3、決勝戦に向けて
3、決勝戦に向けて
僕は靴を脱いで、靴下を脱ぎ、そして、裸足になっていた。
目の前には広大な草原が広がっている。
そこに一歩、二歩と足を踏み入れると、柔らかくて、心地の良い芝生の土を、感じたような気がした。
西日が僕の身体を優しく包み込み、自然と頬が緩む。
それに身を委ね、目を瞑ると、サワサワと風の心地良い音が聞こえて 、気持ちが良かったような気がした。
僕は、その芝生の上を歩いた。このように外で、裸足で歩くことなんて今までにはなかった。
まるで雲の上を歩くような感じがした。小石もなければ、木の切れ端などの切り傷に繋がる危険な物もない。
それから犬の糞や、足が汚れるようなゴミもない。
そんな手入れに抜かりのない緑の芝生を踏みしめ、前に進んだ。
膝を高く上げ、芝生を蹴り、ついに僕は走り出した。
腕を振り、出来るだけ速く、いつもより速く走った。
頬を撫でる心地いい風に、少しだけ水分を含んだ草の匂い、それらが手に取るように伝わるようで、僕は笑っているようだった。
いくらでも走れたし、まったく疲れない。
この地平線が何処までも続いていくように、僕がどれだけ走っても続いていた。
このままいけば、自分の背中に羽が生え、飛べるんではないかと思った。
だから僕は両手を広げ、大空を見上げながら走った。
何処に向かうでもなく、真っ直ぐ走れば、その何処かに出られるのではないか、そんな風に思いながら。
そして、僕は、等々飛んだー。
チュンチュン、チュンチュン。
頭上で小鳥の鳴き声が聞こえ、それで目が覚めた。ー 確かに目覚めたような気がした。
気のせいか、それとも夢なのか。
僕は、広々とした草原の真ん中で横になっていた。
微風が心地よくて、微笑んでいたような気がする。
一羽の白い小鳥が僕の額に乗っていた。
オカメインコだ。その小鳥は黄色の羽をピクピクと動かし、僕の額をヨチヨチと歩く。
ずっと見ていると、愛らしくなってくるのが、不思議だった。
背中が痒いのか、インコは器用に掻いている。
やがて、首を上下に動かし、リズムを取り、左右に動く。
えらく気分がいいようだ。
そおっと右手を伸ばし、気づかれないよう、その頭に触ろうとした瞬間。
それは飛び立っていった。
どうやら複数の夢を見ていたような気がする。
未だ、それらの場面が僕の脳裏に、断片的に残っている。
目覚し時計を見ると五時二十三分だ。セット時間は五時半。勿体ないな、あと七分も眠れたのに・・と。
誰もが思うかもしれない。その朝の貴重な時間をやり直したい、と。
でも今の僕は、そうは思わないほどに、気持ちが高ぶっていて、すぐに目覚める。
布団の中でモゾモゾしているとその時間はすぐにやってきた。
二度目の金の音がした時に、左ジャブで目覚まし時計を止めた。
そして、ムクムクと起き上がり、キッチンに行き、冷蔵庫から卵を三つ取り出し、次々に殻を割ってから、ミキサーにかけ、それを豪快に飲んだ。
ビデオで見たロッキーの影響だ。
ロッキーが、生卵を豪快に飲む姿に憧れ、それを真似て飲む。
いつも頭の中で、アイ・オヴ・ザ・タイガーのメロディーが流れるが、実際、よく見るとそれは自分が食べたものを、戻したもののような、グロテスクな物体で、食欲も無くなる。
ゲップと共に外に出ると、既に明るかった。
今日も日差しが強く、気温が上がることが予想された。
街もゆっくりと目覚める。
額の汗を拭った中年の太ったおばさんが牛乳配達をしていた。
遠くの方で、これとは対照的にガリガリで、貧相な男の新聞配達員の姿を見かけた。
こんなにも早い時間帯なのに、スーツをピリッと着こなした三十代の男性が、いそいそと出掛けていくのも見た。一日は既に始まっている。
それらの人々は静かに、できるだけ物音を抑えるよう気を配りながら、空気と同化するように動いていた。
同じように僕も動き出す。
体重が心配なのでウインドブレーカーを着て、そのフードを被って、ランニングを始めた。
決勝戦は今週の日曜日だ。
本当なら試合の一週間前は軽めの練習で、ランニングは禁止されている。
