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男たちの晩餐会  作者: 中野拳太郎
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2、ボクシングをやる理由




2、ボクシングをやる理由

     



それは二十年前の六月のムシムシと湿度が高くて、異常に暑苦しい日だった。


そこは、まるで海の底にいるかのよに息苦しいところだった。


いくら浮上しても水面が見えることはなく、その水圧に押し潰される。

気が狂いそうなくらいに、圧迫感を感じるところだった。


額に汗が滲み、それが目に垂れてくる。


時間の経過と共に、背中に溢れるほどの汗が吹き出し、赤いランニングシャツがベタベタに濡れ、体に纏わりつき、重くて、動きづらかった。


 意識が朦朧とし、膝が軽い痙攣を起こしていた。もはや動くことができないくらいに。


目の前には、様々な判別のつかない色彩が現れ、それが台風時の動きの速い雲のように移ろい、やがて頭の中でキーン、キーンという激しい音が木霊した。


頭痛と猛烈な吐き気を覚えた。


全身を重く感じ、地面に沈んでいくようなこの疲労感。


息苦しい。何で、こんなにも疲れるんだ? 


そりゃ、練習と本番では緊張の度合いが違う。


そもそも何で、僕はこんなことをしているんだろう?


もう、どうでもいいじゃないか。早く楽になりたい。頼みの足も動かないのだし。何ともならないじゃないか。


たとえ、このまま続けたとしても、また同じことの繰り返しなんだ。もう、うんざりだよ。 

 

それでも僕は、指示を仰ぐためにコーナーを見た。


その視線の先には四十過ぎの丸刈りのおっさんが何か言っているし、隣の同級生の男も何か叫んでいるのが見えた。

その後ろにも見知った顔が並んでいるが、周りが煩くて、彼らの声は何も聞こえやしない。


もう駄目だ。やめてやる。


そう、僕には高校生活最後の夏休みが待っているんだ。海や山へのバカンスが。


いつもと違い、ほんとうに足が重かった。あんなにも走り込んできたのに・・・。


あ、やばい。また膝がピクピクと震えた。

動かない。

ぶっ。鼻に衝撃を感じた。

目の前が真っ暗になる。

どうすればいい? 


頼む、誰か教えてくれ。前後、左右に視線を送るが、何処にも逃げ場がない。


地面を思いっ切り蹴った。


それで何とか痙攣を抑えることができた。


左に体をズラす。


ダメだ。


相手の体も左にあった。


どうする? 


全身の力が抜け、動くことができない。いかん、また意識が飛んだ。僕はこのまま倒れてしまうのか? 


いや、違う。意識をしっかりと持つんだ。

闘うのは、自分だ。


自分で何とかしなければ、誰も助けてはくれない。そうだろ?


ここは普通の高校よりも少し大きめの城南大学の体育館だ。


会場内や廊下などには、学生服や、運動着、それから試合用のランニングシャツにトランクスを着た者で溢れ返っていた。


誰もが、好き勝手に行動している。

それでも同じ高校のメンバーで固まっていないと落ち着かないのか、高校ごとに待機場所が分かれていた。


野球やサッカーとは訳が違う。

一歩間違えれば、病院送りに合わないとも限らないのだ。


彼らは、時折笑みを漏らすが、それがすぐに緊張した顔に変わっていくのと同じように、会場内にはピーンと張りつめた、殺気立った雰囲気が漂っていた。


体育館の奥に、白色のキャンバスのリングがあり、その上で僕は闘いを繰り広げていた。


まるで檻の中で猛獣が闘うように。


時折激しい音を出し、相手に襲い掛かっていく。

リング上から下の客席を見るとそれは雲の上から見ているように、高かった。


今でも信じられない。まさか自分がこんなところに身を置いていようとは。


僕は今、白いリングの上でもがいていた。


まるでキャンバスが泥沼の上にいるようで、身が、そこからズブズブと沈んでいき、それで、足を使うことが出来なくなってしまう。


ああっっ。ゴングが鳴るのはいつだ?


