同じようにリングに向かう。
インターハイへの道はまだ続いている。
それを実感するためにリングに掛けられた階段をゆっくり、そして力強く、感触を噛みしめながら登っていく。
この階段は、栄光に向かって続くものなのか、あるいは病院送りへと続くものなのかは、分からないが、僕はその階段を一歩づつ丁寧に、ここまでの道のりを、噛みしめながら登っていく。
グローブの独特な匂い。
皮の匂いに混じり、鼻につく今までに染みついた血の匂いの数々。
まじまじと見てみると、ナックル部分には、黒い血痕が残っていた。
それらを見ると、本当に、五体満足で戻ってくることができるのか、とそのことが頭を過り、不安と恐怖が、まるで地面から大量の蛆虫が身体中にせり上がってくるように湧いてきた。
もはや逃げることなど許されるはずもないのに、僕はまだこの期に及んでも、逃げ場を探していた。
自分のそんな性格を呪った。
僕はようやくリングインした。
そのリング上は、固い地面ではなく、バネが効いており、柔らかくて動きやすかった。
この場にきてしまえば、もう腹をくくるしかない。そうだろ?
でも、正直怖かった。
僕は、そんな想いを振り払うべく、動き始める。
跳ねる度にバウン、バウンと音がし、弾力がある。
僕はフットワークを、キャンバスに刻み込んでいく。
いつも通り、いつも通りに動くんだ。
そして、今までやってきたことを、このリングで証明するんだ。
左、左へと大きくサークリングしながら、パンチを貰った時のためにグローブで、自分の頭をコツコツと叩き、体に感触を覚えさせていく。
今日勝てば、インターハイに行ける。
もうすぐだ。
ここまで来たら、必ず行ってやる、インターハイに。
共栄のコーナーで、ステップを踏んでみた。
いいぞ、今日の調子はいい。
むしろ先週の準決勝よりも動けている。
アッパーからフックを連打で打ってみる、太田に魅せしめるように。試合は、もう始まっているのだ。
弱い面を見せれば、相手に畳み掛けられる。
相手の三鷹コーナーに目をやると、太田がコーナーポストに軽くパンチを繰り出していた。
その後グルグルと首を廻している。
それは檻の中の猛獣が、餌が与えられる前のように落ち着きがなく、動き廻っているようだった。
あるいは虎が獲物を捕らえようと、準備運動を始め、今まさに走り出す直前のような感じが思い起こされる。
どちらにしても、糸がピーンと張り詰めたような緊張感が、ここにあるのは間違いない。
真ん中にレフェリーが立ち、そして、中央に呼ばれた。
そこまで歩いていくと、すぐ傍に太田がいた。
うちの楢崎のようなオーラ―がある、そんなことを思うと、自分が小さくなったような気がし、それで身震いを起こす。
頭の位置に気を付けて、フェアープレーで戦うことを指示され、両選手共、グローブを合わせた。
太田が顎を上げ、眉間に皺を寄せ、メンチを切るように上から睨みつけてきた。
少し圧倒され、僕は、ずっと下を見ていた。
こんなところで睨み合っても、何にもならない。
と強がり、目のやり場に困りながら、僕は太田のリングシューズに視線を落とした。
使い古されてはいたが、程よく手入れがなされていた。
挨拶が終わり、一旦、自分のコーナーに戻る。
「いいか、相手は絶対に顎が上がる時がある。
その時を狙って、上から被せる感じで打てよ」
そんなことを言われても、それを頭の中でちゃんと咀嚼することなどできなかった。
だが、僕は必死でコーチの目を見て頷いた。
コーチは、僕の口の中にマウスピースを強引に入れた。
口の中に入ったそのゴムの塊はフィットすることがなく、僕はいつまでもモゾモゾと口を動かしていた。
遂に一ラウンド目のゴングが鳴った。
その音と共に、物凄い勢いで、太田が向かってきた。
僕は慌てた。
始まったんだと、気を引き締る。左にステップし、それをいなす。
凄い圧力を感じ、恐ろしい、と恐怖を感じた。
太田は、すぐに僕の懐に入り込んできた。
それで太田の背が、さほど高くないことを認識できた。
リーチも短い。だが突進力は強かった。気をつけなければならない。
太田が左を振り回してきた。それを、僕は背中を後ろに反らせるスウェーで交わした。
意外にもその冷静な動きに、自分でも驚いた。
何とか避けれた。
いいぞ。奴はこれくらいのプレッシャーで、僕が怯むとでも思っているのだろう。
でも僕は、今までの男じゃない。そうだ。今までの俺ではないんだ。
今度は太田の左ジャブが三つ続く。
それを左のグローブで払い落すパーリングで凌いでいった。
いいぞ。いいじゃないか。出だしはいい。すこぶるくいい。
二ラウンド目に入っていた。
ここまではまあまあの滑り出しといってもいいだろう。
この強敵にも屈することなく、堂々と渡り合っているのだから。
試合前、あんなにも恐怖心をもっていたのが嘘のように、今では練習の時のように平静でいられる。
ようやく、僕は腹を括れるようになったようだ。いくぞ。
太田の鼻息が荒くなってきたのが分かった。
だが、油断するのはまだ早い。
いつ何時、空から太田の鷹のような爪、下から鰐の頑丈で、尖った歯がグサリと、襲い掛かかってこない、とも限らないのだから。
僕は息を整え、相手の出方を窺った。ゆっくり、ゆっくりと前に出て、間合いを計る。
太田がダッキングから大きく踏み込んで左フックを振り回してきた。
それを、首を後ろに振って、スウェーで避けた。
その後、僕は左のジャブを出し、その動きを止めようとした。
ヤバい! 一瞬の隙をつかれた。
三発目のジャブを空振りすると同時に、体が流れてしまったのだ。
「すぐに下がるんだ。大きく、ステップバックしろ!」
コーチの指示が飛んだ。その声はちゃんと耳に入った。
しかし、動けなかった。
ズドーン!
