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アリーツワの森  作者: momo
忌み人の名と四冊の禁書
31/37

【6】 忌み人の名 6


 黒い竜巻だった風の塊は、いまや繭のように形を変化させ、少年を囲い込んでいた。規模としては小さくなったが、内部の圧力は増しているだろう。男が試しに手を近づけてみると、腕が飛ばされる勢いで弾かれてしまう。

 後ろから押し殺した悲鳴が上がる。

 が、男は薄く笑みを刷いたままだ。

「――隼人」

 深い憂いを含めて彼の名を唱えてみる。

 何の反応も返ってこない。風にさえぎられ、内部まで声が届かないのだ。

 だが男は特に気にした様子はない。

「やはり届かぬか」

 そううそぶくと、ひたりと風の中心を見据える。

「だが、黒の書、お前には届くだろう?――……なあ、力の書?」

 声に笑いが含まれていたように感じたのは、決して気のせいではないのだろう。そして何の気負いもないまま、いっそ愉しげに書の名を紡ぎ出す。

「――『ドゥンケルブーフ』」

 ただ見ているだけしかできない三人は、一様に同じ仕草をした。即ち一瞬にして総毛立った肌をさすったのだ。自分が口にしたわけでもないのに、恐ろしいほどの圧迫感だった。黒の書の名を耳にしただけでおぞましさを感じる。それなのに、その力ある名を口にした男はあっさりしたものだ。全くの自然体で立っている。

 そしてもう一度その名を唱え、命じる。

「ドゥンケルブーフ、ここに来い。お前の主は、この俺だ」

 瞬きほどの間をおいて、黒い繭がゆらめいた。と思う間もなく、それは弾丸のような速さで男に襲いかかった。

 激しい風の飛礫をまともに受ける形になったにもかかわらず、男の顔から笑みが消えることはない。

「抗うか。おもしろいが、――ぬるい」

 一音一音が鋭い刃となって風の飛礫を切り刻む。

 はらはらと木の葉のように風が落ちる。

 見つめる先は黒い繭のまま、男は眼に力を込めた。

「――……来い」

 瞬間、ゆらめきが止まった。

 否。

 その空間自体が時を止めたようだ。

 呼吸が許されないほど空気が張り詰める。男と黒い塊の空間がキリキリと引き絞られる。

「もう一度だけ告げよう、ドゥンケルブーフ。お前の主は、この俺、アシュリだ。駄々をこねずに俺のもとに来い」

 そしてはじけた。



 嵐が、男を中心にして荒れ狂う。

 今まで溜めに溜めた隼人の力を開放しているのだろう。少年の立つところから風がうねりを上げて巻き上がる。轟々とした黒い風の流れが男に向かってなだれ込む。

 ライヤにはまるで、黒い龍があぎとを開いて男をのみ込もうとしているように見えた。本能的な恐れが腑の底から滲み出す。知らず慄くその身を両手でかき抱くが、震えを止めることはできなかった。

 女王は、己が身が震えていることにすら気づかず、魅入られたように立っていた。否、立っていることが不思議なほどの自失ぶりだが、そんなことに構う余裕もなさそうだ。

 一人、最初の衝撃から何とか抜け出したダンカンは、いまだ衝撃の中にいる二人を庇うように男と二人の間に立つ。男の背中を睨みつけながら、万が一の場合はその身を盾にしてでも女王を守る覚悟で腰を落とした。


 当の男はといえば――。

 ただ立っていた。

 立って、なだれ込んでくる濁流をただ静かに受け止めている。


 どれだけの時間続いたのか。ほんの数秒だった気もするし、数十分だった気もする。ふと、隼人の周辺の風が弱まった。龍の尻尾がかき消されていくように、風の渦が消え、そして少年の周りを囲む黒い膜が消えていく。

 ダンカンがまずそれに気付いた。

 ほぼ同時に男が声を上げる。

「隼人を!」

 ダンカンはその巨躯に見合わぬ素早さで近づくと、立ったまま意識を手放している少年を担ぎ上げ、急ぎ引き返す。

 女王が鋭く問う。

「本は!?」

「見当たりませぬ!」

「あそこです!」

 黒の書は、上空に舞い上がっていた。短くなった龍の尾の部分に連なって、禍々しく煌めきながら浮いている。

 隼人から黒の書が離れたことを確かめ、まずは安堵する女王。少年の様子を確認しはじめる。

 目立った外傷はないが、顔色がひどく悪い。呼吸も乱れているし、大分浅い。

「典薬寮に連れて行ったほうが良いのではなくて?」

 自分にできることがほとんどないと理解した女王は己の護衛にたずねる。だがダンカンは首を横に振った。

「外傷はなくとも下手に動かすのは危険です。それならば典薬寮から連れてきたほうが……」

「いや、単に消耗しているだけだ。寝せておけばそのうち気が付く。動かしても問題はない」

 話に混ざってきた男に、三人は驚いて肩を震わす。女王もダンカンも大声で話していたわけではない。風が吹き荒れる中にある男に聞こえるはずのない会話だった。それなのにさも当然のように会話に参加してきたのだ。加えるならば、男に向かって風が吹いているにもかかわらず女王たちに男の声が届くのも普通ではないのだが、男はそうしたことには知らぬふりだ。さらりと告げる。

