【1】 さまよえる庭3
「ヴァイゼ!やっと見つけましたぞ」
そう叫んで駆け寄ってきた人物は、三十がらみに見える大男だった。
大柄な大賢者よりもさらに頭ひとつ分大きい。肩幅にいたっては倍もある。厚い胸板に、隆々と盛り上がった二の腕はまるで丸太だ。鍛えぬかれた身体を礼服に窮屈そうに押し込めているのがなんとも似合わない。邪魔にならないよう刈り上げられた金髪も、日に焼けた精悍な顔も、いかにも武人のそれだ。
それが鬼神そのものの形相で睨んでいる。
腰に佩いた長剣に、すでに手をかけているのが物騒極まりない。
だが、そんな様子を知らぬ気に、ヴァイゼはうんざりとこの闖入者を見やっただけだった。
「いいかげん、しつこいですね」
「当たり前です!小児でもあるまいし、いつまで駄々をこねるおつもりですか!」
「どう言われようと、何度来ようと私は式典には出ませんよ」
「そうは参りません!今年こそは引きずってでも式典にお連れしますぞ!なんといっても今年の式典は開国千三百年記念の盛大なもの!どうあってもヴァイゼには出ていただきますからな!!」
「絶対に、い、や、です」
今しがたまでの気弱そうな老人の姿はどこへやら、なんともふてぶてしい。しかも虫でも追い払うかのようにぱたぱたと手を振っている。
ここまで男は二人のやり取りをただ見ていたのだが、ふと、この武人に見覚えがあることに気付いた。
「ダンカン?」
大男は突然名前を呼ばれて驚愕の表情を浮かべる。今まで大賢者にしか注意を払っていなかったらしい。まじまじと声の主を見つめ、一拍置いて大音声で叫んだ。
「何でお前がここにいる!?」
どうやらお互い見知った相手のようだ。
叫ばれて、男は苦笑しつつ事情を説明する。
と言っても全く要領を得ないものだったが。曰く、
「天宮殿の地下書庫を出て、春の庭園を歩いていたら、ここにいた」
ダンカンは、厳めしい顔にぽかんとした表情を浮かべていた。
「お前、しばらく見ない間に頭がどうかしたのか?春の庭園は王宮の東側だぞ?ここは秋の庭園の外れ、西側だ」
その言葉に、男はさらに苦笑を濃くする。
「ここは『彷徨える庭』なのだろう?」
「そうだが……」
「『彷徨える庭』は移動するから『彷徨える庭』なのだろう?お前が秋の庭園からここに入ったとしても、先程は春の庭園にあった。それだけのことだろう。――そうですね?ヴァイゼ=ライヤ」
「それはそうですが、ですから、敬語はよして下さい。それに、私のことはライヤで結構です。……それよりも、お知り合いなのですか?」
ダンカンが頷いた。
「以前お話したことがあったかと思うのですが。――俺の不遜な友人がアリーツワの森にいる、と」
「ああ、聞いたことがあります。確か……あなたがどうしても勝てなかった相手ですね?」
「あっ……いや、今なら絶対に負けません!!……ヴァイゼこそ、いつのまにこいつと知り合いに?」
自分にとって都合の悪いことまで思い出させてしまったダンカンは、急いで話を逸らす。
「今さっきです」
「今さっき……」
「それでお茶に誘ったのですが……」
不自然に切られた言葉に、ダンカンはじろりと男を睨む。
「お前、まさか断ったんじゃあるまいな?」
「当たり前だろう?」
ぴしゃりと額を叩く。
「当たり前だ!?なんと失礼な!!」
耳元で吼えられた男は、眉をひそめながら反論する。
「どこの誰かもわからぬ人物からの誘いなど、受けられるはずがないだろう」
「馬鹿言うな!花祭りの間は初対面だろうと敵同士だろうと馬の骨だろうとだ!誘いを受けるのが礼儀だろうが!ましてお前っ……!相手はヴァイゼだぞ!?大賢者のヴァイゼ=ライヤ!!それを断った!?何たる無礼!!何たる恥知らず!!」
男はうんざりと耳に手をあてた。
「そう叫ばずとも聞こえる。だがな、それこそ大賢者であろうと君主であろうと神であろうとだ、顔も名も知らぬ相手から突然お茶に誘われてみろ。戸惑うだろうが」
