【閑話】 1
女王とその護衛のお話。第一部終了直後です。
エルゼは言い知れない何かに胸をざわめかせ、眼を覚ました。
部屋はまだ暗く、鳥の鳴き声もしない。が、この静けさは夜明け前の一瞬だろうと肌で感じる。衣擦れの音を微かにさせて夜具から抜け出すと、揃えておかれた室内履きを蹴飛ばして素足のまま窓辺による。窓からのぞけば、東の空が色を変えてきていることがわかった。
このまま外へ出てしまおうか。
いや、さすがにまだ暗すぎる。
空の色が一瞬一瞬を刻むように変わっていくのを眺めるのは大変に魅力的なことだったが、どうにも足元が暗すぎる。もう少しだけ明るくなるのを待つことにした。
空は星が輝きを弱らせ、朝の支度を始めている。今日はきっと素晴らしい朝焼けを堪能できるだろう。
そこまで考えたところでふと小首をかしげる。普段なら素敵な朝の始まりに心躍らせて良いはずなのに、何故こんなにも胸がざわつくのだろう。
予感。
ではない。
「……呼ばれて、いる?呼んで、いるの?」
小さく口に出してみれば、そのとおりだと確信した。
巨大な窓から離れ、ほとんど何も見えない暗闇の中、感覚だけで壁一面に設置された本棚まで移動する。綺麗に整頓された書の中から、手探りで一冊を探り出すと、本の上部分に指をかけ、背表紙が下にくるように倒す。そしてそのまま奥へ押しこめた。ゴト、と重い音がして開かれた本棚の細工を、慣れた様子で覗きこめば、灯りもないのに本が一冊置かれているのが見えた。その本は、うっすらと滲むように、仄かに、本は白く発光していた。
グローリアの歴代君主が受け継いできた、白の書である。
アリーツワの森長が保持することになった黒の書とは違い、その柔らかな光を見ていると何となく心が和らいでくる気がする。もちろん、それは女王の個人的主観であり、下手に心の弱い者が見ると一瞬で発狂するのだが。
だが、その恐ろしいはずの本が優しく感じられるのだ。まるで書に認められているように感じ、己の治世は正しく成されていると安心を覚える。
「……それが恐ろしいところなのだけれども、ね」
口の中だけで囁く。
「だってそうでしょう?白の書に認められている。大丈夫。わたくしは正しいことをしている――。そう胡坐をかいた瞬間、牙をむき、わたくしを喰い殺すのでしょう?」
それがわかっているからこそ、女王は自らを戒め続ける。
白の書は「徳」で抑える。
徳を積む。
なんとあやふやで不確かなものだろう。打算でなく、それでも強かに。清貧に、意地汚く。両極端な性質を求められる地位。正しくあらねばならないおのれに、どれだけ苦しくなろうとも――。
「それでも、わたくしは、正しく、等しく、あらねばならない。――そうでしょう?」
指先だけでそっと、表紙をなでる。
そして鋭く白の書の奥を見やる。仄かな光にぼんやりと浮かび上がるもう一冊。無理矢理押し付けられた大賢者の「青の書」だった。今は確かに活動を停止しているため、白の書と同じ場所に保管しているが、「目が覚め」れば勝手に彷徨える庭へと移動するのだろう。知識を「食べる」ために。
「四書は、どれもこれも、本当に悪食なのだから」
うんざりと呟いたとき、指先にカサリと触れるものがあった。
折りたたまれた長方形の紙のようだ。多少厚みがあるが……。
女王はそれをつまみ上げあると、たっぷり十秒は見つめていただろう。
やがて細工をいじって本棚の仕掛けを元通りの位置に戻すと、そのままふらりと庭に出て行ったのだった。
いつまでもお庭からお戻りにならない。どうかお迎えに行ってはくださらないか。
女官長からの相談に、ダンカンは首をかしげた。
朝の散歩は王女時代から続く習慣だ。時にはゆっくりしていたい時もあるだろうと思い、そう伝えもしたが、女官長は食い下がった。
「今朝はずいぶんお早いお目覚めのようでした。日の出前からお庭にお出になられたようなのです」
「それは確かにちと長いですな」
夏の盛りの時期だ。日差しはすでに力強く降り注ぎ、気温もぐんぐんと上がっている。太陽の位置を見るに、日の出から二時間以上経っているだろう。
「御姿は木陰の向こうに拝見できるのですが……」
女王の数少ない個人の時間を邪魔したくはないのだが、でも……。そう口ごもる。
聞けば、以前女官の一人が迎えに行き、大層機嫌を損ねてしまったのだという。その時から女王の朝の時間は邪魔してはいけない、という不文律ができたそうなのだが、そうはいってもそろそろ心配だ。何度かお声をかけようと近くまで行ってもみたが、とても声をかけられる雰囲気ではなかったらしい。せめて何か召し上がっていただければ……。
そうした葛藤に、ダンカンはうなずいた。
「相わかった。俺が行ってこよう」
ほっと安堵した女官長はダンカンに飲み物と軽食が入った籠を渡すと、どうぞよろしくお願いいたしますと頭を下げた。
