【4】 忌み人の思惑 1
今回、多少血なまぐさい表現があります。ご注意ください。また、傷やその時の身体の状態などについては、「この作品はフィクションです」の一言でお許しくださるようお願いいたします。
少女はそのほっそりとした指で、風にさらわれそうなほど細い糸を持ち上げ、無心に指先を動かしている。
膝の上には編み上げられた極細レースが、蝶々の羽のように広がっている。
滑らかな指の動きそのものが芸術のようだ。細やかで複雑に動き、わずかなつまずきもない。いっそ合理的ですらある。
リアンの瞳は自分と同色のレース糸しか見ていない。蜘蛛の巣のように細いそれを、両の手と一本の棒だけで複雑に絡ませ、見事な模様を形作っていく。
素晴らしいできばえ、その一言に尽きた。
細い指が流れるように動く様は、誰もが感心して見惚れることだろう。
一部の狂いもなく動き続けていた指が、ぴくりとぶれた。
一拍置いて、はたと止まってしまう。
そして不審そうに顔を上げる。
裏口のほうで物音がした気がした。
「お兄様かしら?」
窓の外を見れば、すでに空が朱に染まり始めていた。
男が家を飛び出してから半日以上経過している。また書庫に行ったのでなければ、戻ってきてもおかしくない時間だった。
リアンは編みかけのレースをそっと卓上に置き、部屋を出た。
廊下を歩きながら、もやもやとしたしこりを感じていた。それは物音を聞いたときから胸の中にできて、理由もなくリアンを不安にさせる。
名をつけるとするならば、「焦燥」というよりほかないことに気づいて、リアンは思わず走り出した。
階段を一気に駆け下り、そのままの勢いで厨の戸を開ける。
西向きの窓のない厨は薄暗かった。
生理的嫌悪感をもたらす生臭いにおいが、鼻に刺さる。
だがそのことに疑問を感じる前に、リアンの眼にぐったりと壁に背を預けてうずくまる男の姿が飛び込んできた。
「お兄様!?」
悲鳴のように相手を呼んで、リアンは硬直した。
男は緩慢な動きで凍りついた妹を見、笑いかけようとして失敗する。微かにうめき声が上がった。
それでリアンの呪縛が解けた。
急いで兄のそばに膝をつく。
恐る恐る額に触れると、びっしょりと汗に濡れている。驚いて離してしまったその手を、男の手が追ってきて捕まえた。
「お兄様、一体どうなさって…………え?」
男に触れられた手にぬるりとした感触があった。いぶかしんで男の手を見る。
赤く不吉に染まっていた。
リアンの顔から今度こそ血の気が引いた。
ぎくしゃくと兄の姿に眼をやる。
黒服を身に着けているのでわかりにくいが、全身が濡れているようだった。
いや、間違いなく濡れている。ズボンの太ももの部分はどす黒く、上着の胴の部分はもっと鮮やかに。
何より、腹部を押さえた男の左手が、鮮血に染まっている。
(……鮮血!?)
自分で思ったことに愕然とする。
男の腹部からは血が止まらずに流れ続けているのだ。
何故部屋に入ったときに気づかなかったのか。室内に充満しているにおいが血だということに。何故思い至らなかったのか。誰がその血を流しているのかということに。
だが、それも無理のないことだ。リアンはいかにも深窓の令嬢然とした十四、五の少女なのだから。かたかたと震えだしてしまっても当然のことだし、悲鳴を上げないだけ立派というものだ。もしかしたら悲鳴を上げることすらできないでいるのかもしれないが。
しかし今の男は、茫然自失の体の妹をそのままにしておく余裕はなかった。掴んだままになっていた手を乱暴に引き、体勢を崩させることでリアンの耳を自らの口元に持ってくる。
さすがに荒い息遣いの中から、声を絞り出した。
「リアン……少しで、いいから、耐えてくれ……」
いかにも辛い様子にはっとする。
「……あ、…………ご、めんなさい」
自分を失くしている暇などないのだ。
「すぐにお医者様を!」
立ち上がろうとしたのだが、男が手を離さない。
「……お兄様?」
男はかすかに首を振るのみだ。
その間にも血は流れ続け、男の周りをじっとりと染めていく。激しい焦燥に駆られて無理やり兄の手を振りほどこうかとして、あることに気付いた。
「お兄様まさか……。駄目よ!ここは森ではないのに!」
「……式典に出るには、医者の……治療では、間に合わない……」
切れ切れの言葉に、リアンはいよいよ色を失くす。
「無理よ……」
「そんなことはない……。リアン、頼む……」
ひたと視線をあわせる。
小さな子どものように、リアンは首を小さく振る。男の真摯な瞳を避けるように視線があらぬほうをさまよっている。激しく悩んでいることが誰の目にも明らかだ。
