【終】 2(完)
真っ赤になって固まったままの少年は、いつのまにかリアンの隣に座らされていた。リアンから渡された茶器をぎくしゃくと受け取る。その時にふわりと漂ってきた良い香りに、隼人は頭がくらくらしてきた。慌てて手に持ったものを一気に飲み干し、なんとか意識をそらそうとする。
もちろん、少女には少年の心の機微など知りようもない。挙動不審な隼人の様子をきょとんとして見ていたのだが、そういえば、と切り出した。
「どうして隼人さんは式典の前にいなくなってしまったの?陛下は招待状をお兄様に送られたのだし、そのまま陛下のところで待っていたらもっと早くお兄様に会えたのではなくて?」
確かにエルゼは忌み人に招待状を認めようと少年に言っていた。だがそれを待てない事情が少年にはあった。
「そうなんだけどさ、エルゼ、たまにだけど、オレのことすげえ怖え眼で見てきたんだ。すっげえ寒気したから……だから逃げた」
「間違いなく名を封印しようと考えていたのだろうな」
「なに考えてたのかなんて知らないけど。――……それに、じっとしてんのもすごいしんどかったんだ。黒い本持つようになってから、体動かしてないと気持ち悪くて死にそうになるし、その本は夜も昼も関係なく壊せ壊せって言ってくるし」
そう言いながらぼんやりと卓上の黒の書を見やる。主が定まったからか、先だってまでの禍々しさは消えていたが、隣にある赤の書に比べると、やはり重苦しい印象を受ける。
「だからオレ、夜は全然眠れなかったんだ。それなのにあそこ、嫌な目でオレを見る人ばっかりでさ……昼も休まらなくて」
「まあ…………」
隼人のおかれた環境はリアンには信じられないほど過酷なものだった。思わず涙ぐむ少女に、隼人の方がわてわてと慌ててしまう。
そんな二人の様子が微笑ましかったのか、男は珍しく眦を下げて笑っている。
「できるならエルゼを嫌ってやるな。あれも重荷に耐えながら一人立ち続けているのだ。書を抑え続けることが容易ではないことは、お前が一番知っているだろう?」
少年はこくんとうなずく。
「エルゼのことは嫌いじゃないよ、べつに。ただ、たまに怖かっただけ」
「そうか……お前は強いな」
褒められて嬉しそうに笑う。
「兄者ほどじゃないけどな!」
「なんだ?その兄者とは」
「え?良いだろ?オレより強くて恰好良くてさ。オレのこと助けてくれたんだもん。もう、これはオレの兄者だろ!?」
「まあ、隼人さん。お兄様の弟になるの?じゃあ、私はあなたのお姉さん?」
おっとりと割り込んできたリアンに隼人はぎょっとする。大急ぎで拒絶する。
「え!?違う!」
「あら、どうして?だって、お兄様は私のお兄様で、私はお兄様の妹で、隼人さんは弟になるのでしょう?私の方が隼人さんより年上だから、あなたは私の弟になるのではなくて?」
「違う!リアンはリアンのままなの!!」
顔を真っ赤にして隼人が叫ぶが、少年のほのかな恋心などリアンにはわかりようがない。小首を傾げている。
男はくつくつと笑いながら助け舟を出した。
「どちらでもいいが、少年、何か聞きたいことがあってここに来たのではないか?」
「あっ、そ、そうそう。その黒い本を手放してからもオレの力強いままなんだけど、どうしてだろ。前よりずっと簡単に風を操れるんだ」
ほら、と立ち上がり、そのままふわりと浮きあがる。
隼人の周囲に風が集まり、身体を押し上げているようだ。
「前はこんなふうに浮くことなんかできなかったのに。ちょっと風を操れるだけだったんだぜ?」
もともと潜在的に眠っていた素質なのだろう、と男は顎に手を置く。
「始めこそ、黒の書が無理矢理引き出した力だったかもしれないが、繰り返し使うことで身体に風の気が馴染んだのではないかな」
「そうなのかな」
「例え初めは引きずられて使っていたにせよ、己の本質をゆがめなかったということだろう」
「ゆがめる?」
「黒の書が命じるままに暴れなかった、ということさ。お前の性根が腐らなかったから、黒の書が与える力に溺れなかったから、風はお前を見放さなかったのだな」
男はそこで莞爾となる。
「武人として、素晴らしい素質だ。風の気をここまで操れる者はダンカンの配下にもそれほどいないだろう。驕らず励めば、さらに伸びるだろう」
「本当か!?オレ、兄者のことも倒せるようになるか!?」
それには声を立てて笑う。
「ならばその時は、お前がこの本を正式に譲り受ける時だな」
「え?」
心底いやそうな顔になった隼人に、男はさらに笑みを深くする。
「そう嫌がるな。俺は今、黒の書の保持者として何の問題もないが、書自体はどうも、隼人を次の主として見ている節がある。伸びしろの大きさを買われてのものだろう。よかったな」
「オレ、それ全然嬉しくない……」