人間にとって重要な個所、首の後ろ側に衝撃が走った。
まるで雷が落ちたかのようだった。
太田のカウンターをまともに食らい、顔面が吹っ飛んだ。
凄いパワーと衝撃だった。
ピリピリと電流が流れ、足がふわついた。
ボクシングを続けていると、このように神経が一本、また一本と破壊されていく。
それで破壊された神経は、修復されることはない。
僕は大きな口を開け、空気を吸った。
鼻の奥が異常に熱かった。しばらくすると鼻血が出てきた。
「ストップ!」
レフェリーが間に入り、仲裁した。
太田を白色のニュートラル・コーナーにやり、そして、僕にカウントを始めた。
じりじりとレフェリーが近づき、そして立ち止まった。
大きな男だった。まるで壁のようだ。
「ワン、ツー、スリー」
効いている、効いていないは、貰った角度、それからタイミングにもよる。
このパンチは、タイミングがドンピシャだったかもしれないが、
「フォー、ファイブ、シックス」
角度があまい。
僕は効いてないというように首を振り、ファィティングポーズをとった。
ようやくレフェリーはカウントを八で止めた。
スタンディングダウンをとられたのだ。口の中で錆びた血の臭いがした。
アマチュアは選手の健康を考え、効いてなくても、いいパンチが綺麗に入ると、すぐに止められてしまう。
それで、一ラウンドに二度ストップが掛かると、RSC負けで試合は自動的に終わることになっている。
こんなところでは終われない。僕はまだ納得していないのだから。
太田、お前のパンチは、残念ながら角度が悪かったようだな。だから、僕はこうして立っていられる。
まだ、太田の顔を見る余裕がある。その顔の焦りの色は、何だ?
もしかして、スタミナ切れか。お前の本音は、これで終わらせたかったのだろう。だが、あまい。
残念だな、まだまだ終われない。それに、スタミナは僕の方に分があるんだ。
コーナーを見た。
「藤賀、あと一分だ!」
河辺や三浦、近藤の顔が見えた。そのどの面も、心配した顔つきに変わっていた。
何をそんなに心配顔を、向けているんだ?
俺は大丈夫だ。
まだ意識はちゃんとしている。ちょっと相手の拳が、俺の鼻の頭にかすっただけさ。
僕は共栄のコーナーに向かって頷いた。
「深呼吸しろ」
コーチは、肩を揺すれと合図を送ってきた。
僕は大きく深呼吸をした。
鼻血は止まらなかった。鼻を鳴らして、息を吸わなければ垂れてくる。
口にはマウスピースが入っているため、苦しい。
グローブで、その鼻血を拭いた。どす黒い色だった。こんなにも息を吸うことが苦しい、ということを初めて知った。
でも、まだ僕はやれる。
太田も分かっているようで、構えをとった。
「ボックス!」
太田が試合を終わらせようと、突進してきた。
あと一度ダウンを奪われれば、それで終わってしまう。
あまいところを見せれば、相手に付け入られる。
ボクシングはヤルか、ヤラれるかのシーソーゲームなのだ。
ミスを犯せば、それが十倍、いや、百倍になって返ってくることだってあるのだ。
「ラスト三十!」
「ラスト! ラスト! ラスト!ラスト!」
太田の大きなパンチが飛んできた。
その軌道がはっきりと見えたので、膝を折り曲げダッキングで避けた。
そして、体勢を整え、早いワンツーを放った。ヒットした。
「連打!」
「連打! 連打!」
共栄のコーナーが盛り上がってきた。
「ラスト! ラスト!」
リズムに乗っての大合唱。
「連打!連打!」
最初はなぜ、ボクシングというものは、憎くもない男とやり合い、殴り合わなければいけないんだろう、と疑問に思っていた。
僕は息が続く限り無茶苦茶に手を出した。
どのパンチを出したのか分からないほどに。
ここで手を止めれば、太田にヤラれる。
息が続こうと、続かなかろうと、手を出し続けるんだ。
練習ではいつもラスト三十秒は連打だ。
僕の方が、動きが早いから、こうやって手を出し続けてさえいれば、相手のパンチを貰うことはない。
でも、く、くっ、苦しい。顎が上がり、息を、酸素を欲していた。
苦しいところを見せたら駄目だ。手を出さなければ、自分がヤラれる。
僕ははこれ以上ないほどに、切迫感を抱いていた。
手を出すんだ。手を出せ!
