4 小姓は実験台になりました
上級貴族寮の階段を辛うじて優雅と評される程度に走りに走った僕は、グレン様の部屋の前までたどり着いた。息を整えるのすらもどかしい気持ちで、やっとのことで鍵を開け、勢いよくドアを開けて中に飛び込む。
「グレ……!」
ドアを開けたその瞬間、見慣れた薄いトパーズ色の髪が見えた……気がしたのもつかの間。何かに堅いものに足を挟まれた感触と共に、僕の視界はちょうど180度、真っ逆さまに反転し、そのまま勢いよく上に吊り上げられた。
「うわあああああっ!」
条件反射で風の刃で切ろうとしても、僕を釣り上げている何かは全く切れない。ちっ、これは多分魔封じ系の道具だな……!
それならば物理的に、と、思い切り体を揺らしても、留め具は一向に僕の足から外れずに、僕の足を挟んだ魔道具に繋がったゴムらしき物体がびよんびよんと見事な柔軟性を見せるだけだ。これもおそらく、ただのゴムじゃない。
「まさか人は引っかからないだろうと思っていたけど、そんなことなかったな。僕としたことが、知能が獣並みの人間も存在するってことを忘れてた」
ズボンから落ちたシャツが顔に被ってそのご尊顔をきちんとは拝せないが、近づいてきたのだろうそのお声だけで分かる。いや、こんなことを仕掛けてくる時点で、目が見えなくても一目瞭然だ。
ここまできたら慣れたもので、僕も冷静に対応しよう。じたばたするのをやめて、逆さまのままでシャツをズボンにしまうと、開けた視界の前方を見る。
「グレン様、また何を悪企んでいるんですか。早く下ろしてくださ――」
耳元でひゅっと風を切る音が鳴った直後、僕の真横を鈍く光る銀色の線が通り過ぎ、可哀想な僕の髪がはらはらと数本散っていった。上級魔法理論学の教授だったらきっとこの時点で絶望のどん底に叩き落されていたはずだ。
僕の頭がまだふさふさだからいいものの――ってよくない!
「刃の先は潰してないから、当たったら多分死んじゃうよ?」
「だからっ、そういうのはっ、髪の毛を犠牲にする前に仰るものですってば!」
「お前に許可を取る必要なんてこれっぽっちもないけど、言ってからならよかったってことか」
「事前申告ごときで串刺しにされることが許されてたまるもんですかっ!毎度のことながら何考えておられるんですか?」
「ん?ちゃんとしたじっけーん」
「僕は実験動物じゃありませんってもう何万回も申し上げてますよね」
「この実験がお前を目当てにしてるなんて誰が言った?」
おや?
「言ってなくてもこれまでは例外なく僕目当てだったじゃないですか。今回は違うんですか?」
「違うけど」
じゃあなんで剣なんかで突いてきたんですか!?
「まぁ、そこまで言うなら、ご期待に応えてあげないと可哀想だよね?」
平常運転で狂気の極致にいるグレン様は、にっこり笑顔を浮かべると、誰にも得にならない提案をしてきた。そして、その言葉に違わず、再び剣を構え、僕を串刺しにしようと突きを繰り出してくる。
何も悪いことをしていないのに、ドアを開けるや否や逆さまに吊り下げられ、逃げられもしない状況下でめった刺しにされそうという、残虐極まりない絵面だ。傍から見れば、ただの処刑シーンだと思うんじゃないだろうか。人権委員会があるなら訴え出たい。
が、大変残念なことに、僕は、こういう本気で命の危険を感じる場面に突如として叩き落されることには(魔法も満足に使わせてもらえないなんてことだって日常茶飯事だ)慣れっこになっている。そして自分の藪蛇な発言でこんな状態になることも、まま、ある。
となれば、動転から回復するのだって早ければ、対策を練るのだって結構早いのも道理というもの。
僕は、生き残るため、歯を食いしばったまま自由になっている手や足で壁を叩いたり蹴ったり押さえたりしながら、上下左右、速度すら変えて体を揺らし、剣の軌道を逸らした。
重い金属の塊とは思えない速さで何度も突き出される真剣なんて、まともに見ていたら怖くて体がすくんでしまう。イアン様ほどではないとはいえ、生半可な腕ではないグレン様の剣筋を目でなんか追えやしないし、口を開いて悲鳴を上げようものなら舌を噛み、そのわずかな間が命取りとなってチキンの焼き物も真っ青な串刺し一直線コースなのも分かっているからね。鍛えられた聴覚と剣が動くたびに変わる風の動きを触覚で感じて、グレン様の動きを予想して剣筋から逸れるという荒業に賭けるしかない。良い子は真似しちゃいけない。人間は追い詰められたときに真価を発揮する生き物なんだってことだけ分かってくれればそれでいい。発揮できないと死んじゃうんです。
