9 小姓は望んでおりません
教会士を逃した粘液の塊が、僕の声なのか走る振動なのか分からないが、猛然と走る僕に気付いてこちらに向かって飛んできたのを、近くの椅子を振り回して叩き倒す。
魔術で守ろうとしたら魔力ごと食われるだろうから――なんて冷静なことは考えられもしなくて、ただただ夢中だった。
あまりにも多くの粘液が飛んできたときには、遠くに適当な魔法を放って囮にした。周囲の遺体を踏み越えて、恐怖と混乱と自暴自棄でいつの間にやら泣いていて顔面が涙と鼻水ですさまじいことになっていただろうけど、そんなことすら思考の隅に追いやってひたすら走って、礼拝堂の中心に向かって突き進む。
そしてようやく、粘液の糸の中心に、僕の頭よりも小さいくらいの大きさの赤黒い塊があるのが見えた。
構えるのは魔力強化のされていないただの短刀。されど、それは、ただの短刀ではない。
鋼よりもダイヤモンドよりも硬く、魔力との親和性が高くて周囲の魔力を吸着しやすい性質を持つ、オリハルコンという稀少な素材で作られた特別な短刀は、騎士様が叙勲の際にもらう特注品だ。騎士としての責務を終えるときに子に与えることもあれば、自らの墓標にする人もいる――そんな騎士としての誇りの詰まった一品。滅多なことでは手放したりしないそれを、騎士様の一人が僕に託してくれた。
その騎士様こそ、僕がこの王都に来て最初に診た翼竜のスナイデルのパートナーの騎士様だったというのは、偶然でもなんでもない。
僕がしてきたことの縁やこれまでの全てが積み重なってきっと僕は今ここにいる。
飛び込むようにしながら、僕は、勢いよく粘液の糸の中心にある赤黒いものに目掛けて、振りあげた短刀を突き刺そうとした。
迷いなく伸びきった僕の手の先にある短刀の先端がその塊に触れるか触れないかまさにその時、目にも止まらぬ速さで、あきらかに周囲の粘液とは違う何かが僕に向かって飛び出した。
すさまじい速さであるはずなのに、どういうわけかその時の僕にはその動きがゆっくりと一コマ一コマ止まったようにすら見えて、至近距離にあったその塊から飛び出した鉄の槍のようなそれが僕の腹目掛けて一直線に刺さるのを避けられない、ということも分かった。
――大事な存在を守ってくれた君に、大事な物を託す。だから頼む、どうか、あの化け物を倒してくれ
――お前に仕事を命じる。これの対を破壊して来い
――死ぬなよ、バカ
ごめん。それでも。
逃げるな、前を向け、僕!
さすがに自分から死地に飛び込むのを目にする勇気はなくて、僕は目を瞑ったまま、それでもそのまま勢いは殺さず、力を籠めて塊に向かって飛び込んだ。
僕の手元の短刀が、目の前の赤黒い物体に突き刺さるのと、僕の腹にそれが差し込まれるのが同時になるはず、だった。
が、ずぶり、という、思ったよりも肉々しい柔らかなものに短刀が突き刺さる感触がするだけで、僕の腹には一向に何も起こらない。
「あ……れ?」
僕が恐る恐る目を開けると――鉄槍のような相手の攻撃は確かに見るからに分かるほどの固さを持って僕の腹に向かっているのに、僕の腹の目の前でかき消えていた。
目の前の化け物の片割れはといえば、僕が深く突き入れた短刀を受け、刹那、しん、と静まり返っていたかと思うと、柄しか出ていない短刀が――いや、目の前の化け物の片割れがふるふると震え始め、そして、中心部がパン!と弾けとんだ。
本体が壊れた途端に、周囲の粘膜のような物体も周囲に散らばり、急速に水分を失ってさらさらと崩れていく。
「エル!」
僕が呆然と立ち尽くしていると、ヨンサムが駆け込んできた。ヨンサムは、ぼうっとする僕の肩を掴んで真剣に全身を見てきてから、ほうっと息を吐き、「ばか野郎!」と怒鳴り、それから思い切り僕を抱きしめ、背中をバンバン叩いた。
「化け物の叫び声みたいな音がしたから……!よかった、よかった……!」
化け物の叫び声なんてしたのか。聞こえていなかったみたいだ。
「ヨンサム……苦しい……窒息死しそう……」
「お前、無事なんだな……!生きてるんだな……!」
嗚咽混じりの声に、僕が、半分宙に浮きながらヨンサムの背中をさすると、ヨンサムは涙にぬれた顔を僕から離し、それからへたりこんだ僕の頭をわしわしと乱暴に撫でてきた。
中に入ってきた騎士様たちとそのあたりの調査を進めていく声がどこか遠くのように聞こえる。
終わった、のか?