己を奮い立たせ、鼓舞し、敵に襲い掛かるべく、パンチを繰り出していった。攻撃こそ最大の防御だ。
それから、いつからこんな風に、闘争本能が身に付いたのだろう。
これは日々のトレーニングの賜物なのか。
男は何をやるにも闘わなくてはならない、このように。
この先、サラリーマンであっても、きっと闘いはあるだろう。
だからその時に、リングで闘ってきたことが思い出されるはずだ。
きっとこの体験は無駄にはならない。
ここでゴングが鳴らされた。
ほっとし、命拾いしたことに安堵した。肩で大きく呼吸をしながら、自分のコーナーに戻っていく。
このラウンドは確実に取られたが、今度も、何とか戻って来ることができた。
一ラウンド目よりも、息遣いが激しくなってきた。
暑くて、体が焼けそうなくらいに。水を欲していた。
コーチがタオルを濡らし、扇いで風を吹きかけてくれた。
時折水が飛んできて、それでほっとし、束の間の休息を味わうことができる。
「大丈夫か?」
「何で、効いてないのに、止められなくちゃならないんだ。ちきしよう」
コーチに頭を叩かれた。
「バカ野郎。アマはクリーンヒットが入れば、止めるのがルールなんだ。
お前も太田のように腰を据えて、先手、先手で攻めるんだ。
いいか。太田はお前よりも、経験値だって上なんだ。このまま普通にやっていたら勝てんぞ。
これからはお前の得意とする、意表をついた攻撃をしかけるんだ。それで、相手を混乱させてやれ。いいな」
「はい」
僕がそう答えると、コーチが頭を付けてきた。
ヤニの臭いがした。男の顔が近くにあり、ちょっと気持ち悪かったが、不思議と安心する。
「いいニュースだ。いいか。太田の顎が少し上がってきたぞ。
あいつは、スタミナが乏しい。分かるか、顎だよ。
だから次のラウンドに、そこを狙うんだ。
その前に、もっとあいつに、空振りをさせろ。
そして、お前を追わせて、疲れさせるんだ。
そうすれば太田の顎も確実に上がってくるから。
その時・・・。分かってるな。あのパンチで太田を仕留めるんだぞ」
「はい」
この人に付いてきて、間違いはない、そう思った。
インターバル終了のブザーが鳴り、いよいよ最終ラウンドのゴングが鳴った。僕は立ち上がった。
「最後だ、歯を食い縛って、いってこい!」
コーチが思いっ切り尻を叩いた。
「いってぇ」
カーン!
息遣いは乱れていない。いける。僕はステップを踏んで、勢いよく飛び出していった。
腰を据えて、リングを走り廻ってやる。
僕は今まで、あんなにも走り込んできたのだ。まだまだいける。
体力だって充分残っている。僕の試合はこれからだ。他にも、このリング上で、見せたいものがいくらでもあるのだから。
今まで自分の身体を削り、磨き上げてきた技、芸術の数々を。
今の僕は緊張をしていなければ、恐怖も感じていない。
なぜなら僕は、この試合を楽しんでいるからだ。
太田は肩を使って、呼吸をしている。二ラウンド目よりも、動きも荒く、雑になってきた。
頭も振れないのか、動こうともしない。
自慢の右を当てよう、当てようとそればかりを思い、動作が大きいため、太田のパンチの起動がはっきりと読めるようになってきた。
いいぞ、いいぞ。
もう少しで、太田の動きを完全に読むことができる。
これからは僕の番だ。
ゾクゾクと全身に広がってくるこの喜びを、僕は抑えられずにいた。
僕はパンチの引きを早くして、スナップを利かせた、左のジャブを打った。
相手の顎が上がった。
それなのに太田は無謀にも右ストレートを打ってきた。
顎が曝け出されているとも知らずに。
まさにこの時だった。
僕はこの時を待ち望んでいたのだ。
さっきは見えなかったが、今では見える。
僕はそれに合わせ、ステップバックし、渾身の力で、上から右を振り抜いていた。
今まで、何回も、何回も練習してきたこのパンチ。
コーチとのマンツーマンで練習してきた右のオーバーハンド。
練習が終わったのに、マスボクシングに付き合ってくれた楢崎。
いつも傍にいてくれる河辺や近藤、僕の身体の変化にいち早く気づき、心配して、練習をセーブさせようとしてくれた三浦。
たまに熱の入った指導で、打ち方を教えてくれる川島。それらの顔が脳裏に浮かんだ。
まさに、ここだ。
このチャンスを逃せば、試合には勝てない。
僕はこの時をずっと待っていたんだ。高ぶる気持ちを抑えることなく、全ての力を乗せて、右を振り抜いていた。
この際、拳の角度や握り具合なんて、気にするな。
そのまま振り抜けばいいんだ。そうしなければ、チャンスが逃げていってしまうのだから。
バコ!