そして、この苦しみがいつになったら終わるのか。

それは間近に迫っているのか、それともまだ時間が残っているのか、見当もつかない。


止めどとなく滴り落ちるこの汗。


うっとうしくて、グローブで額の汗を拭った。


そう、僕はこの場でボクシング、インターハイ、高校総体の愛知県予選を戦っていた。


「ラスト三十秒!」


「ラッシュだ、!」


 大きな声が聞こえた。


アップに余念のない一番の練習の鬼。しっかりもののキャプテン、川島かわしまの声だ。


そう簡単にはいかんぞ。

お前らはいいよな、そうやって下で見ているだけなんだから。やるのは僕だ。

こっちはもう息が続かないし、背中に鉛を背負っているように体全体が重くて、動けないんだ。


「バカ、そのまま足使って逃げろ。そうすればお前の勝ちなんだ。

いくんじゃない! 駄目だっていってるだろ」


僕の次の次に試合があるので、後輩にグローブを付けてもらっているキャプテン川島が叫んでいた。 


「手出して」


今度は根暗で、人見知りの近藤こんどうの小さな声。


相手のガードを殴打。


しまった、と思った時には遅かった。鉄パイプを殴ったようにグローブの中の拳がピキーンと悲鳴を上げた。


わざと肘を向けてきたのだ。チッ、僕は舌打ちした。


ったく、手出すのか、足使って逃げるのか、どっちだよ。お前らの助言はまったく当てにならん。言いたい放題言いやがって。


でも、聖徳太子、っていう人物はえらいもんだな、こんな時でも皆の意見に耳を傾けていたのだろうから。

ほんと感心する。


面白いようにワンツーが当たり出した。それで相手の顎も跳ね上がった。


なぜかは分からないが、先程までの激しかった息使いも今では収まり、テンポ良く、パンチを出すことができるようになった。

リズムにさえ乗っていれば、疲れも忘れ、今まで練習してきたことが、自然にこのリング上で放たれていくのが、立証された。

さっきまでの重たかった体が嘘のように、元気になってきた。


もう少しだ。


この苦しみの先に、きっと、僕の目指すものの答えが待っているはず。

それが何なのか、今、確かめてやる。


「ラスト三十!」


タイム係は、電気屋の息子で、手先の器用な、眼鏡をはめた河辺かわべだ。

 よし、連打だ。いつも練習のラウンド終了間際には連打を出している。それを今ここで解き放つんだ! 


二十秒、ジャブ、ジャブと二発のジャブで、またしても相手の顎が上った。


十秒、ストレート、もう一丁、ダブルのストレート。

そして、左フック! 確かな手応えを感じた。


五秒、四秒、三秒・・・。


それでも、息は上がった。


もう体がついていけない・・。


形や恰好なんかは関係ない。そのまま相手に抱きついていった。


カーン!


 ゴングが鳴り響いた。


長いようで、短かったような時間が過ぎ去った。


もう動けない。


僕はコーナーに戻った後、膝に手をやり、項垂れた。


もし、あと時間が三十秒でも残っていたら、間違いなくリング中央で突っ伏していたことだろう。


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・」

息が続かない。


「しっかりしろ」

コーチが激を飛ばした。

「これで決勝だ」


 僕は肯くこともままならず、背中で息をし、情けないことに真っ直ぐ立つことが出来なかった。


「次は太田戦だ。準決勝で仲村が負けたのは、お前にとっていい方向に運が向いてきている」


 僕は勝ったのか? 


そうはいってもジャッジの結果が出ないことには、安心できない。


 両選手がレフェリーによって、中央に呼ばれ、各々片手を持たれ、勝敗のアナウンスを待つ。


しばしの長い時間。リング周辺が固唾を飲み、その結果を待つ。


しっかり足を使ったし、沢山手も出した。


どうだろう?