「心配しなくても、当分は俺が持っていようから、深く考える必要はない。時期が来れば自然に分かることもあるだろう。――それよりも、だ。隼人、黒の書に見いだされる前はどこにいた?家族や仲間と一緒だったのだろう?」
うなずく隼人。
この少年は、周囲からたっぷりと愛情を受けて育ってきたとはっきりわかる、まっすぐな気質をしている。
「隼人という名前には、南方遊牧民族の響きがあるが」
「南の方なのは確かだけど、遊牧じゃなくて狩猟。それに定住しないでかなりの距離を移動するから、みんながどこにいるかは知らない」
「そうか。落ち着いたら親元のところまで送って行こう。家族にも会いたいだろう?」
そう問いかけた男に、隼人はきっぱりと首を横に振った。
「オレ、黒い本に見いだされた?時?一族から追い出されて死んだことになってるから。その時に両親とも縁切ったし。もう戻れないんだ」
あっけらかんと言い放つ。が、そんなに軽く言っていい内容ではなかった。
リアンは真っ青になるし、男もさすがに笑みを消す。
が、当の本人はあっけらかんとしたものだ。
「掟なんだ。一族の。――……悪魔の誘惑が降ってきたら、子供に抱かせて谷底に落とせ。さもなければ、一族全てが狂い死ぬまで殺し合わなければならない」
「どういうことだ?」
一気に険しくなった男の雰囲気に、隼人は困ったように肩をすくめる。
「黒の書のことをさ、オレの一族は黒い本とか悪魔の誘惑とか呼んでるんだ。その本、何回もオレの一族のとこに降ってきてるんだ。そのたびに黒い本に魅入られた人同士で殺し合いになったり、次々と狂っていったり……。でも、いつの頃からか、誰かが気付いたんだ。……成人前の子供が持った時は、すぐには気が触れないし、力も強くないから取り押さえられるって」
隼人は何の感情もこもらない瞳で黒の書を見る。何人も喰い殺してきたはずなのに、禍々しさはまったく感じられない。それが逆に気味悪いと思った。
「黒い本が現れたら、大人は触ってはいけない。黒い本に魅入られてしまうから。大切な人を殺してしまうから。狂い死んでしまうから。あれは悪魔の誘惑。魅入られれば、狂い死ぬ。決して魅入られてはならない。手にしてはならない。…………悪魔にはさ、生贄がつきものだろ?」
「生贄?」
「うん。黒い本が現れたら、族長の子供に黒い本を持たせて、谷底に突き落とすんだ」
「なんてこと……っ」
リアンが顔を覆ってしまう。妹の肩を抱きしめながら、男が視線だけで先を促す。
「オレ、ずっとただの昔話だと思ってたんだ。子供だましもいいとこだって。だって、「悪いことすると黒い本に喰われるぞ。黒い本と一緒に谷底に落とすぞ」って説教するときによく言われてたからさ。……そりゃ、ちっちゃいときは怖かったけどさ。――……本当の話だなんて全然思わなかった。でも…………父者が泣きながら謝るんだ。母者が半狂乱で叫んでて…………」
――すまない。力の足りぬ父を怨め。許すことはない。お前に悪魔を押し付け、のうのうと生きるこの父を怨んでいい。祟っていい。すまない。すまない……。
「オレ、自分よりちっちゃい子たちじゃなくてよかったって思ったんだ。だから、大丈夫だって言ったんだ。オレ、族長の息子だからさ、みんなのことを考えるのが仕事だろ?」
「…………」
「――……でもオレ、昔話の子供みたいには死ななかった。風が守ってくれなかったら死んでたと思う。でも死ななかったから、狂う前に次の人を探せれば生き残れるって思ったんだ」
「…………」
「だから、ありがとう。オレ、兄者のおかげでまだ生きていける」
リアンが感極まったように少年を抱きしめる。はらはらと泣き始めてしまった。
真っ赤になってじたばたもがく少年に男も近づくと、頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
「隼人。お前の生はお前が掴んだものだ。よく、頑張ったな」
隼人は驚いたように男を見つめ、すぐに唇を噛んで下を向く。
嗚咽をかみ殺そうとするが上手くいかず、リアンにしがみ付くようにしながらしゃがみこんでいく。
「アリーツワの森はお前を歓迎するだろう。天界を追われた者や外界から迷い出てしまった者たちが最後にたどり着く場所がここだ。どこにも属せない者たちの安寧の地だ。誰もお前を厭わぬ。森の風と戯れ、遊び、健やかに育て」
顔をぐしゃぐしゃにしながら隼人は一生懸命うなずく。
二人分の泣き声が、しばらくの間室内に響いていた。
男は自身が守るアリーツワの森に、爽やかな風が鮮やかに吹き抜けていくのを、たしかに感じた。
第一部完結とさせていただきます。ここまでお付き合いくださり、最後までお読みいただきありがとうございました!!
一部完結に合わせてタイトルと章立ての仕方、あらすじ、およびレイアウトを変更します。
内容に変更はありません。
詳細は活動報告にも記載しますが、しばらくお休みをいただいて、第二部を投稿していきたいと思います。