確かな感触が右の拳に残った。
すると、自分でも信じられない光景が瞼に広がる。
なんと、ゆっくりと、太田が前のめりになって倒れていったー。
時間が止まった。
あれだけうるさかったリング周辺が一気に静まり、無音状態に陥った。
それで、僕だけではなく、誰もが信じられないといった表情を浮かべた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
リング上がシーンと静まり返っている。
だが僕の拳には、はっきりとした感触が残っていた。
僕は高々と右手を宙に掲げた。
「よーし! よくやった」
コーチがはしゃぐようにロープに手をかけて、何回も揺すって喜んでいる。
「すげぇぞ、藤賀!」
河辺も嬉しそうにキャンバスを叩いていた。
近藤は左拳を突き上げ、三浦は喜んで、その近藤の背中を叩き、楢崎はグローブで拍手し、川島は腕組みをしたまま、頷いていた。
「よっしゃあぁぁ!」
それらを見た僕は飛び上がって、全身で、喜びを爆発させた。
無音状態から、ザワザワとした静かな波の音が、聞こえてきたような気がした。
それと、さっきからツーンとした耳鳴りが響いていて、鳴り止まない。
何かが違う。
楢崎がダウンを取った時、川島が相手を倒した時とは、明らかに違っていた。
それがいいことに止まった時間がいつになっても動き出そうとしない。シーンと静まり返ったこのリング。
これはもしかしたら現実ではなく、夢の中の出来事なのか。僕は自分の目と耳を疑った。
灰色がかった色彩には、何の意味もなく、小波のように、音を立てず、この場にひっそりと存在していた。
静止した画像のように、何事も起きないこの状況に、周りの観衆もやきもきし始め、ザワザワとしてきた。
でも太田はまだ立ち上がってくる様子もなく、リング上でうつ伏せになって倒れたまま。
なのに、なぜレフェリーはカウントをしない。なぜだ?
僕の掲げた右の拳が行く手を無くし、宙ぶらりんの状態のまま馬鹿みたいに停止していた。
どうした?
焦りと共に、理解できないこの状況に苛立ちが募ってきた。
「共栄高校、藤賀オープン・ブローのため、失格」
レフェリーがえらくかしこまり、だが明確にそう伝えた。
「勝者太田!」
「何だよ! バカ野郎!」
コーチがリング上に乱入し、物凄い剣幕でレフェリーに詰め寄った。
「ちゃんと説明しろよ。藤賀はな、藤賀は、このパンチばかりを練習してきたんだぞ。
そして、太田を倒したんだ。なのに、この結果はどういうことだ!」
リング上が騒然となった。
荒れ狂う者に、罵声の数々。
僕はそれを他人事のように眺めていたが、視界が歪み、頭の中で激しい耳鳴りがして、立っていることができず、しゃがみ込んでしまった。
その後、僕の耳には、何も入り込んでこなかった。
リング上で激高しながら詰め寄るコーチや、それに必死に説明するレフェリーの光景も、全てが僕の視界から追い出されるように出ていき、ゆっくりと現実がフェードアウトしていくと共に、一人の女性が僕の目の前に現れた。
それはとてもぼやけていて、判別に苦しんだ。
だが、それも段々と輪郭が形成されていき、あのエキゾチックな顔の皆川沙織の姿であることを感じ取った。
なぜ、こんなところに彼女の姿があるのか不思議に思ったが、この際、今の僕にはそれが幻だろうが、現実だろうが関係なかった。
彼女が、僕に向かって白い掌を差し出していることだけに、現実であることを求めよう。
必死でそれを掴もうとしたが、僕は遠くの方にいて、その手を掴むことができない。
いくら手を伸ばしても、つま先立ちしても届かない。
自分の背がもう少し高くて、川島のように高ければ届いたであろう。
それとも背は低いが、サウスポーの近藤のようにリーチが長くて、左腕がグーンと伸びれば、届いたのかもしれない。
でも、悲しいかな、僕は背が高くもなければ、リーチも短かかった。
やがて、その天使のような笑顔が遠くの方にいってしまう。
どうすることもできない。何で、こうなるんだ。
今までやってきたことが、全てパーだ。
今までにないくらいの猛烈な虚しさを感じた。
目が潤んでくると視界がぼやけ、それで皆川沙織の顔も見えなくなってしまった。
どうして神様は、こんな風にソッポを向いてしまうんだろう。
涙がポツリと一粒、頬を伝い、それがリングのキャンバスに落ち、その後、広がっていった。
目が霞み、視界がぼやけ、何もかもが憂鬱で、たまらない気持ちになってきた。全てが終わりのようだった。
なぜだ? なぜこんなことになってしまったんだ。自分がしたことが、どんな意味をなすのかが、全く理解できなかった。
毎朝眠い目を擦りながらのランニング。
背中と腹がくっつきそうになるくらいの空腹感に耐え、時間を潰すために見たテレビには、あろうことか海外旅行のグルメリポートが流れていた。
それから苦しくて、苦しくて何度も泣いた練習。
試合後に食事をして、その後気持ち悪くなって吐いたこと。
そんな僕の脳裏にある苦しかった思い出が霞んでいく。
掴み損ねたものは大きい。
もうちょっとだった。
勝利はすぐ目の前にあったのだ。
でも、それは僕の掌から零れ落ちていった。
そして今、僕の掌には何もなく、ただ、虚空を掴んでいるだけだった。
何で、こうなるんだ?