「お前が戸惑うような奴か!」
「もちろんだとも」
息を切らしたダンカンが何か言い返すより早く、老人がはたと手を打った。
「そうだったんですね。何か変だと思っていたんです。自己紹介がまだだったとは。あなたが私の通り名を知っているので、ついうっかり……失礼しました。――私はライヤといいます。ライヤ=ティー=フォン=ベルナディスです」
そう言って深々と頭を下げる。時期を逸したあいさつに、男は苦笑しつつも礼を返した。
「最近では、私の庵を訪ねてくれる人もめっきり減ってしまいまして。寂しさのあまり、あのような急な誘いをしてしまいました。すみませんでした」
「ヴァイゼが謝罪する必要などどこにあります?失敬なのはこの男です。――それとお言葉を返すようですがヴァイゼ。あなたは減ったとおっしゃいますがな、訪問したくとも入れんのですから仕方ないでしょうが。毎回、入り口を捜すだけで一苦労です」
ダンカンが不満顔で言えば、ライヤはここぞとばかりに頷いた。
「ですから、寂しいのですよ。この庭の動きは私の自由にはならないのですから」
「それにしてもですな……」
「大賢者の意思に関係なく、彷徨える庭が入る人間を選ぶというのは本当のことだったのか」
男の感心したような声に、ダンカンは我が事のように威張ってうなずいた。
「そうとも。入れん者はどうしても入れんらしい。俺も、何度かお連れしようとした方はいるんだが、いつの間にか俺一人になっておってな。俺だけがこの庭に入っているという寸法だ。しかも、俺もいつでも入れるわけではないのだ」
「面白い」
「どこが!?どうしてもヴァイゼにお会いしなければならないときに限って、何故か入れんのだぞ!」
地団太を踏むダンカンに、ライヤがそっと弁解する。
「私のせいではありませんよ?私も自由にできないのですから……」
「全く、そう信じたいものですな!――ともかく!この庭に入れたということは誇るべきことなのだ!」
さあ誇れ!と、押し付けがましいダンカンに、ライヤは苦笑する。
「そんな大層なものではありませんよ。ぼうっと歩いていれば、誰でも入れるはずなんです」
「それは確かにそうかもしれないな。俺もぼうっと歩いていたら、いつの間にか入っていたぞ?」
揶揄するような口調に、ダンカンはもう真っ赤だ。
この悪友にどう切り替えしてやろうかと睨んでいたが、ふと気が付いて眉根を寄せる。
「お前、具合でも悪いのか?真っ青だぞ?」
「どこも悪くないが……」
否定する男の顔を、まじまじと見やる。
やはり顔色が悪い。眼の下にははっきりとわかるほど隈ができている。それに頬は少しこけているし、全体的に疲れた様子である。
それは誰の目にも明らかで、気付いてしまうと、今まで気付かなかったことが不思議なほどだ。
ライヤも心配そうに覗き込む。
「本当に蒼白ですよ?」
「大丈夫だとも」
「いいや、大丈夫じゃない。大体その眼の下の隈……お前まさか……」
ダンカンははたと気付いてしまった。
じろりと男を睨む。
「また書庫に篭ったな?」
是も否もない、しれっとした様子で男は立っているが、ダンカンから微妙に視線を外している。
それではダンカンの言葉が正しいと言っているようなものだ。
「何日だ?今回は何日篭っていた?」
「書庫に何日も篭るんですか?」
不思議そうなライヤに、ダンカンはうんざりとうなずく。
「こいつはよく言えば博覧強記……まあ、ただの行き過ぎた書痴です。寝食を忘れる、とはよく使う例えですが、こいつは実際に栄養失調で倒れましたからな」
「……いつの話だ、いつの」
ぼそりと呟いてそっぽを向くが、どうにも力がない。
ダンカンは格好の攻撃の的を見つけて嬉々としている。
「それで、何日篭ってた?五日か?六日か?」
「……そんなに篭れるものなのですか?」
「黙っていたら、一生篭っているでしょうな」