徐々に勢いがつき、上下の振れ幅が大きくなったところで、斜め前方の地面に手を着いて思いっきり体を押し飛ばすと、やっと天井に足が着いた。天井を蹴り、ゴムを伸ばしきったところにグレン様の刃の軌道をもっていくと、すらりとした刃であっさりとゴムは両断された。
風を起こしてひらりと着地を決め、得意満面の顔でグレン様に見せつけてやる、完全勝利だぞ!――と思っていたけれど、よくよく考えたら足首にはまだ魔封じの道具がくっついているわけで。魔法が発動するわけもなく。
「ぶっ」
僕は顔面から床にダイブした。
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「びどい……」
僕は恨めしい顔でご主人様を見やる。
グレン様はと言えば、両方の鼻の穴に柔らかい医療用の丸紙を詰め込んだ僕の顔を見ては盛大に噴き出し、そこで笑い転げて声も出なくなっている。
勢いよく体重をかけて顔面からダイブしたんだから、例え床にふかふかのカーペットが敷いてあっても、鼻血くらいは出る。血の通った人間だったら当然のことだ。首が折れずに済んでよかった。儲けものだと思いたい。
「大丈夫か、血は止まったか?エル」
「でんば、おでがいじまず。ぶがは、じっがりとぎょういぐじてぐださい」
顔を床に打ち付け、しばし動けなくなっている時に、タイミングよく殿下とイアン様がいらっしゃったわけだ。最初からお二人が来たらどうするつもりだったんだろう、この人は。
イアン様に助け起こされて早急に自分で優先的に治療すべきところを治したけれど、ずっと逆さまで振られていたから気持ちが悪く、鼻血までは手が回らなかった。医療用の回復魔法を使うには神経をすり減らさなきゃいけないんだけど、鼻血なんてこうしていればすぐに止まるって知ってる分、そこまでする手間を惜しんだってわけ。
すぽんと鼻から赤くなった紙を取り出し、血が垂れてこないかを確かめる。うん、大丈夫そうだ。
手に丸めた紙をそのままに、僕は、ご主人様ににっこりと笑って見せた。
「ごきげんよう、ご主人様。今日は早速僕の鼻の血管まで鍛えて下さってありがとうございます」
「どういたしまして。あれだけ逆さまになってれば日ごろ栄養の足りない頭にもよく回ったんじゃない?」
僕の挑戦的な笑顔に、グレン様の普段通りの天使のように愛らしい笑顔で痛烈な毒を吐いてくれた。負けてたまるか!
「嫌だなぁ、グレン様。頭に血が上ったらグレン様のお嫌いなアホまっしぐらじゃないですか。いつもアホは要らないってあれだけ仰っているのに、僕だけ特別扱いってことですか?もう、僕のことが好きでたまらないんだからー」
「うんうん。そういう、僕に何度も舌戦を仕掛けてはこてんぱんにされるって分かってるのにあえて僕に立ち向かおうとする学習能力のなさは三回転半くらいして可愛いと思わないでもないよ。立ち向かうたびにいい反応を返してくれるんだから、ヤリがいがあるよね」
「なんのやりがいですか、なんの。あぁほんとその傍若無人で皮肉を皮肉とも受け止めない性格の悪さを矯正してほしいです」
僕が頭を抱えると、横で僕とグレン様のやりあいを呆れ顔で聞いていたイアン様がふと真面目な顔になって考察し始めた。
「それが可能かはさておくとしても、果たして矯正された後のグレンはグレンと言えるのか、エル」
「えっ……」
それは考えたことがなかった。盲点だ。
「よく考えてみろ。見た目通りに毒がなく、素直で一生懸命で聖人君子のようなグレンだぞ?鳥肌が立たないか?」
「うわ……気持ち悪い」
「そこの二人、ほんと図太いいい根性してるよねー。エルもイアンも、夜道を歩く時にはよくよく気を付けることだね」
「あはは。何をいまさら仰ってるんです?木の上から叩き落とされて地面に押しつぶされた後に、間髪入れずに棟のてっぺんから突き落されるところから始まったのが僕とグレン様ですよ。朝だろうが夜だろうが、命を狙われる覚悟は常備しておりますのでご心配なく」
主に身内に、だけどね!誰かのせいで!