心の中に・・・無が広がっていき、まさしく僕の身体はがらんどうとなり、何も残されてはいなかったー。
「おい、川島」
体育館入口から丸刈りのコーチが、周囲に鋭い視線を送りながらやって来た。
試合後、顔を洗って出直してきたようで、頬の辺りに水滴が垂れていた。
周囲をギョロギョロと見渡す大きな目は、威圧的で近寄りがたい。
「もうそろそろ準備を始めるぞ」
「はい」
川島が上着を脱ぐと、その下に赤いランニングシャツが現れた。
「楢崎、頑張れよ」
とリングに向かって言った。
「ああ」
楢崎は首を廻しながらコリを取る。僕の次の試合は、楢崎だ。
「しかし、藤賀の奴、この予選に入って目まぐるしく成長したのに、あんなので終わりかよ・・・」
楢崎が独り言のように呟いていた。
「あいつ、この一週間ほんと頑張ってたよ。同じパンチばかり練習してさ。
来る日も、来る日も右のオーバーハンドを。
あんなにやったことなかっただろうに、あの練習嫌いの藤賀が、だよ。
そして、ここぞっていう時にそのパンチを出した途端に、試合が終わった・・・」
川島は、二年生の立澤にヘッドギアを付けてもらっていた。
「何回も練習したパンチでさ、あの太田をひっくり返したんだ。あの時のコーチと藤賀の嬉しそうな顔・・・」
楢崎がようやくリングに上がった。
「まあな。あんなに強かった太田を倒したんだ。
倒れた時の太田の顔、印象的だったよな。
それで、しまったっていう顔があり、ありだった。でも立てなかった。
だって、ものの見事に藤賀のパンチが、奴の顎を捉えていたからな。
そのパンチが当たった時、バコっていう音が聞こえたんだぜ。
まるで何かが壊れたような音だった。そしたら太田が倒れていて・・・気づくと場内は騒然だった」
グローブを付けた拳で、川島は自分の頭をコツコツと叩き、気合を入れた。
「それが、一瞬の内に凍りついた。なぜかって?
オープン・ブローで失格負けだよ。ナックルを返すことなく、掌で打ったということで負けたんだ。
くそ。そんなのってありかよ。あれが倒れていなかったら、減点だけで済んだのに、な。運が悪いことに倒れちゃったんだ・・・」
リングに上がった楢崎はロープを掴み、思いっ切り飛び上がって、バーンという音と共に着地した。
大きな音を出して、嫌な風を断ち切るために、あるいは俺はこれ程までに怒っているんだ、という意思表示をして、それで相手を委縮させるように。
本来、アマチュアは、グローブが白くなったナックルパートの部分を相手にヒットさせ、それでポイントとして点が付けられることになっている。
しかし、その裏側で当てると、減点になるのだ。
「でもなんでアマはヘッドギアをつけなくてはいけないんだ、ったく」
その後楢崎は、モゾモゾしながらヘッドギアに手をかけた。
「決まりなんだよ」
川島は、リング上に目を向けた。
「ああ、クソ。ヘアースタイルが崩れたじゃないか、もおっっっ」
「よく言うぜ。そんなクソみたいなヘアースタイルしてて、何いってんだか」
リング上の楢崎の顔と、その下にいる川島の顔が徐々に引き締まっていく。
高校生というのは、言っていることと内心ではいくらか違いがあるが、顔の表情は正直だ。
「今日もリングシューズ、左足から履いたのか?」
川島は下から訊いた。
「ああ」
マウスピースを口に含んだ楢崎が答えた。
それから楢崎はよし、と気合をつけ、ロープを掴んで屈伸をしてからは、自分の殻の中に閉じこもるべき、口を閉じた。
「よく知ってんな」
それを見た三浦が、川島に近寄っていった。
「自分の中でちゃんと決めているらしいんだ。
あいつのゲン担ぎなんだよ、左足からリングシューズを履くっていうのは。
ああ見えて緊張しいなんだよ。笑っちゃうだろ。
それより藤賀と話しているのを耳にしたんだが、なにが歴史的な一戦だ、だよ。大法螺吹きやがって、あの野郎。まったく笑えるぜ」
「そうそう。あいつね。それが、いつもどうりの楢崎じゃないか」
河辺がストップウオッチを持って、いつの間にか皆の所に戻ってきた。
「ああ。口だけは強がるんだよな、いつも」
二人共眼鏡をはめ、背も低く、後ろから見るとよく見間違う。
三浦の方は相手と目を合わせないが、河辺はわりと目を見て話す。
そういうところに性格が出ているのだろう。
「藤賀は?」
「さっき、心配だったから様子を見てきたんだ。元気だったよ」
河辺は、リング上の楢崎に視線を向けた。
「もうすぐ、くるさ。でな、今から楢崎の試合があるだろ。
だから俺は、待機場所からリングサイドに戻ろうとしたんだけど、そうしたら、いつものごとく藤賀が俺のタオルどこやった、リングシューズを脱がしてくれって、もう、こきばっか使いやがるんだぞ。
ちったぁ、落ち込んでるかと思ったけど、心配して損したぜ」
「いいじゃないか。お前、パシリだろ」
三浦は、やや横目でニヤリとした。
「パシリじゃねえよ」
「ちきしょう!」
「ああ、きたきた。藤賀。早く来いよ」
河辺が呼んだ。
「こっち来て、皆で応援するぞ」
「ああ、ムカつく!」
僕は、釈然としないまま皆の輪の中に入っていった。
「なんだよ、てっきり勝ったと思ったのに・・・。ああ、クソ。あの審判、三鷹高ときっとグルだぜ」
「そんなこと言うものじゃないぜ」