それでも体重を落とすためにと、僕の持ち味のスピードを維持することを考慮し、続けているのだが、実際はとてもナーバスなために眠れず、このようにいつもの日課をこなさないと落ち着かないのが本音だった。
あとは、こんなにも努力をしてるんだから、きっと神様が僕を勝利に導いてくれる、と儚くも、願いに載せて、走り出した。
まだ夜明けということから人気も、車の行き交いも少なく、日中とは、違う雰囲気が街には、漂っていた。
例えば、シャッターの閉まった喫茶店、雨戸の閉まった民家、その庭にある犬小屋の中の黒い犬はスヤスヤと寝ている。
まだ世界は完全には、目覚めていないようだった。
まるで、夢が覚めないことを祈る子供たちのように、悪あがきをしているように。
淡々といつもの道を一人で走った。このように静かな街も現実に存在する。
僕は一人でもこの世界を走った。
ランニング五キロに、百メートルダッシュを十本。
これを三年生になってからずっと続けている。
今、存在するこの世界。同じことの繰り返しの世界は、僕にとって、とても狭く感じた。
世界なんていうものは、本当は狭いのかもしれない。
信号で止まると、僕は、太田の顔を思い描き、その場でシャドーをした。
角刈りの短い頭に、戦車のようなごつい体型。それから上目使いで見るあの鋭い眼光。
それを前に、やみくもに手を出したが、そのいかつい顔が襲い掛かってきて、僕は怯んだ。
後ろを見ると、皆川沙織が見守ってくれていた。
こんな風に彼女が応援に来てくれれば、どんなに励みになることか。
長い黒髪に、あのおしとやかな仕草。でも笑うと笑窪が浮かび、それが可愛らしい。
顔は小さいのに、それぞれのパーツが大きいのが好きだった。
信号が青に変わってもその熱は下がることはない。
シャドーボクシングの手を止めることなく、そこでしばらく動いていた。
原付バイク、それから車の思い出したような排気音にも耳を貸さず、もくもくとシャドーをした。
まるで、彼女が近くにいて、木陰でこっそりと見ているような、そんな気がしたのだ。
前を見ると、あのごつい太田の顔に、焦りの色が浮かんだ。
だが、負けずに、僕はパンチで押し返していった。
こんなに努力をしているんだ。いつの日か、きっと神様がいい風に取り計らってくれるはずだ。
ジャブ、ジャブ、右ストレート、左フックを打った。
だから、僕は太田を倒し、インターハイにいき、彼女に告白する。
そして、デートに誘うんだ。
カフェでお茶をして、それから映画を見る。
お金がないからデパートで、あの服いいね、なんてウインドショッピングをして、夕暮れになれば、何処かのレストランで食事をしながら、その日に見た映画の感想を言い合うんだ。
ごく普通のデートでいい。
皆がしている普通のデートで。
そんな妄想を抱きながら走り出すと、自然に僕の頬が緩んでいった。
身長百七十センチの僕はフェザー級で、体重を五十七キロまで落とさなくてはならない。
アマチュアはプロと違い、試合が終わっても大体がトーナメント制のために、次の試合までに間がない。
常に減量の心配がつき、腹いっぱい食べることが許されない。
だから調子に乗って、日曜日の試合後にちょっと食べてしまったことを今では後悔する。
今日、体重計に乗ると、自分でもびっくり。三キロもオーバーしていたのだから。
「武志、朝食は要らないの?」
家を出ようとすると、後ろから母親の声が追いかけてきた。
「要らない」
「あんた最近、まともに食事してないじゃない。朝くらいは食べなさい。そんなんじゃ、まともに勉強できないし、練習もできないよ」
「うっさいな。生卵を三つ食べたからいいんだよ」
追いかけてくる声から逃れるべく、そそくさと家を飛び出し、学校へと向かった。
多くの部員は交通機関を利用し、通学してくるが、中には片道一時間から一時間半を掛けて通学してくる者もいる。
僕は名古屋市のマンションに住んでおり、高校も近く、自転車通学をしている。
ランニングしていた早朝の時間帯とは違い、街の風景はガラリと一変していた。
