【2】グローリアの天宮殿 1
さすがにくたびれた様相で屋敷にたどり着いた男だったが、休息を得ることはまだ許されなかった。
彼の受難はむしろこれから始まる。
三日ぶりに柔らかなベッドへ倒れこむには、越えなければならない大きな壁が残っていたのだ。
それは見た目には優しく男を迎え入れた。
「お帰りなさいませ、お兄様」
入口の扉を開けた男を見上げる存在があった。
たおやかに笑みを刷く少女に、男は硬直した。
ほっそりとした頬に、服の上からでもはっきりとわかる細い身体。
十五、六に見えるその少女は、濃い銀色の髪をゆるやかに結い上げ、小さな簪で止めている。裾がふわりと形よく広がる桜色のドレスは、袖や裾、それに胸元に控え目なレースが縁取られている。
儚げな少女はどこか腺病的な印象で、溌剌とした明るさはないものの惹きつけられるような美しさがあった。綺麗に飾られた陶磁の人形のようだ。
微笑んでいる口元が、殊更作り物めいている。
しかしながら、頬にはほんのりと赤味が差している。
ふっさりと長い睫毛からのぞく薄い水色の瞳が、潤んだように男を見つめている。
そしてただならぬ気配を漂わせていた。
そのことが何を意味するのか、少女に兄と呼ばれた男ははっきり理解してしまった。
男は微かに頬を引きつらせる。
少女はそんな様子には気づかぬふりだ。
「お疲れでございましょう?温かいスープがございましてよ?」
「リアン、それよりも……」
「さ、あちらにお座りになって。今お持ちいたしますから」
休みたい、と最後まで希望を述べることすらできない。
リアンと呼ばれた、見た目は美しく可憐な少女は、兄の言葉の上に被せるように言葉を紡ぐ。
妙なる楽の音のような調べで畳み掛ける。
「ひどい顔をしていらしてよ。眼の下の隈には気付いていらっしゃって?どうせこの三日間、睡眠はおろか、ろくな食事をなさってらっしゃらないのでしょう?」
「いや……」
「わたくしが朝夕お運びいたしました食べ物は、いったい、どなたが召し上がってくださったのかしら?」
「……その」
「お兄様が召し上がらなかったことくらい存じております」
「……」
「けれど、まさかとは思いますけれども、全てネズミに食べられていたのだとしたら、さすがに少し、哀しいですわ。もちろん、そのようなことはきっと無かったと、そう信じておりますけれど」
浮かべられた笑顔があまりに完璧すぎて、かえって怖い。涼やかな清水のような声が織り成す皮肉が、ダンカンの怒鳴り声よりも恐ろしいものに思えて仕方が無い。
「……リアン、その……」
「言い訳など、聞きとうございません」
ぴしゃりと言われて素直に黙る。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
大賢者とその護衛という強力タッグと、たった一人で対等に戦った後である。すでに消耗しきっている。
そもそも三日間徹夜しているのだ。怒りの炎を燃やす少女を相手にする余力など、今の彼に残っているはずはなかった。
諸手を上げて降参するより他、道は無かった。
勧められるままに部屋を移動して椅子に座る。
そしてその途端襲ってきた猛烈な眠気に必死で戦う羽目になった。
ともすれば飛んでいきそうな意識を必死でつなぎ止める。ここで寝てしまったら、起きたときに死ぬほど後悔するに違いない……。
リアンはスープ皿を男の前におくと、その正面に腰を下ろした。
のろのろとスプーンを手にした兄を見ながら、あくまでも懇願の口調を崩さず命令する。
「全部お話ししていただきとうございます。今朝地下書庫に参りましたら、もうお兄様はいらっしゃいませんでした。どこにお出かけになられましたの?」
「……全て話せと?」
リアンは否とも応とも言わない。
ただ、柔らかな笑顔はそのままに優しげな水色の瞳が物騒に煌くのを見て、男は反論を諦めた。
とりあえず、最後の抵抗とばかりに黙々とスープを口に運ぶ。
細かく刻んだ野菜のスープは、疲れ果てた男の身体をじんわりと温めた。
今さらながらに三日間、ほとんど飲み食いしていなかった事実を思い出す。やっと脳に届いた空腹感に、男はスープをあっという間に飲み干してしまった。
お代わりと頼もうと顔を上げる。
と、そこに鍋がでんと置かれた。
隣には数種類のパンの入った籠もある。
男は嘆息すると、自分でスープをよそう。極力笑顔が怖い妹の顔を見ないようにしていたのは内緒だ。
黙々と腹を満たす作業を続け、ようやく一息つくと、淡々とした口調で語り始めた。
「地下書庫で書物を閲覧してからエルゼに会いに行き、あとは……」
「よもや、その程度のことで、全てお話になったなどと、おっしゃるつもりではございませんわよね?」
いよいよ凄みを増した笑顔に、男はとうとう諸手を挙げた。
「リアン、俺が悪かった。さすがに三日も書庫に篭ったのはまずかった。このとおり謝罪しよう。――だから、その気味の悪い口調だけは止めてくれ」
はじめて少女の瞳の色が和んだ。人形のように美しいが硬質であった笑顔が、もっとずっと柔和に人らしいものになる。
「お兄様の謝罪って、あまり謝られた感じがしないのよね。どうしてかしら?」
今までよりもぐっとくだけた口調で言う。その様子の自然さから、これがリアンの地であることが窺われた。
男もほっとして顔を上げる。そこには精一杯難しい顔をしたリアンがあった。
「それでも、もっときちんとお話していただけますわよね?」
「……ああ」
やっと話し出そうとした男を、何を思ったか少女が止める。
「その前に、先ほど、女王陛下のお名前をおっしゃらなかった?」
「言ったが?エリザベト=グロリエの愛称だろう、エルゼは」
「……お会いできたの?」
「もちろん」
「でも、どうやって?いつの間に謁見の申し込みを?」
「正式な手続きなど踏んではいないさ。そもそも、するつもりもはじめからない。必ず会えるという確証もないことをやるなど、ただの時間の無駄だ。俺の性にも合わぬ。――それよりも、もっと手っ取り早くて確実な方法があるだろう」
微かに笑みを浮かべた兄に、妹は嫌な予感を抱く。
「まさかとは思いますけど、……忍び込んだ、とか…………?」
「そのとおりだ」
リアンが小さな悲鳴を上げた。両手を組んで祈りの言葉を呟く。
「どうしてそんな心臓に悪いことなさるの?」
「会いに来いと言われたからだ。……解せぬことも二、三あったしな」
「それは解決して?」
ここで、男がうっすらと笑みを浮かべた。それは何故か皮肉の形を取っている。
「相変わらずの狸だった。あれはいつでも、相手が知りたい答えも、己の望みも、巧妙に隠して見せない」
「まあ……」
それは実際に女王にあったことのないリアンにはわからないことだった。
だからそれ以上何も言えなかったが、その代わりに別のことに思い至った。
「いつでも?……お兄様、女王陛下と面識がおありでしたの?」
「言っていなかったか?エルゼは俺の昔馴染みだよ。あれが王女の頃からのな」
妹の言葉に驚いたように男が答えたが、リアンの驚愕の大きさはそれの比ではなかった。彼女は今度こそ声も出なくなってしまっている。
男はゆっくりとパンを咀嚼しながら、妹にどこまで話して逃げようか、思いをめぐらせた。