【5】 花祭りの式典 5
突風にライヤは思わず眼を閉じる。
開いたときには、眼の前に少年が立っていた。
隼人だ。
相変わらず小さく、がりがりの体つきだ。三か月以上王宮で生活していたにもかかわらず、痩せて骨と皮だけに見える。
服はさすがに仕立ての良いものを着ているので浮浪者に見えることはもうないが、洗いざらしの髪はあちこちはねていて、ライヤがはじめて会ったときとあまり身長も変わっていないようだった。
小さな手が、大切そうに黒い表装の本を持っていることも、変わらない。
ただ、今は禍々しい雰囲気を纏っていた。
少年の茶色の瞳は、恐らく何も映してはいない。
ライヤが気遣わしげに問う。
「……彼は、大丈夫でしょうか?」
「どうかな。俺も最善を尽くすが……」
男は知らず舌打ちする。
「意識がないな」
「それでは……!」
「ああ、考えた以上に危ない賭けになった――……どうする?ここで見学しているか?それとも逃げるか?」
「逃げます」
即答したライヤを、男は笑いもせずにうなずく。
「賢明な判断だ」
「私も、私に軍配が上がるよう、できる限りのことをしてみます」
そこの含まれた意味を、どう理解したのか男が微笑する。
「できれば、俺だけで決着をつけたいところだが……承知した。時間を稼ごう」
「――どうぞご無事で」
去っていく大賢者の後姿を視界の端に捉えながら、男は顎をさする。
「――……さて、ここなら関係のない者たちを巻き込む心配も、邪魔される心配もないが……」
確かにここは彷徨える庭。大賢者が招き入れなければ誰も入ってくることはできない(ここに例外が二人もいるが)。
「大賢者殿の手腕次第だな」
意味深に呟いて、男は少年に向かって走り出した。
燕のように上体を低く落として、飛ぶように走る。次の瞬間には隼人に肉薄していた。
まだ隼人は動かない。
黒の書を抱えたまま、茫洋と突っ立っている。
それならば、と試しに黒の書に手を伸ばす。
見えない手に振り払われたように男の右手が吹っ飛んだ。
そのままだったら肩を脱臼するか、筋を痛めただろう。
男は自分の身体も一緒に飛ぶことによって衝撃を吸収する。
その勢いを反動にしてもう一度少年に向かう。隼人の細い足を狙った足払いは、何か硬いものに拒まれて跳ね返る。さらに勢いを増して蹴りを繰り出す。首を狙った鋭い蹴りも、続けて放たれた突きも、見えない何かにあたって隼人本人にはかすりもしない。
「……かなり厳しいな」
十分に間合いを取り、すたりと綺麗に着地する。
この三度の挑戦でわかったことは、ただ闇雲に向かって行っても隼人に指一本触れられないことということだけだ。
風が隼人を取り囲んで、盾になっているのだろう。どうしても弾き飛ばされる。
どうにも攻略するのが厳しい。
男は隼人の名を呼んでみた。だが返事がない。
「隼人、返事もできないのか?」
「…………」
「本当に黒の書に乗っ取られたのか?お前はそれしかない奴なのか?」
「…………」
何も映していない茶色の瞳が、かすかに揺れた。
隼人を取り巻く空気の膜が、いくらか霞み、弱くなった。
と思うとすぐに戻る。
安定しない様子に、隼人の精神はいまだ戦っていることが見て取れる。
そこに男は一縷の望みを繋ごうとする。
「隼人!俺ともう一度手合わせをしたくないか?本気でやりあいたくはないか!?」
答えるかのように隼人がうめく。
男は反応があったことに内心喜んだが、警戒を怠らずにさらに檄を飛ばす。
「黒の書などに構っている暇があるのか?その間に、俺にしてやられるぞ?」
「――……よ、く、言うよ……オレにかすりもしないくせに」
苦しそうに呟かれた言葉に、今度こそほっとする。
どうやら黒の書に意識を奪われたのは、一時のものだったらしい。
意識をはっきりさせるように頭を振ると、隼人は強い意志を感じさせる茶色の瞳を男にぴたりと合わせてきた。
「本当に、オレとやる気?――怪我、治ってないんじゃないの?」
「さあ、どうかな」
にやりと笑う男に、不信の目を向ける。だが男は笑みを深くするだけで、何の説明もしなかった。
ただ、少年の名前を呼ぶ。
「隼人」
ただ単に名前を呼ばれただけなのに、隼人は自分の体が急に重くなった気がした。ざわりと、嫌な空気が背中を這う。転じれば、男の眼はまだ隼人を映していた。深い憂いを浮かべて。
それに激しい拒否感といいようのない息苦しさを覚えて、隼人は無意識にその「眼」に向かって攻撃を仕掛ける。
男はそれを軽くかわしながら、もう一度少年の名前を呼ぶ。
「隼人」
「止めろ……!」
男は一瞬たりと視線を外さず隼人を見続ける。
そして彼は、すぐに耐えられなくなった。
「オレを、見るなっ!!」
叫んだ瞬間、風が爆発した。