でも、今となってはどんな風に闘ったのかも思い出せない。

時間を長く感じた。


「只今の試合の結果は、」


し~んと静まり返った場内。


そんな時、ぶ~ん、と僕の耳元に蝿が飛んできた。


こんな時に・・。


何と間の悪い。左のグローブで耳を擦った。


「赤コーナー」


気づいた時には、僕の右手が高々と掲げられていた。


共栄きょうえい高校、藤賀武志とうがたけし君の判定勝ちでした」

 

もう体に力が入らない。立っていること自体、信じられないくらいだった。


まるで波の上に寝そべり、そこでゆらゆらと波に揺られ、ある種の倦怠感を感じているような、そんな気分だった。


だが、それは悪い気持ちではない。むしろ、僕はやり尽したという充足感に満ち溢れていた。


僕の前の試合は、事実上決勝戦といわれた試合で、その勝者が太田だ。


もし仲村が勝っていたら、優勝の可能性は低いだろう。


なぜなら僕は二年生の時に、仲村に負けているからだ。背の高い仲村とやるのは、苦手意識が働き、勝てる気がしない。


でもその仲村に、太田が勝ってくれたことにより、優勝への確立が高まってきたというものだ。

あと一勝でインターハイ出場が決まる。ここまできたら、絶対インターハイに行きたい。 

 