感心したらいいのか呆れたらいいのか、難しいところだ。
「……三日だ」
嘆息しつつ答えると、ダンカンは意外そうな顔をした。
「三日?何だお前、それしかいなかったのか?」
「それしかって……ダンカン。それだけ篭れば十分でしょうに」
「こいつにとってみれば、驚異的に短い記録です」
常識的なライヤの言葉に重々しく首を振ってみせる。
「グローリアはかなり久しぶりだろう?よくそれで三日ですんだな。――……そういえば、そもそも何でお前がグローリアにいるんだ?森から絶対に出てこようとしないお前が」
根本的な質問である。
あちこちに飛ぶ話題に苦笑しながらも、男は比較的あっさりと答える。
「一応自重したのだ。花祭りの式典への参加命令が出ているからな」
「馬鹿言うな!花祭りは誰でも参加自由だぞ。命令なんぞ誰も出さ…ん………式典?」
ダンカンが不審そうな顔をすれば、大賢者も首を傾げた。
「花祭りではなく、二日後の式典への、ですか?」
「そう、式典への参加を命じる書が届いた。――しかも、女王直筆だ」
そう言って懐から瀟洒な封筒を取り出す。裏返されたそれには、赤い封蝋が押してあった。
印は交差する錫杖と秤。「天命にて公正な裁きを行う」ことを意味する、グローリア王家の紋だった。
「お、お前、何でそんなもの……」
後は言葉にならない。
ライヤも驚きに眼を見張っている。
「無視するのはさすがにまずいだろうと仕方なく来たのだが、やはり窮屈でいけないな」
「…………」
「だ、からといって、何でお前が式典に出るんだ?それは森長の務めだろう」
「そう。俺の務めだ」
ライヤが小首を傾げる。
「では、あなたがアリーツワの森の長なのですか?」
男はあっさりと首肯した。
今度こそ、ダンカンはあんぐりと口を開けた。一拍置いて、盛大に喚き立てる。
「お前が!?長!?いつのまに!驚いた!驚いたぞ!驚いたな!何でそんなことに!?」
本当に驚いたのだろう。驚きを三段活用で表現している。
いい加減にうるさいと思ったのか、それとも純粋に疑問に思ったのか、ライヤは喚いているダンカンを無視して男に尋ねる。
「ところで、森の方。私はまだ、あなたのお名前を知らないのですが」
何気ないライヤの言葉だったが、男は何故か憂いを顔に浮かべた。ダンカンも先程の勢いはどこに行ったのか、ぴたりと口を閉じて辺りを憚るように小さくなる。
これにはライヤのほうが驚いた。自分はただ名前を聞いただけなのだ。それなのに何故、楽しげだった空気がここまで暗くなるのか。
「あの、ですなヴァイゼ……」
「ダンカン、いいんだ」
ダンカンが何か言おうとしたのを制して、男がライヤに向き直る。
「俺のことは、アリーツワナと」
「ですがそれは、アリーツワの森長という意味でしょう?それはあなたの肩書きを示す呼び名であって、あなたを表す名ではありません」
男は答えなかった。ただ愁いに沈んだ瞳で、ライヤを見つめる。それだけで、ライヤの胸が何故か不安にざわついた。
しん、と空気が沈む。
わけがわからないまでも、ライヤは自分が決定的にまずいことを訊いてしまったのだと悟った。だがもう遅い。発された言葉は消えない。
男もまた、言葉を紡ごうとしている。
「ライヤ、あなたは大賢者だ。ヴァイゼの称号を戴く者は有史以来の物事に精通しているはず」
「ええ、まあ……。一般の人よりは」
「――……俺は、俺を表す名を、人に言うことはできない」
「言わないのではなく、言えないと?」
男はうなずく。
「俺は今、自分の名前を頭で思い描くことすらできない。俺の名を知っているはずのダンカンも恐らく、そうだろう」
ダンカンが苦々しい顔でそっぽを向く。
それを見る男の瞳は、どこか寂しそうで、そしてあきらめていた。
「己を表す名前を、封じられている者のことを、大賢者ならば知っているだろう?」
ライヤの顔色が変わった。
「…………忌み名を持つ者」