【2】グローリアの天宮殿 4
少し寂しそうに聞きなれぬ男の名前をこぼす女の呟きに、男は微苦笑する。
「恋人か?」
その面白そうな声に、女はようやく自分以外にもこの庭に人がいることを認知した。
品の良い唇が、こぼれそうな悲鳴を必死に飲み込んだのが見て取れる。
「南方遊牧民系の名だな」
そう言われても、女は夏の空色の瞳を大きく見開いて呆然としている。
男の顔をまじまじと、それこそ穴が開くほど凝視している。
「まさか、恋人がいるとは思わなかった。それとも、八年も経つのだから当たり前なのか、な?」
「…………」
「八年か……。変わるには十分すぎる時間なのかもしれないが、そうだとしても一体何をやっている?噂が森にまで伝わってきたぞ」
「…………」
「恋人だけならばまだしも、子どもを拾ったなどと……。しかも森長を呼び出すなど、厄介なことまでしでかす始末。俺の知っているエルゼは、厄介ごとを自ら抱え込むようなことはしなかったものだが……。それとも、もう俺の知るエルゼはどこにもいないのかな?」
「……馬鹿」
そこでやっと、女は息を吹き返した。ささやくようなその声は少し湿っぽくて、男は苦笑を深くした。
「再会の挨拶が馬鹿とはひどい。逢引の邪魔をしてしまったので、怒っているのか?」
からかいを含めてそう言うと、彼女はひとつ身震いして立ち上がり、艶然と微笑んだ。そこには甘い色気と相手への好意、加えてほんの少しの傲慢さがあって。
「怒るわけ、ないでしょう?ずっと待っていたのよ?――……あなただけを」
最後の囁きは、痺れるほど甘い。男の方へついと近づく。
潤むような瞳にじっと見つめられて、逆らえる男がどれだけいるだろう。しなだれかかってきた寝巻き姿に、魅力を感じない男性が。
薄い寝巻きは、その胸元をしっとりと主張していた。そして脳の奥がしびれるような甘い香りと、確かな体温……。
今の彼女はその存在自体が恐ろしく魅力的で、官能的で、どんな男性も、いや女性でさえ逆らえないような吸引力を持っていた。
にもかかわらず、この男は表情一つ変えなかった。むしろあっさりと女を引き離す。
「何だその秋波は。そんなものは俺にではなく、恋人に向ければいいだろう」
「まあ、ひどい。久方ぶりにお会いしたのに、ご挨拶ね。あんまりじゃない?それに、恋人恋人って、隼人はわたくしの恋人ではなくてよ」
「じゃあなんだ?」
「…………お友達、なのかしら?」
「俺に聞かれても困る」
男の言い分は全くだった。エリザベトもあっさりと話題を変えた。
「あなたったら、わたくしに会うより先に書庫に篭るなんて、一体どういった了見?いくら使いを送っても、梨の礫だし――……でも、また会えてうれしいわ」
「――俺は、できるならばもう二度と会いたくなかったよ」
特に何の感情も含まれていないその言葉に、女は微かに眉根を寄せた。
「……まだ、あのときのことが許せないのね?」
「さあ、どうなのだろうな」
いつの間にか男の顔から表情が消えている。
「十年以上も昔のことだ。忘れたさ。――それよりも……」
不自然に言葉を切って、何かを放り投げる。
彼女の豊かな胸に当たって落ちたそれは手紙のようだ。
「何のつもりだ、これは」
「何って、見てのとおり招待状よ。花祭りの式典の」
「俺が聞いているのはそういうことではない」
「今年は開国千三百年にあたるでしょう?だから、盛大に催すことになったし、あなたにも、どうしても来てもらいたくて」
小首を傾げた彼女に、いっそ冷ややかな言葉が降る。
「何を考えている」
腰に響くテノールにも、彼女を見つめる瞳にも、深い憂いが含んでいる。そこに彼女への好意はほとんど見受けられなかったが、それでもうっとりしてしまうほど、魅力的だった。
「冷たい人。わかっているのでしょう?式典にかこつけて、会いたいって書いただけよ?」
「戯言を。自分の立場がわかっているのか?」
「もちろんよ。わたくしはグローリア国の女王であり、この天宮殿の主。この国を統べる者であり、この世界を生きる全ての者の守護者。――もちろん、しっかり理解していてよ」
「ならば何故、俺を呼んだ。忌み人でありながら、力を、地位すら得ている俺を……」
淡々としていながら苦渋がにじんだ声だった。
「言ったでしょう?あなたにどうしても会いたかったの」
「はぐらかすな、グローリア国の女王よ」
どこまでも甘い囁きを、男がぴしゃりと遮る。
「お前が今、女王であるのと同じように、俺も昔の俺ではない。アリーツワの森の長だ。そも、忌み人以前の問題として、森長と女王は、よほどのことがなければ書面でのやり取りすら憚れるべきものだぞ?」
「それでも、あなたは来てくれたわ。本当に嫌なら無視すればよかったのに」
「論点をすり替えるな。グローリア女王として、アリーツワの森長に対して命じておきながら、何故、私としての俺を求める。会いたいなどという個人的な理由で「森長」を呼び出すような愚行を「女王」がしたのか」