先を急ぐ、スーツを着た腹の出た中年の男。だらしなくシャツがベルトから出ていた。
新聞紙を脇に抱えた白髪交じりのサラリーマン。
大きな黒い鞄を背負った学生服の男子。
集団でワイワイ言いながら歩くセーラー服姿の女子たち。
その後ろに、右手に牛乳、左手にパンを持ち、それを齧りながら追い抜いていこうとする二十代の男。
だがその男は、横に広がった女子高生たちに行く手を阻まれ、肩を竦めて諦める。
それらの人々が様々な所に向かっていくのを目にすると、一日が始まったのを知るし、そういう変わらぬ日常に身を置いていると、自分がまさか、今度の日曜日に多くの観衆の前で、ボクシングの試合をするなんて考えられない。
そもそも喋ったこともない男、憎くもない男と殴り合い、勝敗を懸けるなんて、常人じゃない。そう思う。
おまけに殴られ、鼻血を出し、それから顔を腫らしても、何の文句も言えないのだ。
それより辛いのは、例えばコンビニに行き、ジュースを手に、レジで精算をしていると、店員からチラチラと見られるあの時の一瞬がどうにも耐え難い。
店員は思っているかもしれない。
君は街で喧嘩に明け暮れるチンピラなのかい。
頼むから、私に危害を与えないでくれ、とそんな目で見られているようで、僕はいつも釣り銭を確認することもなく、すぐさまコンビニを出ていくことになる。
近所でも、どんな噂を立てられているのか分かったもんじゃない。
あの子、よく顔を腫らしているけど何をしているのかしら?
と、そんな風に。これでいいのだろうか。
もっと他に野球とかサッカーでも、あるいは文科系の部活でも良かったのではないか。
ボクシングでなければ、顔を腫らすことなどなかっただろうに、と思う時もある。
街を歩けば、旅行代理店があり、店頭のチラシやポスターには今年の夏休みのツアーが目白押しで、海に山に、海外旅行、まさに色とりどりのパンフレットの数々が陳列されている。
それらを見ていると、そこには、新しい出会い、発見がある。
インターハイに行かなければ、その夏休みを謳歌できるのだぞ、と背後で全身、黒ずくめの悪魔が、耳元で囁いているような気もする。
正直、何度それでもいいかな、と思ったことがあるか。
減量から解放され、ソフトクリームに、かき氷、それら美味しいものを食べ、バスに乗って海に行き、水着を着た女の子とイチャイチャしながら一緒に泳ぐ。
そんな夏休みも有りかな、と思う時もある。
一体、僕の目指すものは、何なんだろう?
この先、どんな人生が待ち構えているのか見当もつかない。
そして、何処へ向かって走っていけばいいのか、未だに分からない。
これといった夢もなければ、はっきりとした目的もない。こんなことでいいのだろうか。
僕は自転車を漕いだ。
丘の上から、風に乗って、物凄い勢いで交番を通り越していった。
更に進み、いつも母親が買い物に行っているスーパー。
次に女子高生が並ぶバス亭。
その時、自転車が通り過ぎるその風で、一番後ろの女子のスカートが捲り上がった。
随分と通り過ぎた時に、後ろから罵声を聞いたが、僕はそれには耳を貸さず、前へ前へと進んでいく。
あとは平地になるので、そのスピードを利用し、自転車を走らせ、学校へ向かう。
向かう所があるから突っ走っているだけで、ゴールが何処にあるのかも分からない。
僕は、風を感じ、それと一体になるように走り抜けていく。
今の僕は本当にボクシングだけをしていればいいのだろうか、と考えながら。
高校に行き、授業が始まると同時に眠気を催した。
一限目から爆睡状態で、一限目と二限目の間の休憩時間も起きることはなかった。
それでも三限目になると、隣の馬鹿がもそもそとしていたのもあり、いやに、気になった。
僕は横目でチラリと見た。
なんと早弁を目論んでいるではないか。自然と彼の弁当箱に目がいってしまう。
彼は弁当箱を開け、今まさにふっくらと焼けた、出し巻き卵に箸を付けようとしていた。
その甘い匂いで目が覚めると、極度の空腹を覚え、涎が出てきた。
もうたまらん。この成長期に減量なんて考えられん!
