【3】 忌み人と禁書 4
長い話を語り終えたライヤは、疲れたように、だがどこか満足して椅子に沈み込んだ。
「四書はどれも生きています。生きているからには何か糧を得なければならないわけで、……青の書の場合、それは人間の知識です。書に耐久のある人物、つまり大賢者から与えられる知識を糧にします。本来なら数十年かけて知識を吸収していくものなのですが、目覚めたばかりで空腹だったのでしょうね……」
廃人のようになった大賢者の最有力候補を引きずって、ライヤはどうにか彷徨える庭から抜け出した。
どうにか助けようと、他の賢者に見せ、医者に診せ、最終的に女王にもすがったが、もはやどうにもならなかった。
「先の女王陛下はハンスを一目見て「この者は病死した」と、そうおっしゃいましたよ。……まだ、生きていたのに。……娘の婚約者なのに」
「カタリーナらしい冷徹さだ」
ずっと黙っていた男が吐き捨てるように言う。ライヤはだが、哀しそうに笑った。
「あそこまで公と私を切り離せるのは、いっそ見事です。仮にも娘の婚約者を、泣き崩れる娘を前にしてあれほどすっぱりと切ってしまえるとは……もちろん、そのときはそのようには思えませんでしたが」
そしてカタリーナは唯一の目撃者であるライヤにヴァイゼの称号を与えた。
ライヤの抵抗は完璧に無視された。
彼の意思とは無関係に、大賢者ヴァイゼ=ライヤは人々に知られるようになり、それと同時に賢者ハンスの名前は人々から忘れ去られていった。
「確かに私もまた、この庭に自由に出入りすることができました。でもそれはハンスと一緒だったからであって、私の力ではない。――……私はヴァイゼなどではない!」
「……だが、あなたが今、あの本を保管しているのだろう?それならば……」
「いいえ!違います。違うんです!」
激しくライヤは頭をふる。
そのあまりの激昂ぶりに男が言葉を止めると、消え入るような声で呟いた。
「あの書は今、眠りについています。ハンスの知識量に満足したのか、活動を停止しているんです……」
「それでは……」
「そう、あの書を抑えるという意味でのみ考えたとして、今、大賢者は世界に必要ないんです」
滑り落ちた言葉は、音を立てずに床で砕けた。
「――……私はヴァイゼと呼ばれることがとても辛い。それよりもハンスが人々から忘れられることが辛いんです。彼の代わりに私が大賢者などと呼ばれるとは……」
ライヤは傍目にも青白い顔をしている。
「だから式典には出ないし、本を出すこともしないのか」
「大賢者として私の名が出ることをできるだけ避けたいんです。私は大賢者ではないのですから。私はただ花を愛でながらお茶を飲んで、それで朽ちていければ、それだけで……」
「無駄な生き方だな」
枯れ果てた意見に、男はとうとう鼻を鳴らした。
「いつまでたわけたことを言うつもりだ?」
「……は?」
「俺はカタリーナを嫌悪しているし軽蔑してもいるが、お前の処置には賛成だ。大体、先読みの能力を持っているくせに、何故そこまで視野を狭くできる?お前が賢者ハンスを尊敬していることは良くわかったが、だからといって、何故判断能力までなくす?もっと単純に考えてみろ。――四書が主と認めぬ者をどうするのかくらい、その腑抜けた頭でもわかるだろう」
あまりな傍若無人さに声も出ない大賢者に、男はさらに容赦なく言葉を浴びせかける。
「賢者ハンスはもともと大賢者になる器を持ち合わせていなかったから、青の書に呑まれた。それだけのことだ。何故こんな簡単なことがわからない」
「そ、そんなことはありえません。彼以外、大賢者になりえる人物はいないんです」
震える声で反論するが、男は歯牙にもかけなかった。
「いい加減認めろ。――まがりなりにも八年もの間大賢者としてこの庭に受け入れられている人物が、一度もこのことに思い至らなかったはずがない。認めてしまえ」
「で、ですが……それでは……」
「そして悔やめば良かったのだ。自分がもっとしっかりハンスを止めていれば、彼より先にあの書に触れていれば、と」
