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アリーツワの森  作者: momo
忌み人の名と四冊の禁書
16/37

【4】 忌み人の思惑 2

 

 暖かい空気に包まれている。耳に心地よい音がする。

 食欲をそそるいい匂いが、男の鼻腔を刺激してくる。


 リアンが食事の用意をしているのだろう。

 そう思い、眼を開けようとするが開かない。

 瞼の筋肉が麻痺しているのか、まだ眠り足りないのか、重たい帳をこじ開けるのは容易ではなかった。

 それでも何とか眼を開く。


 やはりリアンが食事の支度をしていた。

 そこで男は訝しく思う。

 何故寝ながらに厨の様子が見えるのだろうか。


 ぼうっとしながら身体を起こす。途端襲ってきた激しい目眩と疲労感に、思わず倒れ込む。

 瞬間的に固い床を覚悟したが、柔らかな何かに落ちた。

 まだぼうっとした頭で不思議に思い、あたりを見まわすと、男の周りにはいくつもクッションと毛布があった。このクッションが自分を支えてくれたらしい。

 だが、こんなものの中で寝た覚えのない。内心首を傾げていると、リアンが声をかけてきた。


「眼を覚まされまして?」


「……眼が回る」


「当たり前ですわ。ここ数日、ろくなものを食べていらっしゃらないのに、さらにあんなに血を流して」


「そうだったかな……」


「そうなんです」


 あきれ果てた調子だ。


「三日間書庫にお篭りだったこともお忘れですの?やっと戻ってらしたと思ったらまたどこぞへ出かけていって、それで血だらけで帰ってこられては、わたくし、泣いてしまいそうだったわ」


「…………すまなかった。怖い思いをさせて」


 やっと意識がはっきりする。動く元気すらなくてこの厨の隅で寝てしまったことも思い出した。

 リアンにかけてしまった迷惑の大きさに心から謝罪する。


 妹はもう何も言わなかった。投げ出されるように差し出された男の手にただ近づく。気だるい仕草ながら、男はリアンの髪に触れ、そっと頭をなで、額に唇を近づける。そしてもう一度囁かれた謝罪の言葉に、泣きそうになってしまった。

 幾度か瞬いて涙を押しやると、小さな笑みを浮かべる。


「もう少しお待ちになってね。滋養のあるものを作っていますから」

 男の背と壁の間にクッションを積み重ねて、居心地良く身を預けられるようにし、膝に毛布をかける。一度立ち上がって厨房へ取って返し、湯飲みを差し出してきた。こげ茶色の液体が湯気を立てている。きつい匂いが鼻につんと刺さった。


「……これは?」


「おばあ様直伝の薬湯ですわ。血を作る力を高めます。少しずつ飲んで下さいね。――大丈夫、味は匂いほどそんなにひどくありませんから」


 男は言われるがまま、恐る恐る少し口に含む。

 さまざまな薬草が入っているのだろう。甘いような苦いような味が広がる。だが後味は悪くない。飲む前は突き刺さるようだった匂いも、飲んでみればすっと爽やかな香りが鼻から抜ける。身体が水分を欲していたのだろう。胃に染み渡るような薬湯にほっと息をつく。


「俺は、どのくらい寝ていた?」


 薬湯を飲み干してから尋ねる。リアンは食事の支度をしたまま、軽く答えた。


「半日以上寝ていらしたわ。お兄様がお休みになられたのは昨日の夕方。今は次の日の朝よ」


「――……そうか」


 予想はしていたが、それにしても長く寝ていたものだ。


 そう自嘲すると、妹はちょっと怖い顔をして振り返った。

「少なくとも今日一日はお休みなさって。どれだけ血を流されたかわかっていらっしゃって?傷は塞がっていても、身体の調子は万端には程遠いのですから」


「だが、時間が……」


「式典はあさってですもの。それまでの御用は明日で全て終らせればよいのです。絶対に今日はお休みなさっていただきますからね」


「だが……」


 それでもなお諦め切れない男に、リアンは徹底的に据わった眼を向ける。


「絶対に駄目です!」


 自覚があるのかどうなのか、リアンが手にしている包丁がいい具合に光っている。

 この場は引き下がるしかなかった。





 食事を終えた男は、居間の長椅子に身体を預けながら、艱難な表情を浮かべていた。

 思考の海に深く身を沈めているのだろう。近づいてきたリアンにも全く気付かない様子だ。

 事実、躊躇いがちに声をかけても反応がない。


 三度呼んでようやく顔を上げた。


「お客様です。お通ししてもよろしくて?」


 その言葉に男は真顔になり、リアンが不思議に思うほどの真剣さで問うてきた。


「誰が来た?」


「それが、その……」


 妹は煮え切らない様子で、なかなか客の名を口にしない。

 仕方なく、とりあえず通すように伝える。

 

 リアンがうなずいて扉の向こうに消えてすぐに、どすどすと腹に響く足音が聞こえてきた。

 扉を蹴破る勢いで居間に上がりこんできた客の姿に、男は思わず眼を見張る。


「お前が来るとは予想だにしなかったぞ、ダンカン」


 いかつい顔の武人は、全身を黒っぽい服で包んでいた。大賢者の庭のときの軍服ではない。お忍びを意識して、人目につかない服装にしたのだろう。ただし腰にはしっかりと大剣を差している。

 それがあっては目立っていけないのではないかという疑問は、武人の誇りを置いて来れるか!と叫ぶ姿が容易に想像できたので黙っていた。


 ダンカンは仏張面で男を見下ろすと低く唸る。


「何をやらかした?」


 男はしかし、まっすぐ答えを返すことはしなかった。


「誰を寄越すかと思っていたが、まさかダンカンとはな」


「違う。俺はただの取次ぎ役だ」


「取次ぎ……?」


 怪訝そうな表情は、ダンカンに促されて扉の影から現れた人物を見て、あきれ果てたものに変わった。

 リアンが客の名前を口にしたがらなかった理由が、わかってしまったからだ。


「止めるのがお前の仕事だろう、近衛大将」


「諫言申し上げてお一人で来られるよりましだ」


「閉じ込めておけ……」


「それができるならば、とっくにやっておる」


 苦々しげに言い放ったダンカンに男は言い返す。


「そんなことはないだろう。お前のところの屈強な近衛兵を二、三見張りに当てればだな……」


「色仕掛けにかかって全員骨抜きだ」


「そんなに男遊びが激しいのか?」



「ちょっと、ちょっと二人とも、あんまりな言い草じゃない?」



 二人の漫才のような掛け合いを、鼻に抜ける甘い声がさえぎる。

 抗議をしてきたのは、グローリアの女王、エリザベト=グロリエその人だった。





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