先週も、その前の週も試合があって、まともに食べてないのだ。
どうしようもないイライラが、活火山のマグマのように募ってきた。
「ああ、腹減った!」
僕は突然大声を上げた。
クラスの皆が注目したので、隣の馬鹿が慌てて弁当箱を隠す。
「藤賀どうした? そんなに大声を出したりして」
黒板に向かって書き物をしていた、後頭部の禿げ上がった理科の教師がこちらを見てきた。
生徒の中でのあだ名が、ザビエルだ。
フランシスコ・ザビエル。(一五〇六年四月七日~一五五二年十二月三日)日本に初めてキリスト教を伝えた人物で、スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師のことだ。
「こら、南井!」
教師は、ようやく僕の隣の生徒に気づいた。
「授業中に弁当なんか食べて、どういうつもりだ」
「藤賀、頼むよ」
小太りの南井は額の汗を、ハンカチで拭いていた。
「お前だって、今まで寝てたじゃないか、それなのに・・・」
「なんだと! そんなん、知るか。人が減量中にも関わらずにだな、ソーセージやら卵やら、そんな良い匂いを教室中にさせやがって。
今では、お前のそのふくよかな腕でも、平気で齧れる程に、俺は腹が減ってんだよ」
ガルルッと犬が唸るような仕種をした。
「そんなことはいいから。ほら、南井、後で職員室にこい。話しがある」
ザビエル教師にそう言われた小太りの南井は項垂れて、食べかけの弁当箱を仕舞い、鞄の中に戻した後、僕に向かって鋭い視線を投げつけてきた。
「俺の昼食はヨーグルト一個だけだ。ちきしょう。ああ、肉が食いてぇ」
「知るかよ。そんなこと」
南井は舌打ちした。
「自分が好きで、ボクシングしてんだろ? だったらしょうがないだろ、減量も。八つ当たりすんな」
「テメェ!」
何の悩みもないポッチャリ体型。耳を隠したその艶々な黒い髪の毛に、そして、意味もなく吊り上がったその細い目に、僕はカチーンときた。
怒りは頂点に達し、気づいた時には立ち上がっていた。
「やめろ、二人共」
ザビエルが慌てて仲裁に入る。
「南井、お前が弁当を食べているのがいけないんだぞ」
そして、僕の目の前で、落ちていた消しゴムに躓き、ヨロヨロとよろけた。何やってんだか、ザビエル。
彼のそのカッパ禿げが目に入ってきた。
それより、南井が言ったように自分で決めて、ボクシングを始めたのだ。
イライラしているからって、人に八つ当たりはよくないと、綺麗事ではそうなる。
でも、くそ。腹減ったな。何で、周りの人々は気づいてくれないのだ。
僕がボクシングをやっていて、日曜日には決勝戦があり、闘わなくてはならないことを。
それにも関わらず、僕の腹の虫に触ることをするんだ。そりゃ、チャホヤしてほしいというのが本音だよ。
でもハッキリと、そうは言ってないじゃないか。もう少し気を使ってくれてもいいだろ。こんなに苦しんでいるんだ・・・。
だから、僕の顔を見て、察知してくれー
僕はどうしてボクシングを始めたんだろう・・・。
男だったら、そりゃ、強い男になりたい、って思うし、ビデオでロッキーを見て、生まれて初めて感化された。
彼のあの背中に、ロマンを感じたものだった。
だから、食べたい物を我慢し、過酷なトレーニングを重ねてきた。
それでも、実際は痛い思いばかりするし、テレビのような華やかさもなければ、カッコよく動くことも出来ない。
現実は鼻血を出したり、唇を切ったり、と。
お蔭で綺麗だった鼻筋が、今では団子鼻になってきた。これで、いいのだろうか・・・。
