右腕の歯車
ここまでは確かに記憶が存在し、かつ確かな情報であるらしいのだが、おれは空塔遺跡を観光していた。そして、その空塔の一番上まで昇って、そこからの景色を一目見ようと首を伸ばした際に、誤って、おれは落下した。そこからの記憶が一切なく、かつおれにとっては不確かな情報であるのだが、その時おれと一緒に観光していた友人の話によると、それが実に三日前の出来事であるという。つまり、およそ三日の間、おれは気を失っていたというわけだ。奇妙な話であるのだが、どうも事実らしい。どこかの白いベッドで目覚めたおれは、あまりの奇妙さ、滑稽さに目を白黒させつつも、異常な程に真剣な態度で喋っている友人を疑うことはできなかった。
その真剣さがまた、滑稽でもあった。
「滑稽にも程がある。塔から落ちるなんて。それで、大丈夫なのか。どこか不具合を感ずる箇所はあるか」
「大丈夫……と言いたいのだが、どうも、右腕がおかしい。思うように動いてくれない。おそらく、落下の時にどうにかしてしまったのだろう」
左手で右腕をさする。右の肩から先が、まったく別な個体の何かであるような感覚だ。ただ動いてくれないのではなく、右腕そのものが枷になってしまっている。これはおれにとって、初めて覚える感覚であった。
「そうか。右腕か。そういえば確かに、おまえは、右側を下にして落ちていたような気がする。やはり、落下が原因であることは間違いなさそうだ。右腕の中のどこかの歯車に、亀裂が入ったのかもしれないな」
それは、十分に考えられる可能性だ。まだ程度などの詳細は不明であるが、おれは今まで、これ程までに大きな怪我をしたことがなかった。
そうか、歯車に亀裂が入ると、こんなにも身体全体が重くなるのか。
「ところで、なあ、ここはどこだ? おれの部屋でも、おまえの部屋でもないな?」
「ここは空塔遺跡から一番近かった、街の診療所だ。とりあえずはここで様子を見てもらうことにしたのだ。しかし、おまえがいつまで経っても目覚めないものだから、おれも医者も、どうにも手が出せないでいたのだ」
それから一瞬の間を置いて、友人はこう続けた。
「そうだ、おれ、医者に知らせてくるよ、おまえが目覚めたこと。今はまだ朝だし、医者も眠っているかもしれないが、おれが叩き起こしてやるから、待っててな」
その言葉を言い終えるか言い終えないかの内に、ロケットのごとく友人は退室した。後に残ったのはおれだけであった。窓から差し込む光の加減から、今が朝であるという情報は、どうも正確であるらしかった。
「街の診療所……運び込まれたということか。自分以外の力によって移動するというのは、何とも不思議なことだ」
ベッド脇の机の上に立っている花瓶に気が付いた。口からはタンポポが顔を覗かせていた。
診療所にしては、やけに物体の多い部屋だと思った。花ならまだしも、絵本であるとか、赤い液体の入った小瓶であるとか、わけの分からない未知の機構であるとか、そんな、不要としか思えないような物体が、この部屋には多い気がした。数字の書かれた箱、手回し発電機、ビニール製の輪っか、知らない誰かの映った写真、ガラス片、紙くず、……それでいて、ちゃんと清潔であるようだから、診療所として何か問題があるということでもないのだが……。
友人と医者が来るまでは暇だったので、おれは試しに、わけの分からない未知の機構を手に取ってみた。金属製で、ボタンやらダイヤルやらが表面に多数存在する。最初に目に付いたボタンを押してみたが、何も変化はない。次に目に付いたダイヤルを回してみたが、それでも変化はない。次に目に付いた、最初のとはまた別のボタンを押してみる。……すると、機構の内側で何かが、ジー、というような細い音を立てた。それから今度は、内側から声がした。
『おはようございます。今は今です。カラスはカラスです。特殊詐欺に注意しましょう。スタイリッシュでエキサイティングな日常をあなたに』
ブツリ、と、また細い音を立てて、声はそれきり途絶えてしまった。おれは、今のその言葉が何を意味するものであるのかを理解できなかったので、わけの分からない未知の機構は、未知のまま、元の場所に戻しておいた。
程なくして、友人が医者を連れて、部屋に入ってきた。
まず初めに、医者は言った。
「不具合を感ずる箇所はありますかね」
「はい。さっきそこの友人にも言ったのですが、右腕に組み込まれている歯車の内のどれかが壊れてしまったようで、思うように動かないのです」
「なるほど。右腕。ふむふむ」
医者は持参していた紙にサラリと走り書きをした。
「他にはどこか、ありますかね」
「いいえ、ありません」
「なるほど」
親指を曲げようとすると、ひじが曲がる。手の平を握ろうとすると、親指しか曲がらない。
今のおれの右腕は、そんな状態であった。
「先生、おれの右腕は治りますか?」
「ふむ。心配する必要はないでしょう。小さな不具合ではありませんが、ちゃんと治るでしょう。ただし、あなたの右腕を完全に治すためには、一度分解する必要があると思われます」
「分解ですか……」
それもまた、おれの知らないことだった。おれは今まで、分解という行為をされた経験がない。おれの初めての分解が、今回になりそうだった。
「そして、分解をするには、もっと大きな診療所へ行く必要があります。ここではできませんな」
