「陽星 ―ようせい―」
その日は、いつもの日常でした。朝起きて、爆発した髪の毛を梳かして落ち着かせ、朝食を食べて修行する。
ここまでは 、いつもの日常だったのです。
普段であれば、修行が終わってからは陽虫のヨウちゃんと遊ぶ時間になっていました。小さな輪っかを用意して構えると、その輪をくぐるのです。運動が必要なわけではないでしょうが、瞳もヨウちゃんも実に楽しそうにこの遊びを毎日のようにしていたのでした。
「ヨウちゃん……?」
心配そうな声を上げる瞳。クリクリな目にほわわんとした笑顔をたたえていた表情も、影が降りてどこか不安げ。
どうしたことか、ヨウちゃんの姿が見当たらないのです。
「ほ~ら、輪っかだよ~? 遊ぼ~よ~」
〈ヌヌ工房〉の3階にある自室でうろちょろしながら呼びかけますが、反応がありません。
目覚めと共にずっと朝から行動していましたが、修行に集中していて気付いたときにはすでにいなくなっていました。
もしかして、もう眠りについてしまったのでしょうか? 確かに最近のヨウちゃんは他の陽虫と比べると姿と光を消すタイミングはどんどん早まっていました。
しかしそれにしては早すぎるのです。
「ヨウちゃ~ん? ヨウちゃ~ん!」
「瞳ちゃん? どうしたの?」
階下へ続く階段からひょっこりと薄緑の髪をのぞかせたのはもちろん先輩のセフィリア。穏やかな笑みを浮かべていますが、その目の奥には不思議そうな光が見え隠れ。何を騒いでいるのか気になったようです。
「セフィリアさん! ヨウちゃんが~!」
「落ち着いて瞳ちゃん。ヨウちゃんがどうしたの?」
すでに若葉色の制服からゆるめの部屋着に着替え終えていたセフィリアが先輩の余裕を見せて瞳を落ち着かせます。彼女の笑みと声には人を落ち着かせる不思議な魅力があるのでした。
すーはー、と大きく深呼吸して言われた通り心を鎮めてから、ヨウちゃんの姿が見えないことを説明しました。
「まぁ、そんなことになっていたのね」
瞳が慌てている事情を理解したセフィリアは頬に手を当てるようにして少し考えると、やがてポツリと口を開きました。
「瞳ちゃん、実はヨウちゃんの──いえ、陽虫について少しわかったことがあるの」
「え?」
「前に図書館に調べ物に行ったときにね、陽虫の記述がある本を見つけたんだけど……」
そこでセフィリアは言葉を切ってしまいました。言いにくいことなのかもしれませんが、瞳は知りたいと思いました。大切なお友達のことは、少しでも多くのことを知りたいのです。
「教えてくださいセフィリアさん。ヨウちゃんのこと」
いつになく真剣な声でせがむ瞳を見て、セフィリアはゆっくりと語り始めます。図書館で手に入れた情報を。
「……たぶん、もうすぐヨウちゃんはいなくなるわ」
「……え?」
先輩の口から飛び出したのは、信じられない言葉でした。
ヨウちゃんがいなくなる? どうして?
ショックのあまりあんぐりと口を開けて固まってしまいました。
瞳の心の中で、出会ってからこれまでの楽しかった出来事が泉のごとく溢れてきます。
突然ふわりと降りてきて窓から部屋に入ってきて、理由はわかりませんが懐いてくれたこと。それからすぐに火華裡とお友達になれたのだって、ヨウちゃんのおかげだと瞳は信じています。
──ヨウちゃんが素敵な出会いを運んできてくれたのだと。
「どうしてですか? 理由を教えてください!」
「それは──」
セフィリアが口を開きかけたそのとき、ヌヌ店長が大きな翼を広げて慌ただしく部屋に入ってきました。身動きひとつしないときもあるのに、慌ただしいなんてとても珍しい光景です。
瞳にはまだヌヌ店長の言いたいことを正確に読み取ることはできませんが、代わりにセフィリアが代弁してくれました。
「『ついてこい』って言ってるわ」
「ついてこい?」
「ヨウちゃんのこと……私が説明するよりも、実際に見たほうが早いと思うわ」
「…………?」
瞳にはよくわかりませんでしたが、言う通りにしたほうがいいということだけはわかりました。
二人は上着を羽織り、ヌヌ店長の後をついて行きました。お店から外に出てグルリと壁に沿って歩きます。外はすでに暗く、わずかな陽虫が黒いキャンバスに白い光を灯していました。
案内された先は〈ヌヌ工房〉のすぐ裏でした。そこから宇宙のような眼を見上げるようにして、ヌヌ店長は動きを止めました。
セフィリアも同じく視線を向けているので、瞳もそれに続くと、そこには見覚えのないものが。
繭のようなものが壁にくっついていたのです。ちょうど瞳の部屋の窓の上あたりに、それはありました。
「あれは……もしかして……?」
「ええ、おそらく、ヨウちゃんよ」
繭はまるで心臓の鼓動のように仄かな光の脈動を見せ、それが生きているということを瞳に教えてくれました。
