【4】 忌み人の思惑 5
しばらくして、男が新しい茶器をもって戻ってきた。
血の気を失ったまま俯いている女王に、飲み物を勧める。震える手で茶器を取り上げた女王は、決して優雅とは言えない仕草で一気に中身をあおった。男が黙って二杯目を注いで渡すと、芳醇な香りと温かさにやっと気づいたようだ。顔色も少し戻ってきている。
すがるような目つきで男を見上げてきた。
「今更、考えても仕方のないこと、よね」
「建設的ではないな」
「そうね……。いいわ。後悔も反省も、後でいくらでもできるのですし。今すべきことを考えましょう。とりあえず、どうやってあの馬鹿を痛めつけてやろうかしら」
「陛下……・今考えるべきことはそれではありません」
女王のあまりの言葉に思わずダンカンが呻く。
「だって、あまりにも酷過ぎるでしょう!?」
叫んでひとつ、大きなため息を吐く。切り替えるように頭を振った。
「わかったわ。話を先に進めましょう。でも当分、あの馬鹿については話したくないわ…………。貴方の怪我、どうしたのか教えて」
無理矢理転換した話題に男は眉を上げた。一拍置いて、薄く笑みを刷く。
「ライヤと話をしていたら、隼人が突然乱入してきて有無を言わさず攻撃してきた」
「え?隼人が?」
「ああ。なかなか見事な奇襲だったぞ」
笑みを浮かべたままの男と違い、エルゼは眼に見えて青くなる。
「ちょ、ちょっと待って!つまり隼人を大賢者が匿っていたということ?」
「いや、それはないだろう。ライヤも泡を食って逃げていたからな」
男は否定したが、その内容にダンカンが反応する。
「……ヴァイゼはご無事なんだろうな?」
「もちろんだとも。かすり傷ひとつ負っていない」
「そうか、ならばいい」
ダンカンはそれだけ確認できれば満足だというようにまた壁にもたれたが、あいにく女王陛下には全く良くない内容だった。
「大賢者が招いたのでもないのに、どうやってあの子は彷徨える庭に入ったというの?」
大賢者の招きを受けない者は、かの庭に入れない。それが女王の知る常識だった。
実は例外が目の前にいるのだが、エルゼはそんなことは知らない。男が彷徨える庭に入れたのも、大賢者が招いたからだと無意識のうちに思い込んでいる。
男はエルゼが誤解していることに気付いていたが、わざわざそのことに触れようとはしなかった。
むしろ思ってもいないことを口にする。
「さあ、何故かな?黒の書の力でも働いたのではないか?」
「それは、どういう……」
エルゼがいぶかしむ。
男は真顔でうなずいて、そして憂いに揺れる声で言った。
「隼人はもう、黒の書に心を捕まれていた……」
エルゼが声にならない悲鳴を上げる。
「それはつまり、禁書に振り回されているということ?」
「ああ、そのとおりだ。――……ただ、ここから先は俺の推測だが……、姿を消したばかりのころは書に捕らえられてはいなかったはずだと思う」
「何故そう言えて?」
「俺が書庫にいた間に、ここに来たらしくてな。俺の助けがほしかったのだろうが、悪いことをした」
リアンから聞いたやり取りをそのまま伝える。
そして「オレがこれからどうすれば良いのかもわかるんだろうか」という隼人の言葉を聞いたエルゼが、ついと口を尖らせた。
「どうしてわたくしに相談してくれなかったの?どうしてわたくしに黙っていなくなったりするのよ」
「お前、本当にわからないのか?」
「わからないわ。あなたはわかるというの?」
苛立って言い放つと、男はむしろ哀れむような視線を向けてきた。
「女王から逃げなければいけなかったからだ」
「まあ、何故?」
男が皮肉な表情を作る。
「どうせ、お前が心のどこかで隼人の名を封じたがっているのを察したのだろうよ」
ぐっと詰まるが反論しないところを見ると、図星のようだ。
「どちらにせよ、昨夕は間違いなく自我を無くしていた。そうでなければ問答無用で襲いかかっては来ないだろう?」
エルゼが椅子に崩れ落ちる。
この世の不幸を全て背負い込んだかのような姿で思い悩む。
やがてぽつんと呟いた。
「大賢者は、もしかしたらもう、どこぞに消えてしまったかもしれないのね……」
「いや、間違いなく式典に出てくる」
確信に満ちた言葉に、エルゼのみならず壁にもたれたダンカンまでもが首を傾げる。
「何故言い切れて?」
「旅に出たいと手紙にあったろう?大賢者である間は青の書を保持しなければならないからな。たとえ眠っているとはいえ、禁書を持ち歩いたまま王都から出るわけには行かない。大賢者の称号を返しに来るだろうよ」
「なるほど、律儀な方だ。確かにきっちり挨拶しそうだな」
ダンカンは一人納得したが、エルゼはさらに椅子に沈み込んだ。
「そんなこと、できるわけないわ……」
そこには覇気の欠片もなかった。