六時限終了後、僕は気持ちを切り替え、学校の門を出て、向かえにある古くて、赤焦げた壁の二階建てのクラブハウスに向かった。
昔、工場の寮だったところを譲り受け、そこをクラブハウスとして使っているのだ。
四DKで一階は駐車場だ。十台分のスペースがあり、真ん中に簡易的なリングを造り、壁側に、上からパンチングボールとサンドバックを二つ吊るし、ジムが創設されている。
上が部屋となっているので、雨は凌げるが、難は冬場の隙間風が身に染みることと、夏場の下から突き上げてくる熱気が異常に暑いことだ。
まるでフライパンの上にいるかのように。
「チェイッス!」
階段を登った所で、上から挨拶が聞こえてきた。
もう後輩が練習の準備を始めている。
「おう」
僕は少し威厳を持って応対した。
共栄高校ボクシング部の伝統は古く、昔は上下関係が厳しく、まさに貴族と奴隷のようだったが、今では大分緩くなってもきている。
チェイッスという挨拶も昔からの伝統だ。
上り框には沢山のシューズが並び、それをかき分けて靴を脱いでから部室に入る。
臭い、男臭が充満するこのスペース。
学生服を脱ぎ、先ずは計量をした。
朝とあまり変わらず二・七キロオーバー。
舌打ちした後、裸のまま音が軋む、古びた廊下を歩き、洗濯ものの干してある部屋にいくと、据えた臭いが鼻腔を刺激し、咽ぶ。
咳払いをして、自分の運動着を手に取り、着替えた。
時々乾いていない服があるので、確かめてから着るのが日課となっている。洗濯は一年生の仕事だ。
僕が一年生の時には、先輩からジャージが乾いてねぇ、とよく殴られたものだ。
どうしてもこれを着たいと言われれば、近くのコインランドリーに行き、乾燥機を使って乾かしたこともあった。
あの時は常に気を張り、先輩らの顔色を窺っていた。
なぜなら、いつ何時げんこつが飛んでくるのか、分からなかったからだ。
試合と同じく、油断ならない、ものだと。
それはこういう風にして習ったのかもしれない。
常に気を張っておかなければ、痛い目に合うのは自分なんだから、と。
「チェイッス」
三年生の部屋に入っていくと三浦と河辺がいた。
「お前ら、まだいたのかよ」
顔が、自然とニヤけてきた。
「悪いかよ。そりゃ俺らは予選で負けたから、試合のない引退の身分だ。
でも、この予選が終わるまでは付き合ってもいいじゃないか」
「いいけど」
僕は腕を組み、間をとった。
「じゃ、一年と同じ扱いだけどいいな」
「そんなこと、やるわけないだろ、今更。何だよ、お前、勝ったからって調子に乗ってんじゃないぞ」
三浦が食ってかかってきた。
「冗談だ」
僕は入口に目を向けた。
「あの足音は、近藤か? あのヤル気のない足音。相変わらずだな。嫌なら来なきゃいいのに」
近藤も初戦で負けて、本当なら引退の身だ。
今までの仕来りでは、三年生は負けたら即引退で、その翌日から練習に顔を出さないのが普通だ。
でも、今年は今までと違って、試合が無くなっても練習に参加するようになっていた。
「チェイッス」
近藤は、角刈りのフロント部分を気にしながらやってきた。
いつものように左手で上の方へと髪の毛を立たせるのに必死だ。
彼は左利きのサウスポーだ。背は低いが、リーチが長く、パンチが伸びてくるボクサーで、重いというより硬くて、痛かった。拳が堅いのだろう。
「川島と楢崎は?」
「校門でツレと喋ってたよ、あの二人」
「余裕あんな、あの二人は。試合前だっていうのに、早く練習しんといかんだろ」
河辺は一人、ソワソワとしていた。
「まあ、でも、ハチも今日は来るのが遅いって言ってたし」