あのように光る生き物なんて、陽虫以外に瞳は知りません。そして繭を作った場所も、ヨウちゃんと初めて会って、視線を交わしたあの窓です。
瞳は、あれがヨウちゃんだと確信しました。
もっと近くで確認するために急いで自室に戻ろうとした瞬間、変化は突如として訪れたのです。
柔らかそうな繭の一部が裂け、中から神々しいまでの光の粒を噴射させたのです。
それはまるで、星屑の間欠泉のようでした。
惚けたように立ち尽くして、その眼差しはキラキラに釘付け。
「キレイ……」
「ええ、そうね……」
目を奪われるようにうっとりとこぼす瞳に、セフィリアは同意します。
今まででこんなに美しい光景を見たことはありませんでした。ただの一度も。きっと二度目はないでしょう。
光の奔流が収まると、繭の裂け目はどんどんと大きくなり始め、上から下へ、完全に割れました。
中から現れたのは、一対の大きな羽を持つ極光の蛾でした。繭から出てきたので蝶ではなく蛾でしょう。
それはそれは筆舌に尽くし難いほど美しい、オーロラのごとき輝きを振りまいておりました。
「陽虫とは、言葉通り幼い虫だったの。ヨウちゃんは瞳ちゃんと一緒に大きく育って、成虫になった。星の虫になったのよ」
幼虫から成虫へ。
陽虫から星虫に。
「あれが、ヨウちゃん……」
すぐには信じられない光景が二人の頭上を埋め尽くします。羽ばたいた星虫が空へ飛び立つと、尾を引くように光の粒がキラキラと舞い踊るのです。
最初に出逢ったときのように、瞳の周りを付き従う妖精のようにくるりくるりと飛び回りました。
宙で優雅に泳ぐ星虫の軌跡は、まさに手の届く天の河。星々に手が届くなんて、夢でも見たことがありません。
ゆるりと舞い降りる光の粒を両手で受け止めると、その正体に驚きを隠せませんでした。
まるで鱗粉のように見えていた光の粒は鱗粉ではなく、小さな小さな陽虫だったのです。
「陽虫は成長して大きくなると、本来なら人気のないところに降りて、こうして星虫になって夜空へと還っていくの。でもヨウちゃんは瞳ちゃんのところへ降りてきた」
「は、あい……どうしてでしょう?」
「そうねぇ……きっと、瞳ちゃんのことが気になったからじゃないかしら」
瞳のつむじのあたりで羽を休めるヨウちゃん。今でもそこがお気に入りの場所のようです。
陽虫のときのような暖かさはありませんが、代わりに心が暖まるような、そんな安らぎを感じます。
「私たちの頭上には、数え切れないほどの陽虫がいるでしょう? だったらその中の一匹くらい、人に興味を持つ子がいたって不思議じゃないと思うの。──それがヨウちゃんで、瞳ちゃんだった。これって、とってもすごいことよ」
「そ、そうなんですか~?」
「確率だけでは言い表せない、まさに運命に導かれた出逢い。ヨウちゃんがヨウちゃんで、瞳ちゃんが瞳ちゃんだったからこそ、こんなにも美しい歴史的瞬間を見ることができているの」
星虫が振り撒く鱗粉は小さな陽虫です。これはどこのどんな本にも載っていないとても価値のある事実でした。未だ謎の多い陽虫の一部分を解明したのですから。
「こんなにも綺麗な星空を運んでくれたんだもの、『幸せを運ぶ奇跡の妖精』と言われているのも頷けるわね」
「あい……わたし今、幸せです。とっても幸せです!」
「ふふふ、私もよ」
お互いにニッコリと微笑みあうと、羽を休めていたヨウちゃんが再び羽ばたいて、瞳の頭から離れました。
別れを惜しむように少し周囲を旋回すると、ずいずい高度を上げていきます。散らばる小さな陽虫は、ダイヤモンドダストのように瞬いて暗闇に点々と光を灯し、宇宙のような神秘を広げます。
広大無辺に広がりを見せる銀河を泳いでいるような、夢のような時間に二人と一匹はいつまでも浸りました。
「バイバイ……ヨウちゃん」
自然と溢れた一筋の雫は頬を伝って地に落ち弾け、宇宙空間の輝きと混じり合うように溶けていくのでした。
***
──前略。
あのね……いま、とっても複雑な気持ちです。
ヨウちゃんが空に還っていきました。嬉しいはずなのに悲しいんです。もともとヨウちゃんを空に還すつもりでいろんな方法を調べていたのに、いざお別れの瞬間がやってくると、どうして心が悲鳴をあげるんでしょう……?
ヨウちゃんは幸せだったでしょうか? わたしはヨウちゃんに幸せを運んであげられたでしょうか?
ヨウちゃんを、幸せにしてあげられたでしょうか?
幸せには色々な形があります。こんなにも辛い気持ちになっているのに、わたしは確かに幸せを感じているんですから。
きっとヨウちゃんも、幸せだったと信じたいです。信じても、いいですよね?
草々。
森井瞳──3023.5.15