「先生、こいつのために、大きな診療所、紹介していただけませんか」
と、やはり真剣な態度で言う友人。
真剣というよりも、もはや深刻であった。あくまでおれのことであり、そこまで大きな怪我でもないのに。
「いいですとも。今すぐにでも連絡しておきます。歩くことに関しても、問題はないのですよね」
「はい」
こうしておれたちは、もっと大きな診療所に行く運びとなった。歩いて十分もかからないような近さに建つ、とても大きな診療所とのこと。友人には「帰っても構わない」と言ったのだが、おれのことが心配であると、それでも付いてきた。
「道中、もしもおまえが転んだら、起き上がれないんだぞ」
「左腕は正常だよ。転んだとしても、左手を使って起き上がればいい」
「転んだ拍子に左腕もやってしまうかもしれないじゃないか」
こんな不毛な会話をしつつ、最初におれが運び込まれた診療所を出る。どれだけ少なく見積もっても十五分は歩いた後、建物に入って、受付を済ませる。待合室で待っているおれと友人は、大勢の患者に囲まれた環境に慣れる前に、受診番号と共に呼び出された。
出迎えたのは、腰の曲がった医者であった。
「右腕の歯車が故障した、と。間違いありませんね」
「間違いありません。右腕がどうも、思うように動かないのです」
「他にはありませんか。頭蓋の鉄板が割れてしまったとか、電気回路がこんがらがってしまったとか」
「ないと思います」
「ふむ、まあ、念のためです。他の箇所も一応、調べておきましょう。自覚のない不具合があるやもしれません」
自分の身体のことであるのだから、自分が一番分かっているのに……とは、言う気も起きなかった。おれは素直に、その提案に従った。出費がかさみそうだったが、健常のためと割り切った。
「では、こちらへどうぞ。お連れの方は、こちらで待っていてください。検査は五分で終わるでしょう」
看護師に案内されて、おれは、薄気味悪い程に白い、無人の部屋に通された。真ん中には寝台があり、看護師に指示に従ってそこに寝転がった。
「五分」の言葉を、おれは信用していなかったのだが、今度は本当に五分であった。小さな診療所と大きな診療所との間の差分を感じた。
天井に設置されたカメラのようなものでバシャリと撮影されると、それでもう、検査工程の半分以上が終わりであった。元の部屋に戻って、友人と合流し、腰の曲がった医者と再び顔を合わせる。腰の曲がった医者は、看護師にいくつかの指示を出した後、おれに言った。
「投影画像の現像までしばらくお待ちください。それを見れば、あなたの身体のどこが正常で、どこが異常かが、一目瞭然となります」
「そうですか」
しかし、どうしてか、現像が完了したとの趣旨の看護師からの知らせが、いつまで経っても来ない。腰の曲がった医者も、最初は、「やけに時間がかかっておりますな。まあ、もうすぐ完了するでしょう」と気長に構えていたのだが、そこから十分が経過した辺りで、その場にいた三人の誰もが疑問を顔に表していた。
「すみませんね。遅くなってしまって。ちょっと失礼、様子を見てきます」
とうとう医者も、曲がった腰を重そうに上げて、奥の部屋に消えていった。おれと友人は、お互いを見、「どうしたのだろう」「機材のトラブルだろうか」などと口々に言い合った。
そこからまた十分が経過した。そこで戻ってきたのは、医者ではなく、看護師だった。
「あの、先生がお呼びです」
と、こちらを普通でない目で睨みつつ、おれも奥の部屋に来いと言う。おれは立ち上がる。友人も、それが当然であるかのように、立ち上がった。
奥では医者が、こちらに背を向け、向こう側の壁に貼られた一枚の絵をじっと見つめていた。かと思えば、こちらに気が付き、やはり普通ではない目で、黙ったまま、こちらを睨んだ。
「……何ですか? 何か、正常でない箇所が見つかったのですか?」
医者は、それには答えずに、もう一度、その絵を見た。それから、その絵とおれを見比べるように、交互に視線を走らせた。
「その絵は何です?」
それは、誰かの芸術作品みたいな模様の描かれた、白黒の絵だった。迷路のように入り組んだ黒い線が一つにまとまっている。……よく見ればそれは、全体が人の形をしていた。
「これは、あなたの検査結果です」
「何ですって?」
おれは始め、その言葉をちゃんと理解できなかった。そう言われて改めて、その絵を見る。
なるほど確かに、それの外側の輪郭は、おれ自身に見えなくもない。しかしそれは、輪郭だけの話である。その内部は、やけにぐちゃぐちゃとしていて、意味の分からない影ばかり……。
これが、おれの内部構造?
「ええ、わたしも驚きましたよ」
次におれは、友人を振り返る。おれの後ろに立っていた友人もまた、おれと同じく、意味が分からないという顔をしていた。
これが、おれの体内?
「どういうことなのですか?」
「それの答えは、わたしが訊きたいくらいですね」
そして医者は、あごに手を当て、じいっ、とその絵……おれの検査結果を見つめる。
「見たところ、右腕の中心に存在する棒状の何かに、亀裂が入っている。しかし、もはや問題は、怪我の箇所ではありません。あなたはどうして、歯車も、ネジも、電気回路も持たないのですか。あなたはどうして、人間とは違う内部構造を有しておられるのですか」
医者の言っていることが、やはりおれには、上手く理解できなかった。