「お前、何ソワソワしてんだ、さっきから」
「いや、ハチが来て、俺らに何か言うかも、って思ってな」
「言うわけないべ」
三浦が、河辺の腰を無理やり下ろさせた。
「あいつはそんな奴じゃない。黙って座ってろ」
「そうだ。お前はうざいんだ。じっとしとれ」
僕も、三浦に手を貸した。
「ボクシングでもそうだ、お前は。チョコ、チョコと無駄な動きばっかして。だから肝心な時に、すぐスタミナが切れるんだよ」
ハチとは、山田八郎コーチのことだ。本人の前では言えないが、部員の間では呼び捨てでもある。
彼は共栄高校の卒業生で、ボクシング部のコーチをしている男だ。
外見はまるでヤクザのような強面で、少し言葉使いが悪いが、内面は意外と優しいところがある。
コーチは、トラックの運転手をしながらこの部の面倒を見ており、好きだからやっているのだろうが、仕事との両立は大変のはず。
でも、本人に言わせれば、俺はここに来て、日頃溜まったストレスを、お前らに八つ当たりしているだけだ、と笑いながら言うが、その言葉を信じる者は、誰ひとりとして、いない。
練習の始まりは準備運動から始まり、ストレッチまで全員で声を出して行うが、学年によって行う場所が決まっている。格差だ。
三年生はリングの上。二年生はサンドバックを打つところ。そこは板張りの上となっており、若干ましだが、一年生は硬い凸凹の、砂利道の上と悲惨な状態になっている。
タイム係りは一年生の仕事で、ボックスの掛け声で始まり、試合形式の一ラウンド二分で動く。
休憩は、試合は一分だが、練習では三十秒の短縮時間となっている。
「チェイッス!」
一年生の声で動きが止まり、皆が入り口を見た。
ここでコーチが登場した。ちょっとした緊張感が走った。
「おう」
手を上げ、リング下にやってきた。
「川島、楢崎、それから藤賀。体重は?」
川島は一キロ、楢崎は五百グラムのオーバーで順調の仕上がりだ。
「藤賀は?」
「二・七キロオーバーです」
「バカ野郎! 今の時点で二・七キロもオーバーしてて、どうするつもりだ、お前、試合、ヤル気あるのか? そんなことじゃ、試合に出さんぞ」
突然変わる顔の表情。
それだけで、背筋もピーンと張りつめる。
「済みません」
この男を怒らせると怖い。顔からして怖いのだ。
極道のようにいかつい顔をしており、何より声が大きくて、迫力がある。
「いいから、早く始めるんだ」
先ずはリングでシャドーボクシングをする。
相手がいることを想定し、三ラウンド見えない相手と闘う。
体が温まってきたところで、下に降り、板張りの所で、スキッピング・ロープを飛ぶ。
小刻みにステップを踏むようにして跳ぶ。トン、トン、トンと小気味良い音と共に。
まるで踊るように。時折二重飛びを入れ、瞬発力を鍛える。休憩も飛び続け、三ラウンド。
そうすることにより汗が滲んできた。腕でその汗を拭い、グローブを付け、サンドバックを叩く。
ジム内には洋楽のヒップホップ系の音楽がかかり、サンドバックを打つ音に、キュ、キュという靴の擦れる音、それにシュッ、シュッという息遣いや、ロープが地面に叩きつけられる音。
それは時に柔らかく、時に強く、激しく。
様々なハーモニーが奏でられ、ここはまるでコンサート会場のように熱気があった。
「タイム!」
そんな中、一年生のタイム係りの声で、インターバルに入る。
それでも動きを止めることが許されず、手足を動かしながら、呼吸を整えて休む。
そうすることにより、汗が引かないようにするのだ。
先ずはリングに楢崎が上がり、コーチのミットが始まる。
パン、パン、スパパパパッ!