でも。
どうして僕、生きてるんだ?
刺し貫かれたはずだったのに。
周囲の騎士様達が、化け物が跡形もなく消え去っているのを確認して安堵と歓声を上げる中、
「っ!」
急にパキンという固いものが砕け散るような音がして、首に熱い感触が飛び、朱い破片がぱらぱらと飛び散っていく。
「これ……グレン様のくださった――」
僕の、首輪?
首には首輪が物理的にくだけ散った時に出来たのであろう浅い切り傷が残っていて、ぬるりという感触が首に伝う。
「どうして首輪が――?」
「エル?」
嫌な予感が胸の中に広がっていき、僕はその場から無言で立ち上がると、貸していただいた短刀をヨンサムに押し付けるようにしてから走って礼拝堂から出る。
「おい、エル!どうしたんだよ!?」
僕の前で掻き消えた相手の鉄の槍のような最後の攻撃――あれはきっと、吸収を主とするあの片割れの最後の最も強力な、敵を屠る攻撃だったはず。
あれは正面から突破してくる相手を想定して、その相手の致命傷となる腹に向けて出されていた。つまりは僕の腹に向けてすぐそこに迫っていた。
あれを避けることはできなかったはずだし、僕は何も魔術を展開していない。本来ならあそこで串刺しになっているはずだ。
なのにどうして無傷でいるの?
砕け散った首輪。
グレン様のくれた首輪。
あれが砕け散ることがどういう意味を持つのか。
魔力の壁を作るにしても、あの威力のものを遮るには相当なものが必要で、こういう小さなものにその魔力を入れる技術など未だに開発されていないはず。
例えあの魔術のことと悪知恵だけは天才的なご主人様がその方法を編み出していたとしても、あの首輪には、既に魔力を隠蔽する魔術がかけられていたのだから、複数の強い魔術などかけることはできない。首輪の質量が魔力に耐えられなくて壊れてしまうのが関の山だ。
「身を守るには、防御と回避の二つしかないよね」
「防御できないなら回避するしかないでしょ」
「お前、防御できないなら、回避してみなよ」
「頭固いなぁ。避けられないなら、魔力を放出する側を動かせばいい、とかそういう発想はお前の小さい頭じゃ出てこないのかな?」
「なに?僕に噛みつこうって?無駄無駄!」
「ほら、こうやってさ。お前の魔力放出地点を別の場所に移動させることだって、僕にはできるんだし?」
「お前が僕に一矢報いることができると考えるのは、100万年早いよね」
「それでもやろうとしてくるお前は、やっぱり面白いよ。それをできないくらいに地に這いつくばらせることを考えると、最高にわくわくするよね!」
いつかのグレン様の言葉が浮かんでは消える。
魔力を放出する側の威力や魔法を妨害することはできなくても、それをそのまま別の場所に展開する魔術をあの人は使えた。
もし、さっきの、鉄の槍のように見えた相手の攻撃が、物理的な器官ではなく、濃縮・凝固化した魔力そのものだったら?
僕が受けるはずだったそれを、どこか違うところに展開する魔術が施されていたら?
それを、展開する場所は、どこだ?
あの自信過剰なご主人様は、自分ならそれに対処できると思っていたりするんじゃないか?
普段なら出来たとしても、体調も悪く、片割れとの戦闘で満身創痍のご主人様にそれができるの?
新しく改造したものをいただいてからそれほど経ってはいないとはいえ、この短い期間で危険な目には何度も遭ってる。それでも一度もあの首輪が砕け散るなんてことはなかったのに、どうしてあの時に限って砕けたの?
それだけ致命的だったからとかじゃないよね?
もしそうなら。
そんな致命的なものを代わりに受けようとか、そんなアホなこと、考えてませんよね、ご主人様。
ご自分の命、僕の代わりにしようなんてそんなありえないこと、しようとなんてしてませんよね。
どうか、全て僕の気のせいであって。
どうやって呼吸していたのかも覚えていない。
ひたすら走って、僕が教会の北側、先ほど化け物の本体に追い詰められたところまで転がるようにしてたどり着いた時。
「グレン!グレン!しっかりしろ!」
「動かすな!」
「イアン様!」
イアン様の悲痛な声と、師匠の切羽詰まった怒声と、イアン様を背後から押さえようとする騎士様たちの声が聞こえて、
「どいてください、お願いします!」
突進するようにしながら周囲の騎士様方を手でかき分けて、人だかりに走り込んで、
「エル!」
「エル、近づくな!」
両手が血まみれになった師匠が僕を遮るのを振り払ってたどり着いたその中心で、
「グレン様!」
血の海の中に、腹と辺りの草を真っ赤に染めたご主人様が倒れているのを見て、僕には、一切の音が聞こえなくなった。