今年のインターハイは愛媛県で開催され、会場の近くに道後温泉がある。

高校の費用で、温泉に浸かれるという噂も流れており、俄然ヤル気が湧いてくる。

だが、太田も強敵には変わりない。油断は禁物だ。

彼は、昨年二年生ながら、バンタム級でインターハイ愛知県予選の決勝まで進んでおり、今年は階級を上げて、昨年同様決勝まで上がってきた男なのだ。


 僕はリングから降りてくると、次の試合の練習嫌いだが、いつもオシャレで、端正な顔つきの楢崎ならさきとグローブを合わせた。


「次はお前だ」

僕はやや微笑みを浮かべたが、


「ああ」


楢崎は試合前ということから緊張の趣で、素っ気なく返してくるだけだった。


悔しいが、彼はルックスが良く、モテる。


たまに校門で追っ掛けの女子高生を見かけることがあるが、その時の楢崎は、ほっとけ、その内いなくなるから、とクールに、余裕ぶっていたことを思い出す。


僕はいつもと違い、余裕のないそんな今の楢崎の顔が面白くて、笑いながら奴の頭を二度こついてやった。


当の楢崎は緊張していて気づかなかったが、運の悪いことに、コーチの方が反応してしまう。


「バカ野郎、要らんことするんじゃない。お前は早くリングから降りて、体を念入りに解しておけばいいんだ」

と、物凄い剣幕で怒ってきた。


 下に降りてくると、三年生の眼鏡をはめた髪の毛がモジャモジャで、天然パーマの河辺がグローブの紐を解いてくれた。

こいつは一番背が低い男だが、気が利いていて、器用だ。そんな彼が、僕の腕を引っ張り、グローブを外してくれた。


僕ら三年生は全部で六人いる。


例年、共栄高校ボクシング部は三年生になると、殆んど辞めてしまい、六人も残ったのが珍しい。

きっと気の合う人間が集まったからだろう。


二年生の時に一度、近藤が部の練習に耐えられず、逃げ出した時があったが、一か月程するとひょっこりと戻ってきたことがあった。


その時はあえてコーチ、それから他の部員も、何も言うことはなかった。

だから、いつも通りの日常が戻ってきたのだ。


あの時、もし、騒いだり、理由を追究しようとしたら、今頃近藤はいなかったかもしれない。

これでいいのかは分からないが、共栄ボクシング部は、去る者は追わず、来る者は拒まず、をモットーに今まで存続してきたのだ。


「グローブより、早く、この鬱陶しいヘッドギアを外してくれ」


「ちょっと待ってくれ。そんなにいっぺんに言われても、俺は一人しかいないんだぞ」


「おい、何で一年や二年のボンクラどもがいないんだ」


「あいつらは楢崎と川島の試合の準備に忙しいんだよ」


「どいつも、こいつも俺より、楢崎や川島の試合を見たいんだよな。

どうせあの二人の試合の方が、自分のためになるし、何より迫力がある。

俺みたいにちゃかちゃかと、いつまでもやってる、勝つか、負けるのか分からない判定試合より。いいだろう、よ」


「そんなことないさ。お前の試合前だって、グローブをはめたのは一年の高木だったし、ヘッドギアを付けたのは二年の水野だったぞ。

それに皆、お前のことをしっかりと応援してたぞ」


「はい、はい。わかりやした」

そして、僕は彼の髪の毛をサワサワと撫で繰り回してやった。

「今日もお前の髪の毛、モジャモジャだな。一回ワックスで固めてやろうか」


「触るなって」


 僕は試合に勝ったということで、優越感に浸りながら、周辺に視線をやってみた。

こんな風に優雅な一時を送れることで、僕は試合に勝ったんだ、とようやくホッとすることが出来た。 


 トイレに行こうと、出口に向かう者。

次の試合の準備を施してもらっている者。

俯いて拳にバンテージを巻き、瞑想しながら集中している者。

かたや試合が終わり、ジュースを飲んでいる者。

隣の男のトランクスを下にずりさげ、ちょっかいを出している者。

様々だ。  


バターン! 