小気味良い音を弾かせ、楢崎が、音楽にノッてパンチを打つ。
「そうだ、そうだ」
「ほれ、左、左、右!」
「オッケェッッッ!」
いつものように首を振りながら、パンチを交わし、ミットに強烈なパンチを叩き込んでいく楢崎。
次にキャプテンの川島がリングに上がり、コーチのミットに目掛け、多彩なパンチを繰り出す。
やはりインターハイ経験者の二人の動きは違うし、ミットに響く音も違った。
腹の底に響くような重低音だ。それから音楽に乗って繰り出すパンチに、相手との間合いをとる足捌き。
それはダンサーのようであり、芸術的でもある。
見ているこちら側も、惚れ惚れしてくる。
ちきしょう。僕だって、あの二人のようにリングの上でカッコよく蝶のように舞いたい。
あの二人には敵わないかもしれないが、僕だってボクシング関係者をアッと言わせたい。いや度肝を抜かしたいんだ。
何度となく自分が一発KOを勝ち取った時の妄想を見てきたことか。
僕はクソ、クソと心の中で呟き、何に対しての怒りか認識もせず、力の限り、思いっ切り、音楽にノッてサンドバックを打った。
楢崎や川島のように一発のパンチ力はないが、僕には二人にも引けをとらないスピードがある。
彼らが一発打つ間に、僕は三発、四発と打ってやる。
今の僕は、これでいいんだ。これをしてさえいれば。先のことは考えるな。今は、これをする時なんだ。
くそ、くそ、何で、コーチは楢崎や川島ばかり面倒を見るんだ?
「藤賀、リングに上がってこい」
川島のミットを受けていたコーチが僕を呼んだ。
普段は川島が最後を務めるので、今日はないとばかり思っていたのだが、違った意味で、少し面を食らった。
いつもコーチに優遇されている二人。
そりゃ、しょうがないさ。あの二人は試合に勝つから、次がある。
だから指導、面倒を見なくてはならない。
でも、少しくらいは、俺のことにも目を向けてくれよ。
俺だって、俺なりに頑張っているんだから。
「何ぼけっとしとるんだ、止まるんじゃない。汗が引くだろうが。
お前はまだ三キロも落とさなければならないんだぞ。
試合前でも、もっと動くんだ。しごいてやるから、早く上がってこい」
「二・七キロッス」
そうだ。俺も、次があったんだ。
コーチの言うことを聞いていれば間違いはない。そうだ。
僕はロープを潜り、リングに上がった。
「ツベコベ言うな、馬鹿。いいか、このパンチを今から何回も練習するんだ。太田対策としてな。
お前は、不器用だから一つのことだけをやっていればいいんだ」
コーチが僕の腕を取り、中央に呼んだ。
そうだ。今の僕は決勝戦のリングに上がることだけを考えていればいいのだ。
海や山?
それから将来?
他事を考える必要なんて今は、ない。夢中になって、前に突き進んでいけばいい。
「太田の右ストレートは速いし、強い。
カウンターも天下一品だよ。うちの楢崎といい勝負かもしれないな。
だけどお前にはスピードがある。相手が右を出したところを、上から叩きつけるようにして、右をぶん回してやれ。必ず当たるから、このパンチが。
いいか、ボクシングは力だけじゃない。
動体視力や反射神経も勿論必要だが、それだけじゃない。頭を使った奴が強いんだ。分かるか?」
コーチはパンチングミットで、自分の頭を指した。
だが、僕はコーチの言葉に理解できず、首を傾げた。
「ハハハッ。分からんか」
コーチが僕の頭をミットでこついた。そして、動きながら説明していく。
「人と同じことをしていては勝てんぞ。そこで、右のオーバーハンドで打つクロス・カウンターだよ。
いいか、相手はお前の真っ直ぐのストレートに合わせて、セオリー通りに右ストレートを打ってくる。
だからそこで、お前は軌道を少し、ずらしてやる。
そうなると、相手はどっからパンチが飛んで来るのか分からず、様子を確認するよう、無防備にも、顎を上げてくるようになる。
いいか。あいつは、疲れてくると必ず顎が上がるんだ。
まるで、平泳ぎの水泳選手が息継ぎをするために、水面にぷかって上がってきて、口を開けるように、な。
それが奴の癖だよ。だから、上がってきたところを、お前がその顎を打ち抜くんだ」
コーチは、オーソドックス・スタイルで構え、そして、右を出し、僕の右のオーバーハンドを導く。
視線は下に向けたまま、野球のボールを投げるような感じで、大きく振り被って繰り出すパンチだ。
時折、ジャブをついて、ワンツー、連打を出させるが、最後はコーチが右を出し、僕に、それをステップバックで避けさせてから、右のオーバーハンドを出させる。
僕は、早口でやいやい言うコーチのその口を黙らせるために、楢崎のニャけた顔を真剣な顔にするために、それから川島の冷静沈着な表情を崩すために、コーチのミットにパンチを叩き込んでいった。
ジャブ、ジャブ、フック、右ストレート、アッパー。自分の今持っている妬みをパワーに代え、この右を振り抜け!