刺さるような非難だった。ここまで言ってもまだはぐらかす気かと、男が苛立ちを覚えたとき、グローリアの女王エリザベト=グロリエの瞳に真摯な光が宿った。
透けるような寝巻き姿ではあったが、重厚な女王のローブを纏ったときのように昂然と頤を引き、言葉を紡ぐ。
「名を封じられしアリーツワの森の長よ。グローリア女王に匹敵する、もう一人の力ある者よ。森長の力をお貸し願いたい。天界の要たるグローリア女王エリザベト=グロリエの求めに応え、この世界の窮地を救いたまえ」
闇色の瞳がすっと細められた。
「契約の言葉……。本気なのか」
女王は肩を竦めることすらせずにうなずく。
「少なくとも、伊達や酔狂で語られるものではないわね」
「何があった?」
「我が求めに、応じるか否か」
森長が幾ばくか躊躇する。それでも、彼には拒否できるだけの材料がなかった。
「……応じよう。己が名を封じられたアリーツワの森の長は、古の契約に従い、グローリア女王エリザベト=グロリエの求めに応じ、できる限りの援助と労力を払うことを惜しまぬだろう」
女王はやっとほっとしたように微笑んだ。
「感謝します、森長よ」
「そのような言葉はいらぬ。……何があった?あの噂と関係あるのか?」
「何を聞いたの?」
「愚にもつかぬことさ。――女王が拾い物をしたそうだ。どこから拾ってきたものなのか、後生大事にいつもそばに置いて可愛がっていると聞く。……いつの間に幼児趣味に走ったのだ?」
「あら、人聞きの悪いことを言わないで。それにわたくしは何も拾ってはいないわ。ただ、そこに隼人がいたから朝食に誘っただけよ。……ちょうど、あのあたりだったかしら。晦の儀式の前日だったから、もう3か月は前になるわね」
と、とある方向を指差す。ちらりと目の端だけで女の指の動きを確認して、男はさも呆れたように言い放った。
「やはり拾ったのだな。――隼人?逢引の相手は拾い物の子どもだったのか」
「だから逢引の相手じゃないったら。……わたくしは恋人など、つくらないわ」
「……八年も経つのに?」
腫れ物に触れるように、そっと聞く。女は切なく眼を伏せた。
「まだ八年よ?あの人が亡くなって、たったの八年。まだ、駄目……。――それに」
「……何だ?」
「あなたのことも忘れられなかったの」
「……エルゼ、冗談はよせ」
呆れた男の声に、ふふ、と女が微笑む。少しだけ哀しそうに。
「隼人はね、もうすぐ十二歳になるの。だけど、十歳ぐらいにしか見えない男の子なのよ。わたくしの良い話し相手になってくれているの」
不自然なほど明るい調子に、むしろ男は戸惑う。何かを言おうとする男の唇にそっと触れて制し、小首を傾げる。
「……会いたかったのは本当よ。わたくし一人の力ではもう、どうしようもないの」
女は眼を閉じた。組まれた両の手は、血の気がなくなるほど固く結ばれている。
青白い顔に何を見たのか、男は深く深く嘆息した。
「やはり、間違いなのだな?……あの書が、天宮殿に」
森長の微かな囁きに、女王は重々しくうなずく。
「隼人が持っていたの。あの子、突然わたくしの前に現れて、――今日のあなたのように、この庭に突然――そしてその本を大切そうに持ちながら「あんたがこの本の持ち主か」と訊ねてきたわ」
「よく、応と言わなかったな」
感心して男が言うと、恥ずかしそうに微笑んだ。
「言えなかったのよ。あんまり驚いて。本当、後悔していてよ」
拗ねた様子に思わず笑みを浮かべる。が、すぐに真剣な様子に戻る。
「いや、言わなくて正解だった。言っていれば、グローリアは今ごろどうなっていたかわからないぞ」
「……そう、ね。そのとおりだわ」
「その子どもはあれを制御できているのか?」
「さあ、それはどうかしら?ただ、あの子、仮の主としては認められているようよ。使い走りのようなものだって本人は言っていたけれど。あの子も、誰かから譲られたみたい」
その言葉に、男は眉をひそめる。
「つまり、黒の書はずっとそうやって人から人に渡っているということか?」
「そうみたいね。あの子も、その前の人も、ずっと本物の主を捜しているのですって」
「ずっとと言っても、まだ子どもなのだろう?」
そんなに長期間は持っていないのではないかという男の疑問に、エルゼはきっぱりと首を振る。
「あら、年齢は関係なくてよ。あなただって、わたくしと初めて会ったときはまだ十にも満たない子どもでした。そのときのあなたが何をしたのか、忘れたとは言わせないわよ?」
「…………」
「本当に力のある子なの。風のような子なのよ」
ここではじめて男は合点がいったというようにうなずいた。
「なるほど、武人の資質、それも風の性質を持つ者ということか」
「ええ。とても強い力を持っているわ。聞けば、この庭に来たときも風に乗ってきたというのですもの。本当に驚いたわ」
「それはすごい。それほどの力の持ち主は今ではあまりいないだろう。さすが、例の書物に持ち主探しを見込まれるだけのことはある」
見せかけではない、心からの感嘆がそこにはあった。だが女は悲しそうに目を伏せる。
「……本当に、そうね」