と僕の顔色を窺いながら三浦が言った。
「それより、お前、大丈夫か?」
「何が?」
「いや、顔も少し腫れてるし・・」
「大丈夫だよ。それよりさ、」
僕は無理に笑顔を浮かべた。
「俺の試合が終わった時、周りが騒々しかったよな」
「まあな」
河辺が答えた。
「俺見たんだよな」
「何を?」
「目の前をふゎ~ってハチの差し歯が飛んでいくところを」
僕はこういうキャラだ。いつまでもクヨクヨしていられない。
「ハチの口から歯がプワーって」
「見た、見た。俺も見た」
三浦もノッてきた。
「だってハチ、凄い剣幕で抗議してたからな」
「お前も見たのかよ」
僕は、無理にテンションを上げた。
「まさかな、口の中からあんなものが出てくるとは、思いもしなかったぞ。
最初はご飯粒かと思ったが、キャンバスに歯がコロコロって転がってた時には、絶句したぜ。マジで」
「それで、その後どうしたか知ってるか?」
「いや」
僕は首を振った。
「その後は見てねぇよ」
「俺、見てたんだけど、ハチ、随分興奮してたよな。
それで、差し歯がリングの上に転がったんだけど、何事もなかったような顔で、それを拾って、すぐさま付けてたよ」
三浦はニヤッとした。
「俺は気づかなかったな。でも、お前、ボクシング弱いのに、そういうところだけは、ちゃんと見てんだよな」
僕はキツイ一言を放った。
「ああ。目に入っちゃうんだよ、そういうところが」
「違うよ、そこがお前のいいところだ。誰もが見逃すところを、ちゃんと見ている」
河辺がフォローを入れた。
「は? そうかな」
「お前の人間観察は凄いよ」
僕は、三浦の肩を揉みながら言った。
「選手じゃなくて、マネージャーにでもなればよかったんだ。いや、冗談だけど、冗談。本気にするなよ・・・」
と、言葉尻を下げて。
「それはいいとして。でも、ハチ、凄かったよな」
三浦が笑みを浮かべた。
「レフェリーに何処見てんだ! ちゃんとナックル返しただろ。
だから相手も効いてたんだよ、って必死に抗議してたもんな。
ハチって必死だよ、いつも。だから俺らもついてきた」
「まあな。まるで、学校で喧嘩をした小学校の息子のために、教師に呼び出された親が、そんなことで暴れるような息子じゃない、何かの間違いだ、って逆に詰め寄るような感じだ。
でも、俺らにとっては嬉しいよな。そういうの。本気ぽくってさ」
川島はまた、軽く動き出した。
「まあな」
三浦が同調した。
「おう」
僕は言った。
「でも、どんな比喩だ、それ」
「いいじゃないか。だけどハチって、喧嘩ぱやいとこあるのに、俺らに手上げたことあったっけ?」
川島が皆に訊いた。
三浦、河辺、近藤、それから僕も首を横に振った。楢崎は試合前でリング上だが、ないはずだ。
「口は悪いが、」
三浦は言った。
「ハチはハチなりに俺らのことを思って、口だけで教えてくれたんだよ。
そして、真剣な目で、本気でぶつかってきてくれたんだ。
だから、俺たちはハチについてきた。そうじゃないか。
手上げる奴にろくな奴はいない、だろ?
それに俺らが手上げる奴のいうことをきくか。きっと、勝手にしてくれって、しらけるだけだろ」
「そうかもしれないな。だって指導者っていうのは、圧倒的に上の立場の人間だろ、そんな奴が手を上げたら、それが間違っていようが、受け入れるしかない。
もし抵抗する策があるとすれば、その指導者から離れるしかない、イコール辞める。そうじゃないか?」
川島は、自分の試合が近づいてきたので、何処となくいつもと違い、落ち着きがなかった。
やはり流石の彼も、高校生なんだ。
「俺もハチだったから、あんなに一生懸命やったんだ。クソー、ムカつくな。
俺はあのパンチばかりを、ハチと一緒に何回も何回も練習してきたんだぜ。それなのに・・・」
僕は項垂れ、腕を目頭に当て、泣き真似をした。
「ちきしょう。これで夏休みのスケジュールを組み直さなければならなくなったじゃねぇか。せっかく、インターハイに行く予定を組んでいたのにな」
「そう肩を落とすなって。俺たちと一緒に遊びにいけばいいじゃないか」
河辺が、僕の肩をポン、ポンと優しく叩いた。
「慰めんなよ。気持ち悪いじゃないか。こういうことはな、女に言ってもらいたいよな、ったく。触るな」
「藤賀ちゃん、そんなにしょげずに、楢崎に敵討ち取ってもらおう
よ」
近藤が喋った。彼はボクシング部以外の人間とは、あまり喋る
ことはなく、極度の人見知りだ。
「ううっ、お前ら・・」
僕は、また泣き真似をした。
「でもな、お前らには、俺の気持ちが分からねぇだろ」
「分からねぇことはないだろ。あんなに一生懸命練習したのに、こんな結果になっちまったんだから・・・」
「ううっ。河辺だけだよ。俺のことを思ってくれるのは」
「さっきの話だけどさ、」
と、突然近藤。
誰もが口をあんぐりと広げ、黙って近藤の顔を見た。少し、空気
が変わってきた。
そして、
「え?」
と、三浦が頭の中に浮かんだクエッションマークをそのまま口にした。
「何だよ。もう俺の慰めは終わりかよ、近藤」
「いや、そうじゃなくて、藤賀ちゃん」
「冗談だよ」
僕がそう言うと、近藤は安心したような顔になって、続ける。
「俺も、手を上げる指導者だったら、きっと、今ここにはいないよ」