いきなり大きな音がした。


その後、周辺がシーンと息を止めたように静まり返ると、しばし、その重い静寂さが会場内を包んだ。

一旦、誰もが動作を止め、視線をリング上に向けた。


「やったか!」


そのいくつもの視線の先には、男が大の字になって倒れていた。


黒いランニングシャツのユニィフォームだ。

楢崎の相手、栄高校の選手が引っくり返っていた。


 リングは一瞬静まり返ったが、やがて引いた波が岩にぶつかるように低いどよめき声が上がり、その後わあぁぁぁっっと歓声が戻ってきた。


「早く、ヘッドギアを取ってくれって」

僕は息苦しさと、圧迫感を感じ、イラついていた。


「分かったよ。お前のせいで、楢崎のKOシーンを見逃しちまったじゃないか」


「ああ、くそ。早く取れって」


「わかったから。おとなしくしろ。ちょっと試合に勝ったからって、いばるんじゃないぞ」


「うるせぇ」


 ようやくグローブ、ヘッドギアをとってもらい、バンテージを解くと気持ちもすっきりとしてきた。

そして、立ち止まっていることが出来ず、楢崎に誘発されて軽くシャドーを始めた。


 次の試合はキャプテンの川島だ。


彼は背が高く、リーチも長くて恵まれた体型をしたサウスポーだ。


こいつは真面目というか比較的クールで、飄々と試合をこなす男である。

 先程の楢崎といい、川島の二人は二年生の時もインターハイに出場しており、今年も間違いなく、出るはずだ。


楢崎も川島もパンチ力があって、KO率が高い。羨ましい。


僕なんかがいくら鍛えたところで、彼らほどのパンチ力は付かない。なぜならそれは持って生まれたものなのだから。


いくらスピードを駆使し、動き廻っても、その一発の重いパンチで簡単に状況は引っくり返る。パンチ力だけじゃない。

ボクシングの才能も違う。あいつらは人が出来ないことでも、何食わぬ顔で、すんなりとこなしてしまうのだ。


 いいな、ちきしょう。あいつら、インターハイに行き、そこでいい成績を収めてみろ。女にモテてしょうがない。

そんなことを考えながら、シャドーをしていると、リングの周りで歓声が起こった。

 川島がスタンディングダウンを奪ったようで、また仲間のダウンシーンを見逃してしまった。

利いたパンチが入ったのだ。レフリーがカウントを取る。

始まってほんの十秒くらいの出来事だった。


相手がファイティングポーズを取った。


レフリーがカウントを八で留め、ボックス、といい、試合を再会させた。


 試合が再開されると憎らしいくらいの無表情で、川島が右へ左へと逃げる相手を、将棋の駒を詰めるような、計算しつくされた攻撃で、追い詰めていく。


もはや勝負は完全についていた。相手の動きを完全に見切った、その動きは、味方とはいえ、背筋の凍る思いがした。


相手はおどおどと、まさに腰砕け状態だった。

川島がフェイントを入れた後、連打したところで、レフェリーがカウントすることなく、試合を止めた。


並の高校生だったら、左右のストレートの連打だけだが、川島の連打は成熟されており、フックやアッパーを織り交ぜ、憎らしくもそれを上下に打ち分けているのだから驚き

だ。


「余裕だな」


意外とボクシングに詳しいというか、ボクシングオタクの三浦みうらが近寄ってきて、ポツリと言った。


彼は、中学生の時に左腕を複雑骨折しており、その時の縫い痕を見せ、今でも真っ直ぐに伸びないんだ、と入学当初に言っていたのを思い出す。 


僕もインターハイに行くことができれば、少しは奴らに近づけるかな。


口では高校生活最後の夏休みの予定、海や山に行くんだ、と言ったり、プールに行ってみたいと、あれやこれやと計画を立て、それを公表してきた。


でも正直、一番行きたいのが、インターハイだ。


だって、これこそが最高の思い出になるに違いないのだから。


そうなればコーチだって、学校の先生だって、僕に一目置くに違いない。


あわよくば、商業科B組のあの子。

白くて、透き通るような肌で、頭のいい上品な女の子。


うちの高校は進学校ではなく、卒業後は大方就職に進路を向ける中、彼女は夏休みから始まる進学コースの講習に、名前を連ねていた。


僕が憧れるそんな彼女も、少しはこっちに振り向いてくれるかもしれない。


インターハイに行くことができたら、告白でもしてみようかな・・・。

 

僕は、そんな彼女と一度だけ、体育館で話したことがある。


それは突然降り出した、スコールのような激しい雨の日だった。


丁度部活の練習中で、いつものように皆で、外へ向かい、ランニングを始めようとした時だった。


空が暗くなり、突然、激しい雨に見舞われたのだ。


そこで僕らは仕方なく、体育館で走ることに変更した。


うちの体育館は二階にあり、階段を登って、そこにいくと更に雨足が強くなったので、急いでいたことを思い出す。


彼女の名は皆川沙織みなかわさおり


彼女は帰宅部なので制服姿だった。


彼女は、その時は、体育館で友達の女子バスケ部の応援をしていたのだろう。

いきなり降り出した雨にびっくりした様子で、廊下に出てきて、外の様子を見にきたのだ。


彼女は活発ではなく、どちらかというとおとなしいタイプの分類に入るだろう。

お淑やかに見えるが、自立心の強そうな瞳の大きな、エキゾチックな顔立ちをした清楚な子だった。


僕は、そのギャップがたまらなかった。


階段を登り切った、我々ボクシング部はドドドッと物凄い勢いで体育館の中に入っていく。


その時、後方にいた一年生部員が入口で、彼女とぶつかってしまったのだ。


それで、華奢な彼女が後ろにヨロヨロと後ずさりしたのを目撃した僕は、近くにいたこともあり、自然と体が動き、彼女の腕を取って、支えてやった。


「有難う」


倒れそうになった彼女は、僕の顔を見てから、安心したように礼を言った。


「大丈夫だった?」


憧れの子と、初めて喋ったのもあり、心臓の鼓動がドキドキと跳ねていたことを今でも思い出す。


「うん」


俯いた仕草が、可愛かった。


「もう、ボクシング部はガサツな男ばっかで、ごめんね」


しばらく彼女は俯いていた。


「ううん。そんなことないよ」


小さな声だった。


「イメージと違って、不良みたいな子もいなさそうだし、むしろ真面目に取り組んでいる子ばかり。そう思うな。

それじゃ、私ちょっと外を見たいから」


 もうちょっと話していたかったが、彼女は礼儀正しくお辞儀をした後、体育館の廊下に出ていき、そこで恨めしそうに、外を眺めていた。


僕は、部員たちの基へ戻ることができず、しばらくはその彼女の華奢な背中を見ていた。

いや、見惚れていた、といった方がいいのかもしれないが。


イメージと違って、か。


彼女のいったその一言は、一体、どんなイメージを示しているんだろう、ボクシングに対して。


ボクシングは、ただ殴り合うだけのものではない。

あの一ラウンド二分の中で、技術のぶつかりや、駆け引きなどが、凝縮されたスポーツなのだ。

一歩間違えれば、それは取り返しのつかないものになる。まさに生死を懸けた戦いである。


それほどのことは思ってはいないであろうが、気にはなった。

どう思っているのかが。


とにかく、それが僕と彼女の初めての会話をした日だった。    



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