【2】グローリアの天宮殿 2
扉を開けると、外の強い光が容赦なく室内に入ってきた。
男は思わず眼を細める。
手で庇いながら外に出ると、呵呵とした笑い声がおこった。
「ようやっと出てきよった」
「図書頭か」
何度か瞬くことで光に慣れた眼が、ずんぐりむっくりとした小さな老人をとらえた。
年輪を重ねた大樹の幹を思わせる皺だらけの顔には奇妙な愛嬌がある。
今はそこにあきれ果てた表情を浮かべていた。
「全く、書庫に入ったっきり丸三日じゃぞ?心配したリアン殿が何度いらっしゃったと思っとる」
書庫から現れた男は、暗闇が戯れに形を取ったかのような男は、軽い驚きの声を上げる。
「三日?そんなに経つのか?」
「そうとも。お前さんが書庫に入ってから三日目の朝じゃよ。本の虫もここに極まりじゃな。自分が何冊読んだかわかっとるのか?」
老人は何やら懐から紙を取り出し、呆れたように肩を竦めた。
「四十八冊じゃぞ?たった三日で四十八冊。お前さん、何を考えとるのかね」
「何だ。それしか読んでいなかったのか?もっと読んだかと思ったが。……なかなか内容の濃いものばかりだったからな」
ぴしゃりと額を叩いた図書頭である。
「ちゃんと全部覚えとるのか?」
「もちろんだとも。……ところで、当代の大賢者の書が一冊も無いのはどういったことだ?称号を得てから八年も経つのに一冊も本を出さぬのは、何か特別な意味があるのだろうか」
「さあのう。雲の上のお人が考えなさることなど、わしにはわからんよ。……それより、本当に覚えとるのか?」
それだけ読んだことがどうにも信じられないのだろう。疑わしい眼を向けている。
「俺も信用が無いな。――まず『蔵書録』に眼を通してここ十年で新たに書庫に加えられた書物の名を確認してから『新編グローリア正史』全十二巻を読んだ。その後各地方の史書を八冊、天文学関係の書を六冊、政治学関係を四冊と、『制度史』に『諸民族の地理的分布』、『説話と伝説の系統』と一応最新の『紳士録』、そして歴代の大賢者の書を十四冊。――『蔵書録』は数えぬから、これで四十八冊だろう。もっと具体的に知りたければ、目録も出そうが。それとも、一冊ごとに書評をつけようか?」
歌うように数え上げられて、図書頭は頭を抱える。
もちろん男の提案は却下された。
「わかった、わかった。わしが悪かったよ。全く相変わらずじゃな。たまげたわい。……お前さんが心配じゃよ。のめり込むと周りが見えなくなる。リアン殿も心配しておられるぞ?」
「呆れているの間違いだろう。いつものことだ、あれも慣れているよ」
いけしゃあしゃあと、言い放つ。
さすがに苦笑するしかない老人に、男は軽く笑いかけてその場を立ち去ろうとしたところで、図書頭がそれを止めた。
不審そうに振り返ると、
「お前さんに会いたいと、エルゼ嬢様がしきりにおっしゃっとってな。まだ書庫から出てこないのかと、矢の催促じゃった」
「エルゼが?――……そういえば手紙にもそのようなことが書いてあったような……。戯言かと思っていた」
「そう冷たいことを言いなさんな」
男が鼻を鳴らす。
「どうせ暇なんだろう」
「いやいや、何でも珍しい本が手に入ったそうじゃよ」
「本?」
食いついてきた男に、図書頭は内心にんまりとする。
「そう、黒色の本といえばわかると、おっしゃっていたが」
「黒色の本……?」
「何のことやら儂にはわからんが」
そこまで言うと、孫を案じる顔で苦笑する。
「きっとエルゼ嬢様はお寂しいのじゃよ。ここ最近は色々立て込んでらっしゃるようだしの。ちょっとでいいんじゃ。顔を出してもらえんかのう」
「そうか。貴方がそこまで言うのなら行ってみよう」
図書頭は、ただし、と釘をさすのを忘れなかった。
「休んでからで良いのじゃからな。どんな強靭な身体でも、休養しなければ壊れるものじゃ」
「それほどやわなつくりではないよ。――それに今戻ったら、リアンに外出禁止を言い渡されて、部屋から出してもらえなくなる」
「ほ、妹御には弱いと見える」
からかう図書頭に、ちらりと口の先だけに笑みを浮かべる。
「だから、先にエルゼに会ってくるよ。――……黒色の本?まさか、な」
口元の笑みはそのままだが、眼は笑っていない。深い翳りがにじみ出している。
そのことに老人も気付いたが、何も言わずに男を見送った。