「そうだな。そう思える。よし、気合入れて応援だ。丁度楢崎の相手、それに俺の相手も三鷹高校だ」
川島が言った。
そして、僕は、蟠りを心に抱えたまま、それを吹っ切るように大声を上げる。
「楢崎、頼むぜ、俺の分も!」
「了解」
リング上の楢崎が拳を突き上げた。
だが、彼はリングの上にある照明の光を全身に受け、顔が陰で隠れていて、下からは見えなかった。
まるで僕の手が届かない所に、彼がいってしまったかのように。
ちょっぴり寂しい想いにかられた。もう、僕の出る幕はないのだな、と。
そう思うと同時に、ゴングを打ち下ろす音がこの城南大の体育館に響いた。
そして、愛知県大会、リミット六十キロのライト級決勝戦の幕が切って落とされた。
最初は誰もが息を飲み、黙ってリング上を見つめた。
キュッ、キュッというリングシューズの擦れる音だけが、この静寂な空間に申し訳なさそうにして広がっていく。
やがて時間の経過と共にボス、ボスというパンチが交差する音、それからシュ、シュという息遣いの音が聞こえてくると、徐々に歓声の音も大きくなっていった。
まるで冷たいプールの水の中に体を浸した時のように。
最初は静けさだけがそこに存在するが、少しずつその水温に慣れ、体が解れ、そして、泳ぎだすように。
あるいはクラス全員で黙とうをしていて、チャイムが鳴り、緊張が解ける時のように、観客も動き出した。
「行け、行け楢崎! 頑張れ、頑張れ楢崎!」
「リード! リード!」
距離の探り合いもなく、楢崎が両拳を頬に固定し、首を上下に振り、相手のパンチを避けながら、アグレッシブに中に潜り込んでいった。
そして、いきなり下からアッパーを突き上げた。
今となっては、さっきまで僕も、あのリングの上で同じように闘っていたとは思えない。
もうあれが随分前の出来事のような気がする。
あのグローブの感触に、顔面に受けた衝撃。鼻の奥で感じたあのツーンという涙の出る感触。
それから自分の出したパンチが相手にヒットした時の喜び。
それらのものが、もうこの身体には残っていなかった。
あるのは身体が重く感じる倦怠感と、次が無くなったという喪失感だけだ。
そして、無情にもさっきまで僕のものであったリング上の光が、今では楢崎のものになっていた。
これが残酷にも、舞台から降ろされた者への仕打ちなのであろうか。
「あいつの目と感はいい。そして、相手が打ってきたパンチに合わせ、絶妙のタイミングで打つカウンターはまさに天下一品だ」
そんな僕の気持ちを知るよしもなく三浦は、楢崎の試合に夢中だった。
「楢崎は、動体視力と反射神経に優れ、一発、一発力を込めて打つプロ向きなんだ」
「よし!」
タイム係の河辺がガッツポーズをした。
ダーン、という大きな音がすると、観客の目が一斉にリング上に向けられた。
そこには相手が大の字になって倒れている衝撃的なものがあった。
「よっしゃ!」
湧き上がる共栄高校側の歓声。
皆が僕の敗戦を吹っ飛ばすかのように、いや、きっと、そんな試合があったことも忘れているのだろう。
とにかく、僕の仲間は皆、大声を上げ、盛り上がっていた。
僕も、あんな風に、太田を倒したのだ。
なのに、こうはならなかった。
一体、何がどう、成功者と失敗者との線引きがなされるのかが、自分では判別がつかなかった。
それは大きな力が働くものと、そうでないものの、違いであるのだろうか・・・。
「早ぇ~。まだ一分ちょっとだぜ」
横で頭を掻きながら三浦は感心していた。
「楢崎も腹が立っていたんだよ。藤賀ちゃんがあんな、負け方をしたんだから」
近藤もいつになく興奮気味だった。
「おい川島、」
コーチが川島を見た。
「準備はいいか。次はお前だ」
コーチの少しトーンの上がった声と、安心した顔が印象的だった。
僕はコーチを喜ばすことができなかったが・・・楢崎が喜ばしてくれた。
そして、きっと次に川島も続くだろう。でも、そこに僕の姿は、ない。
結局、楢崎と川島は、いつものようにコーチの期待に応えることができるが、またしても、僕は出来なかったー。
ちきしょう。あんなに練習してきたのに、悔しいな・・・。
何で、物事はこんな風に、いつも、僕にはあっかんべーと、舌を出してから背中を見せるんだろう。
次は、リミット六十三・五キロのライト・ウエルター級の決勝戦だ。
グローブ、ヘッドギアを付けた川島が、いつもと違い、ゆっくり、ゆっくりとリングに上がっていった。
「馬鹿か、緊張しゃがって」
コーチが吐き捨てるように言った。
「俺も藤賀の敵討ちをしてやりますよ。そのために、今は力を抑えているんです」
「お前も楢崎も・・」
コーチは、力強く川島の背中を叩いた。
「いってこい!」
僕も、「お前も楢崎も」と言い、そして、腹の中で川島と楢崎に礼を言った。
カーン! ゴングが鳴ると同時に川島がダッシュした。
まるで獣が檻から放たれたように。
リング上の川島が跳ねる度にバウン、バウンと力強いフットワークを刻む足音がし、彼の脹脛がピーンと張った。
隆々とした筋肉に浮き出る血管。
まさにカモシカのようだった。
川島はサウスポーだ。
楢崎と違い、どちらかといえば、回転の速い連打でポイントを取るアマチュア向きだ。
先ずは基本通りに前の手の右手、リードブローで試合をコントロールしていく。