だが、状況はリアンを待ってはくれない。
男の顔色はすでに蒼白を通り越している。
今から医者を呼んでも、手の施しようはないのではないか。
そう思ってしまうほど、男の出血は多く、時間が経っていた。
失血の多さに身体が震えはじめている。もはや予断は許されなかった。
「……リ、アン」
それでも男は途切れそうな意識を何とか手繰り寄せ、妹の名を呼ぶ。
「わかりました」
ここに来てやっとリアンは開き直った。綺麗に刺繍されたハンカチで額の汗をぬぐってやる。
「もう少しだけお待ちになってね」
そうささやくと、手早く上着をはだけて傷を露出させる。
右の肋骨から左腹部にかけて、長い傷があった。だが傷口は綺麗で、鋭利な刃物で切りつけられたような印象を受ける。
加えて、あまり深い傷でもなかった。内臓までは届いていないようだ。
ただ出血がひどい。
もちろん、リアンには冷静に傷口を観察する余裕などない。確認できたのは傷の存在のみで、あとは急いでその傷口を上着で隠してしまう。
たったそれだけのことにひどく疲れてしまった。
何度も深呼吸をして、兄を見る。
失血によるショック症状が出ていた。震えの走る身体で、薄く呼吸を繰り返している。
時間がなかった。
「お兄様、聞こえますか?」
問われてうっすらと眼を開ける。
眼が霞むのだろう、何度か瞬いてから、リアンの顔に視線を合わせた。
「我慢なさってね」
それが聞こえたのかどうか。男はまた眼を閉じてしまった。
リアンは構わずに男の正面に少しだけ距離を開けて跪く。
布越しに傷に手を当て、深く眼を閉じた。
意識を集中する。
「――……アリーツワの森に湧き出る冷たい清水。森の命をはぐくむ清らかな泉」
リアンはアリーツワの森の泉の水を思い浮かべた。清らかな清水が溢れ出し、しゃらしゃらと音を立ててリアンに満ち満ちる。
「春は命の芽吹き。清水は溢れ、命をはぐくむ。死の眠りを押し流し、生への目覚めを呼び覚ます。穢れを祓う」
両手から男の傷口に向かって、その清水が流れるイメージを作る。
「流れ出でる泉の清水。芽吹きを助け、穢れを祓う。命をはぐくみ、眠りを覚ます。死を祓う」
囁かれる言葉は力を持っていた。
リアンの口から発せられ、男の耳を通って体内へ入っていく。
そしてリアンの身体に溢れている泉の水は、彼女の手から傷を通り、男の全身へ受け渡される。冷たい力ある水が、音を立てて、全身を駆け抜けていく。
「――……っ……!…………!!」
男に、今まで以上の激痛が駆け巡った。
男は歯を食いしばり必死に悲鳴を堪えるも、身体が跳ね上がることを止めることはできない。
リアンは、両手を男から離さずにいることに必死だった。
やがて、清水の最後の一滴が男の中へと送り込まれた。
指先から冷たい水が流れていったことを頭でなく理解して、ぱたりと手が落ちる。
呼吸が荒い。汗が急激に噴き出す。それでいて、全身が冷えている。
冷たい水の中を泳ぎ続けたときのような寒さと疲労に朦朧としながらも、リアンは男の方にいざり寄った。 男はぐったりとしている。弛緩した身体は、壊れた人形のようだ。
驚異的なことに、それでもなお、男は意識を保っていた。うっすらと眼を開いて妹を見る。
「――痛みは消えまして……?」
痛みがないはずはないのに、そんなことを聞く。
男はもちろん、微かに首を振った。
当たり前だ。あれだけの傷が痛くないはずはない。だが男は痛いとは言わなかった。
「……感覚が、……麻痺して…………」
やっとそれだけ声に出す。
「……疲れた。――……少し休む」
男は何とかそれだけ言うと、崩れ落ちるように横になってしまっていた。
「こんなところで……」
リアンの抗議を男は最後まで聞くことができなかった。
まだ辛い呼吸を繰り返しながら、それでもあっという間に深い穴に落ちていった。
「お兄様ったら……。上着を外して血を拭かないと……」
呟いて、上着に手をかける。大量に血を吸って不吉に重くなったそれを、なんとか脇に押しのける。
男の腹部はどす黒い赤と鮮血にまがまがしく汚れていたが、新たな血は流れ出ているどころか滲んでくる気配もない。
水に浸した清潔な布で清める。
男の身体のどこにも傷は見当たらなかった。
色白の綺麗な皮膚にうっすらとした線が一本、わずかに見えるのみだった。
ファンタジーの本領発揮です!魔法!!
サブタイトルが決まりません……。誰だ、各章にタイトル付けようって思ったのは……。
追記:サブタイトル確定してみました。