「おい、楢崎。悪いが、リングに十四オンスのグローブを付けて上がってきてくれ。ヘッドギアはいらないから」
コーチが、サンドバックを終え、軽いシャドーに入った楢崎を呼んだ。
「藤賀も一旦降りて、十四オンスのグローブを付けて、また上がってこい。マスだ」
マスとは、正式にはマスボクシングと言い、寸止めのスパーリングのことをいい、実戦に近い練習だ。
スパーリングはパンチの衝撃で、蓄積していくダメージのことを思い、選手の健康を考え、滅多にやることはない。
なぜならスパーでは、お互いが思いっ切り殴り合うからだ。
脳への影響も大きいため、なるべくマスで実戦を想定するようにしている。
それにグローブも試合は十オンスを使用するが、マスでは主に十四オンスと大き目の物を使って行うようにしている。
仮に当たったとしても、グローブが大きければ、それだけスピードも落ちるし、威力も鈍るというものだ。
「楢崎、なるべく右ストレートを出してやってくれ。
そして、藤賀はそれに合わせて右のオーバーハンドを打つ。じゃ、始め」
試合前の軽い練習ということで、楢崎は早くもクールダウンし、練習を終えようとしたのだろうが、僕の練習に付き合ってくれた。
リング下を見ると、川島もストレッチをしながら真剣な目、鷹のような鋭い目を、リング上に送ってきた。
嬉しい限りだ。皆に見守られているようで。そんな中、僕は気を引き締めて、構えた。
楢崎は筋肉質で、胸板が厚つい。いつもの構え、両頬に拳を固定し、ガードを固め、頭を振って前に出ながら、早速、左右のフックに強弱をつけて、シュッ、シュッといきなり八発のコンビネーションブローを打ってきた。
マスでさえ、楢崎は重戦車のように迫力があった。
そして、ステップインが速い。一拍おいて、右ストレートを出してきた。一度目はタイミングがずれて、もらった。
「ステップバックしろ」
二度目は猫のような動きで、上体を反らせ、スウェーで交わした。
「駄目だ。もっと大きく離れろ」
三度目は大きく豹のような脚力で、ステップバックした。
「よし。そこでオーバーハンドだ」
僕は右のオーバーハンドを打った。
「よーし。よし。いいぞ。ドンピシャだ。そのパンチが当たれば、絶対に倒れるんだ」
コーチは言った。
もし・・・僕がインターハイに行けるようなことがあったら、
彼女に告白する。
もう決めた。
インターハイ出場が決まれば、彼女も、それで僕を見る目が変わってくるはずだ。
それから告白すれば、いい結果に繋がる、きっと。
しかし、なぜ、僕はこんなにも彼女のことを好きになったんだろう。
一目惚れといえば分かりやすいのかもしれないが、もしかしたら、自分のタイプに見合っただけで、彼女を好きだと思うことにした。
そして、単に張り合いを持たせているだけなのかもしれない。恋をする自分に酔って・・・。
あの時の僕は、何に対しても確証などというものを持てず、一歩立ち止まって、よく考えることもせずに、ただ前へ、前へと進むことしか知らなかったのだろう。