「それで、グレン。これは使えそうか?」
僕たちのやりとりにすっかり慣れ切っている殿下は、僕たちに構わずに、先ほどの僕を吊るしていた機械に歩み寄られる。殿下の声に、僕と取っ組み合っていたグレン様が僕の頭をすかさず床に沈めてから殿下の方を向いた。
「ん、まぁ。予想とは違ったものが釣れたけど、実験っていう当初の目的は果たせた」
「うーいたぁー。そ、それ、殿下がグレン様に作らせたのですか?」
「あぁ。少し要り用でな。具体的にどういう物を作るかはグレンに任せていたが、グレンが言うのならこれで平気だろう」
どうやら、例の僕を逆さ吊りにした器具は、グレン様の趣味、もとい、僕への嫌がらせ用ではなかったようだ。何に使うかは気になるところだけど、殿下であれば鬼畜な嗜虐趣味もないだろうから、人に使うとは考えにくい。
「形状からして、何かを捕獲するために使うものかなと思うのですが、僕ですら何度か勢いをつければ手が床につきましたよ?」
「エルにしてはいいところをついてきたな。だが、この高さはあえてのものだから気にせんでいい」
僕の質問に、殿下は少しだけ口角を上げ、察しが良くなったなと僕を褒めてくださった。が、詳しいことは教えてくれない以上、きっと僕が踏み入ってはいけない話なのだろう。
それにしても、殿下ってグレン様に絶大な信頼を置いていらっしゃるよなぁ。こんなにねじ曲がってるのに。僕だって今はともかく、始めは、必要最小限度で関わればいいと思っていたくらいなのに、などと、ぼんやりと思っていたところで急に僕がここにやって来た本来の目的を思いだし、僕はがばりと頭を上げた。
「あ!そうだ、グレン様、僕、ご報告があって参ったんです」
「一次試験の結果?」
「それもあります」
僕は、定位置の窓際に腰掛けたグレン様の近くに走り寄ると、ふふん、と胸を張り、鼻の穴を膨らませてご報告した。
「不肖エルドレッド・アッシュリートン、宮廷獣医師国家試験の一次試験に無事合格しておりました」
「知ってる。結果についても、今更親告せずともお前が不出来な小姓だってことも」
「ほほう、よくやったな、エル」
「自分を誇っていい」
僕の報告に、イアン様と殿下は素直に称賛の言葉をくれたというのに、相変わらずひねた回答しか返って来ない方がお一人。
「……グレン様。謙遜は美徳って言葉、ご存知ないですか?」
「最初から自分の売り出しに失敗する危険性を増すことを信条とする言葉なんか僕の辞書にはない」
「では今すぐ彫り込んでくださいお願いします。じゃあグレン様式で言い換えますよ。ほら!見てください!合格通知です!すごいでしょう?頑張ったんですよー?」
「あーはいはい、メデタイナー」
じゃじゃんともったいぶって、一次試験合格証明書を見せた。が、それでもグレン様の反応はいまいちだ。
「ぶー。もっと褒めてくださってもいいのに」
「この僕が最初から認めてる才能が国に評価されないわけないでしょ、馬鹿なの?」
頬をむくれさせると、グレン様は呆れたように半眼で僕を見やった。
「お?グレン様は僕の合格を確信されていたってことですか?」
「そうじゃなきゃ今後の仕事が進まないからねー」
「……仕事?」
「そ。お前にしかできないことを頼もうと思ってさ」
「グレン様がそう仰るときって、大抵ろくなことがない気がします」
元から無理難題を押し付けて来る人が、僕しかできないなんておだてるなんて、それだけで悪寒がする。
眉間にしわを寄せ、露骨に嫌だという顔をしてみせると、グレン様はさらりと付け足してきた。
「マーガレット様の身の安全にも関わることなんだけどなぁ」
またもや出てきた姉様の話題にはっとして顔を上げると、グレン様は立てていた膝を下ろし、窓際から飛び降りてから、ルビー色の瞳に僕の顔を映すと、うん、と一つ頷いた。
「エル。ちょっくら教会に挨拶しに行ってこい」