「黒の書が隼人を切り離した今が良い機会だ。ここから離れろ」

 だが、女王は首を横に振る。簡単にうなずけない事情が女王にはあった。

「あなたの名を開放した者として、天界を担う者として、わたくしには事の顛末を見届ける義務があります」

「あれが、周りに配慮しながら暴れてくれると思うのか?――俺も背後を気にしながら戦えるほどの力の制御はできていない」

「それで万が一にもあなたが取り込まれてしまったら……?」

「それならなおさら女王がここにいる意味はないだろう」

 にやりと意地悪く笑う男を、女王はきつく睨み付けた。だがすぐに言い返せないのは、男の言葉が事実だと、誰よりも理解しているからだ。

 確かに今のエルゼでは男の名を封印できないことは、試すまでもなくわかることだった。男が暴走してしまったところで、女王には何もできることはないのだ。

 そうしたことを理性では理解できているものの、感情が追い付かない。さらに何か言い募ろうとしたとこで、ダンカンが止めに入る。

「陛下、これ以上は御身の安全を保障できません。私もここにとどまることは承服しかねます。どうぞお戻りを」

 忠実で有能な護衛に諫言されても承服しかねる様子の女王に、男は仕方なく譲歩する。

「……せめて俺の声が聞こえないところまで離れろ」

「それなら、ひとまず私の庵に。扉さえ閉めてしまえば、外の音を遮断できます」

 それに見た目はボロボロですけどかなり頑丈なのですよと告げる大賢者に男はそれならば、と賛同する。

 二人の間で話がまとまった瞬間、ダンカンは女王が口を開く暇すら与えぬ勢いで迅速に動き出した。

 すなわちライヤに少年を押し付けると、自身は女王の膝をすくい上げ、横抱きに抱き上げたのだ。

 流石に悲鳴を上げた女王に「お叱りは後でいくらでも」と一言告げて黙らせる。

「ヴァイゼ、動けますか?」

「はい。――御武運を」

 いかに骨と皮だけに見える大賢者でも、少年一人を抱えることは造作のないことだったようだ。

 男に向かって短く告げると、ダンカンとともに慌ただしく庵に駆け込んでいく。

 粗末な庵の扉が閉められると、男でさえも彼らの気配を察することができなくなった。

「興味深いな。空間がずれているのか?――……まあ、それは後でゆっくり聞くことにしようか」


 さて、と宙に浮く漆黒の書物に意識を向ける。

 男の周りは相変わらず暴風が吹き荒れている。上空に浮かぶ禍々しく光る書に向けて、力の籠った声を発した。

「やっとお前に集中できるな。――……心配せずともすぐに抑えることはしない。お互い、久しぶりに解放されたのだ。楽しまなければ、なあ?」

 周囲への影響を考える必要も、力を抑える必要も、今はない。

「力を振るいたいのはお前だけではない。――存分に暴れればいい。いくらでも相手をしよう」

 先ほどの比ではない数の風の刃が襲い掛かる。

 それを避けるでもなく目の前で消してみせると、獰猛に笑った。

「借り物の力は十分見た。俺は、お前自身の力が見たいと、言っているのだ」

 一拍の空白。

 男を漆黒の闇が呑みこむ。

 呑み込まれた男は、堪らず声を上げて笑う。笑いながら闇を薙ぎ払う。薙ぎ払われた闇は形を変えて男の四肢を捕えようと纏いつく。蛇のように纏わりついてくる闇を、からめ取るように一つにまとめて放り投げる。

 黒の書は力の質を変え動きを変えて、息つく暇もなく攻撃を仕掛け続ける。

 男はまた、次々と変化していく攻撃に瞬時に対応し返していく。

 一瞬たりと休まずに襲い掛かってくる黒の書と、まるで舞うように動きながら攻撃を返し続ける男。

 永遠に続くのではないかと思うほどの攻防の末、動きに乱れが出たのは黒の書だった。

 絶え間なく繰り出してきた攻撃が突然途切れたのだ。それだけではなく、ずっと男の周りを覆っていた霧のような深い闇も掻き消えていく。

 それでも油断なく男が構えていると、目前にふわりと黒の書が降りてきた。

 散々男に攻撃を返されていたにもかかわらず、書物の表面には傷一つないようだった。

 まるで新品のように光沢を持ったまま、しかしながら長い年を経た書物だけが持ちえる重厚な雰囲気を醸し出している。雰囲気といえば、先ほどまでの禍々しさはほとんどなくなっていた。ただ、普通の書物にはあり得ない力の波動を感じるだけだ。

 それでも構えを解かない男の足元に、黒の書がぽとりと落ちる。

「……満足したか」

 しばらく眺めていた男だったが、嘆息しながらおもむろに書を拾い上げる。


 名を取り戻した男が、黒の書の保持者となった瞬間だった。






ここまでお読みいただきありがとうございます。


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