それに、もうひとつ気がかりなことがあるのだ。その問題は大賢者が失踪するかもしれないことよりも、いっそう危機的だ。
「隼人は、今どうしているのかしら?」
「さあな。だが、あれならまた俺のところに来る」
きっぱりと言い切る。
「だからどうしてそう言い切れるの?」
「確かに俺は不意をつかれて傷を負ったが、一矢報いなかったわけではない。つまり決着がついていないのだ。あの子どもは負けん気が強そうだからな。今日か明日か、それはわからぬが必ずまた来るさ」
「本当に……?だって、あの子の自我はもう、黒の書に飲まれてしまったのではなくて?」
なお疑わしそうなエルゼにうなずいてみせる。
「ならば尚のこと、俺のところに来る。黒の書はそもそも「力」で抑えるものだからな。強い力を持つ者に自然惹かれる。今の保持者を己に取りこんでしまったのであれば、なおさら、な」
「そう……でも、もちろんあなたなら抑えられるわよね?」
男は面白そうに肘を付く。
即答しないせいでエルゼの心に不安を呼び込んでいるのに、なお追い討ちをかけてきた。
「どうも黒の書は保持者の力を増大させるようだな」
「どういうこと?」
「――……俺の手にも余るかも知れぬ、ということさ」
「あなたが、負けると?」
「そこまでは言っていない。息の根を止めるだけなら簡単なんだが……」
エルゼが顔色を変える。
男はそれに安心させるように笑って、「もちろん殺す気はない」と請け負う。
「ただ、取り逃がさずに、しかもできるだけ周囲と彼への損害を少なくするとなると、今の俺ではかなり厳しい」
そう条件をつけることも忘れない。
「そんな……」
震える唇を覆ったエルゼを、男は憂えに沈んだ瞳で見つめる。
「だが、もちろん、できるだけ努力はしようが、……どうなるかわからぬな」
「……では、やっぱり、あの子の名前を封じなくちゃ……」
「だが、そうすれば黒の書を抑えられる者もいなくなるぞ?」
「でも!そのまま暴走させておけるものでもないわ」
先日、庭でのやり取りの時のように、また激しく否定されるかと女王は思ったのだが、男が感情を荒げることはなかった。むしろ苦々しい顔ではあったが、首肯さえしてみせた。
「まあ、本当にどうにもならないのなら、それしかないだろうな」
「貴方、意味をわかって言っているの?隼人の名前を封じるのよ?」
だからそれには女王も眼を見張った。
あれだけ嫌がっていたのに……。
そう言うエルゼに、男は皮肉な笑みを浮かべた。
「だが、それも恐らくは無理だろうよ。捕まえることすらできないはずだ。あいつは風の性質を持っているだろう?どこぞに逃げられて終わりだ。――……だから」
男は真摯な様子で、意を決したように、告げる。
「だから、できないだろうか?」
「何のこと?」
急に変わった声の質に、気付く余裕もなく。
「グローリア女王は、アリーツワの森長の封じられた名を、解放してくれはしないか?」
「…………」
「俺が本来の力を使えば、例え黒の書であっても、暴走している隼人ごと抑えることが可能だ。それだけではない。黒の書を保持することもできるだろう」
一瞬、それはとても良い考えのように思えた。だが、背筋を走った悪寒に、急いで首を振った。
「いいえ、駄目よ!無理です」
「……どうしても?」
「……駄目、……駄目よ」
口ではそう言っているが、あと一押しすればわからないように見えた。かなり揺らいでいる。
だが、男はこれ以上食い下がらなかった。
さっさとうなずいて、話題を先に進める。
「まあいいさ。今あるものだけで何とかしてみよう。――ダンカン」
「……何だ?」
急に呼ばれて顔を上げる。ここまでの話をどれだけ理解しているのか、睨むような挑むような眼の色で男を見やってきた。
「エルゼの周りをしっかり守れよ。本当に危険だ」
「言われるまでもない」
近衛府の長官は獰猛に笑った。
「俺は俺の役目を果たすだけだが、ヴァイゼは大丈夫だろうか。あの人はいつも誰もそばに置かんから」
瞳には物騒な光がちらついている。
返答如何によっては首を絞められそうな剣呑さだが、男は笑って請け負った。
「隼人の目当てはあくまでも俺でライヤではない。それにいくらこの場にいない人物を心配してもどうにもならぬだろう?」
「お前の保障は当てにならん」
そう言いながらも、安心した様子でダンカンはエルゼを促した。
何とも不安で、不気味な雰囲気が室内に立ち込めていたが、それを吹き払うかのようにダンカンは大声で暇乞いを告げた。
男は軽く手を上げてそれに答え、そこで三人の会話は終了したのだった。
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明日も8時に投稿予定です。