相手の身長は川島の目の高さくらいまでしかなく、リーチにしても、さほど長くはないようだ。
そういう相手は川島の中に潜り込んでいかなければ、試合にならない。
なぜならリーチの長い選手と一緒にパンチを出しても届かないし、当たらないからだ。
川島の鞭のように打つパンチは、当たる瞬間にスナップを利かせているため、何発でも打てる。
その右ジャブが面白いようにビシビシとヒットしていく。
中に潜り込んでこようとする相手の出鼻をそれで挫き、しっかりとコントロールする。
すごい。凄かった。
相手は、たまにパンチを振るってくるが、川島がそれを全て避け、そして、すぐに打つため、何もできない。
川島のジャブは鋭く、速い。ジャブというより、ストレートに近かかった。
三発目のジャブで顎が跳ね上がった。
「時間は?」
コーチが時間を気にした。
「三十秒経過!」
ストップウオッチを持った河辺が答えた。
「川島! 楢崎とお前で俺の分までインターハイで頑張ってくれよ」
僕は心の中のもやもやを吹っ切るように、声を張り上げた。
川島は皆の声に背中を押され、勢いを感じているようだった。
まさにおせおせムードだった。
個人競技のボクシングだが、このように周りに人間がいなければ、こうまでもヤル気や勇気が、湧くこともないだろう。
ボクサーというものは、ナルシストなのだろう。でなければ出来ない。
川島は、左拳を共栄高校のセコンドに向かって突き上げた。体が自然に躍っている。
バカ野郎。
カッコいいじゃないか、という憧れから、僕もああなりたかったんだ、という妬みや嫉妬、どうせ自分なんかという惨めさなど、あらゆる感情が一緒くたになり、それで僕の小さな内面を掻き毟っている。
心の中が、色々な感情が混ざり合い、人格というものが、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
仲間を応援しようとする感情、憧れる感情、それに嫉妬しうるこの感情。
ここにはない、本当は、違うところに行ってしまった、そう何者でもなくなってしまった僕の感情・・・。
川島はワンツーで、相手を押しやり、その後、キレのある左ストレートをヒットさせた。角度もタイミングもバッチリだ。
「ニュートラル・コーナーへ」
レフェリーが川島を遠ざけた。
何が起こったのかしばらく分からなかったが、気づくと相手が尻餅を着いていた。ダウンをとったのだ。
川島はロープに両腕を乗せ、天井を見上げていた。
男は自分が強いということを誇示したいものなのだろう。
そのために日々の血の滲むようなハードな練習をする。
そう思うと男って、女と違って単純なのかもしれない。
レフェリーの八カウントで相手が再起した。
ファイティングポーズをとり、また向かってくるが、勝負はもはやついていた。
相手の怯んだ目。
自信のない仕草。
そして、プレッシャーに押し潰され、疲れ果てた、動きの鈍い体。
それでもボクサーというのは、レフェリーが止めない以上、本能では戦闘態勢を解かない。
例え意識が飛んでいたとしても、だ。そして、試合が終わるまでは、相手に向っていくのをやめない。ボクサーというのはそういうものだ。
川島は、気を抜くことはなかった。
その向かってくる相手を迎え撃つ小刻みなジャブを数発打った。
今まで鍛錬してきたボクサーを倒すには、それ以上に練習が必要だ。
僕は知っている。いや、僕だけではない。全員が知っている。
川島はいつも全力で、努力していることを。
このボクシング部の中で、一番集中力があり、人一倍サンドバックを打つし、ロープだっていつまでも飛んでいる。
何より、最後までもくもくと、丁寧にシャドーをしているのが川島だ。
そんな川島が本気になれば、県大会で負けるわけがない。
川島がジャブで相手の顎を上げて、それから狙い澄ましたかのようなワンツーを放った。クリーンヒット。
相手が棒立ちになったところでボディから上へと打ち分けての至近距離からの高速連打を見舞った。
ギアを一段階上げた嵐のようなコンビネーションに、相手はたまらず腰から砕け散っていった。
物凄いものを見せてもらった。
僕とはレベルが違う。
スピード、パワー、テクニックと、どれをとっても超高校級で、こいつは本当に同じ高校生か、と思えるほどだった。
いいな、僕だって、こんな男になりたかったんだ、こんな男に・・・。
川島は両腕を高く突き上げ、セコンド陣営が大いに盛り上がるのを、冷静にゆっくりと見ながら、肯いていた。
「早ぇんだよ。俺より十秒も早ぇぜ」
楢崎が笑顔で言った。
「記録破るんじゃねぇよ」
「これで共栄高校から、インターハイ出場者が二名、楢崎と川島が出ることになったな」
近藤が言った。
「行けなかった俺らの分まで頑張ってくれよ」
「任しとけ」
楢崎は、オーバーリアクションで、近藤の肩を何度も叩いていた。
「ハッハッハハハハ!」
「この勢いで優勝してくるぜ」
川島がリングから降りてきて、僕らの輪の中に入ってきた。
すると、皆が川島の頭を叩き、背中を叩き、手荒い祝福で、彼を迎え入れた。
僕はどさくさ紛れに彼の尻を蹴ってやった。
それでも川島は、最高な笑顔でいつまでも嬉しそうに笑っていた。