女王の箱庭にはすぐそこである。いくらもいかずにたどり着いたが、そこでダンカンの足は止まってしまった。
女王は木の幹に背中を預け、足を伸ばして座っていた。真っ白の寝巻が風に柔らかく吹かれて、見えてはいけないところが見えそうになっている。薄く頼りない裾は風のせいで、ほっそりとした足首どころかふくらはぎの半ばまでめくれあがっている。そもそも素足のままなのだ。踝どころか薄桃色に色付いたつま先まではっきりしっかり見えてしまっている。普段ならば隠されていなければならない女性の、それも主人の足を見てしまい、ダンカンは軽いめまいを覚えた。
夏の日差しに眩しく輝く肌は、朝の清々しい空気の下にあるにもかかわらず何とも艶かしいものだった。結い上げず背中に流れる金色の髪も、今は閉じられている長い睫が影を作る顔も、細い首筋からなだらかに曲線を描く肩も続く豊かな胸元も、気だるげでどこか官能的だ。どうしたって清々しい朝に似つかわしいものではない。
ダンカンは、軽く頭痛がしてきた。
女官長は何がしたかったのだろう。俺を試したいのだろうか。俺は何か嫌われるようなことをしただろうか。
女王のこのような姿。男の俺が見ていいものではない。
それはもう、断じてよくない。
まずい。
まずすぎる。
女官が女王の朝の楽しみを邪魔するよりも、よほど問題である。
これは、とても俺の手に余る。
戻ろう。
心の中で断じて、男はくるりと踵を返した。
気配を消したままそっと来た道を戻り始めた。
が、天は彼を見放したらしい。
「……ダンカン?」
女王が閉じていた目を開いてしまったのだ。慌てた様子で立ち去ろうとする男を見止めてしまった。
「なあに?今朝は何も予定は入っていなかったと思ったのだけれど」
急な公務でも入ったのかと尋ねてくる。
不敬は重々承知で、背を向けたまま首を振る。
普段と違う武人の様子に、女王は小首を傾げた。その拍子に、男が持つ籠の存在に気が付いた。
「その籠は何?」
「陛下の朝食でございます」
「あら、ありがとう」
絞り出した言葉にあっさりとお礼の言葉がかえってくる。背中で主君からの謝意を受けるなど無礼もよいところなのだが、やはり顔を向けることは憚られる。当たり前だ。が、女王には何故ダンカンが背中を向けたままなのかわからないらしい。
「……ねえ、ダンカン。どうしてこちらを見ないの?」
「……」
「ダンカン?わたくしを見なさいな」
とうとう、男は深く嘆息した。それはそれは深いため息だった。
そして諦めたように向き直る。できるだけ女王の顔だけを見るように必死に視線を固定する。
「陛下……」
口からこぼれたのは、自分でも驚くほどの低い声。女王はぱちくりと瞬いた。
「どうしたの?」
「……。どうしたのではありません。それは私の言葉です。陛下。貴女は今、ご自分がどのような格好をなさっておいでか、おわかりですか?」
「寝巻だわね」
それが何?とさらに首をかしげる相手に、ダンカンは自分の堪忍袋の緒が切れたのを知った。というよりもその音を聞いた。
「このような、誰が通るとも知れないところで、何故そのように無防備なお姿をさらしていらっしゃるのかと、聞いておるのです!」
「だって暑いじゃない」
「何かあったらどうなさるおつもりか!」
女王の髪がなびいたのは、ダンカンの怒気のせいだろうか。
憤怒の相の男は、冗談ではなく恐ろしい。泣く子も黙れば、今ならグローリアの精鋭も裸足で逃がすに違いない。それにもかかわらず、対面するエルゼは何故かにっこりと笑みを浮かべる。
「あら、何もありようがないわ。だってあなたが守ってくれているのよ?」
「そういう問題ではありませぬ!!」
びりびりと空気がゆれた。
鳥が驚いて飛び立った。
木の葉がばらばらと降ってきた。
しかしエルゼはニコニコと笑みを深めた。
だからダンカンはがっくりと肩を落とした。
駄目だった。怒鳴ろうが喚こうが、目の前の人物にはひとかけらも響かない。
幸せがすべて逃げてしまうようなダンカンの溜息に、うふふふ、と笑い声が重なる。
たまらない、といった様相で、エルゼは笑っていた。
固まってしまっている自身の護衛を上目遣いに見やり、心底楽しそうに膝を立てて頬を寄せる。片手で地面を軽くたたく。
「いつまでそうしているの?座りなさいな。――わたくし、おなかが空いたわ」
ダンカンにはもう言葉もなかった。
あきらめの境地でのろのろと腰を下ろすと、言われるがままに籠から中のものを取り出す。
「あら、あなたの分もあるのね。素敵だわ」
籠を覗いて楽しそうに女王が手を打つ。もちろん一緒に食べるのよね?と押し切られ、ダンカンは何故か一緒に朝食を取ることになってしまった。
もちろん、ダンカンに味など何もわからなかった。
お読みいただきありがとうございます。まだ続きます。
今日は4年に一度の2月29日なので、思わず投稿してしまいました。