「…………!」
「自分の身可愛さに、自虐的にすらなれぬのならば、ハンスに申し訳が立たぬなどとぬかすな。「自由に生きろ」「自分のように縛られるな」とそこまでの言祝ぎを与えられていながら、何という体たらくだ」
ライヤに反論の隙すら与えない、流れるような論述だ。
「大体、大賢者の有力候補と言われるほど先読みの力に優れた者ならば、自分がその器にないことくらい容易に見抜いていたはずだ。その上であの書に触れたハンスの心情を慮ってやれ」
この言葉は極めつけだった。
ライヤは紙よりも白い顔で男を見ていたが、力なくうなだれる。
何も言えなくなってしまった大賢者を見やって、男は幾度目かもわからなくなったため息を吐く。
「全く、大賢者でこれなのだ。ライヤ主観の話を聞いたエルゼがどう思っているのか、わかったものではないな。――……ともすると、今回の騒動も、これが絡んでいるのか……?」
最後の呟きは誰に聞かせるものでもなく。
うんざりと空を仰いで、冷め切ってしまった茶器の中身を一気に飲み干し、立ち上がる。
「お前に相談をもちかけようかとも思ったが、止めた。望みどおり、花を愛でて朽ち果てればいい」
魂をどこかへ飛ばしてしまっているライヤを見やって言う。そのまま背を向け立ち去ろうとした。
「……女王陛下は、隼人が暴走することもそうですが、それよりもハンスのように禁書にかかって死んでしまう者が出ることをひどく恐れているのです」
だから不意打ちを食らって数秒間反応できなかった。
ややあって苦笑する。
「今のは反則だ。……今回の黒色の書をめぐる一件、やはり気付いていたのだな?」
「私も四書のことには敏感なんです。それ以外はどうでも良いので、世事には疎いですけど」
弱々しい笑顔の相手に尋ねる。
「それで?この話は誰からどこまで聞いている?」
「オレから、全部だよ」
男の背後で、軽やかな少年の声がした。
耳に声が届くその前に、男は椅子を蹴飛ばして飛び退り、声の主から距離をとっていた。
気配を察知したと気付く間もなかった。
頭で考えるより先に身体が反応していた。
「やるなあ」
感嘆の声を上げるのは、まだ年端もいかない少年だ。
男が座っていた椅子のすぐそばに立っている。
それなのに全く気配を感じなかった。
そのことに驚く。が、少年が持っている物を認識して薄く笑った。
「お前が隼人か」
「あんたが名前を封じられたアリーツワの森長。――やっと会えた」
そう少年は安堵の息を吐いた。
今までの快活さは影を潜め、傍目にも疲れ果てた様子だ。
目的の人物に出会えたことで、今まで無理をしていた分がすべて出てきてしまったのだろうか。
「……お願いだ。助けて…………」
涙のにじみそうな声を、何とか絞り出す。
少年は今や、いつ倒れてもおかしくない状況にあった。
「もう、限界なんだ。オレ、この本にいつ飲み込まれてもおかしくない」
黒の書を重そうに掲げる。
「これは純粋な疑問なのだが、そのあたりに投げ捨てることはできなかったのか?」
隼人は力なく頭を振る。
「沼に捨てたのに、次の日には枕元にあった」
「……なるほど」
「そこらの何も知らない人にやったときも、やっぱり戻ってきた。だからと言って火をつけることなんて怖くてできないし」
「しなくて正解だ。下手をするとあたりじゅう火の海だ」
つまり試せることは試したということだ。
「だからお願い……。もう、あんたが最後なんだ……」
「…………」
「隼人君は実は女王陛下よりも前に私のところに来ていまして、私も見せてもらったんですが、どうしても、手に取ることすらできませんでした」
ライヤがそう付け加える。
「四書を持つ者をまわったということか」
男はひとつ、大きく息を吐く。
「少年、お前はひとつ思い違いをしている」
「……え?」
「四書のどれかを保持している者は、耐性ができるから自身の書以外の四書にも触れるくらいならできるだろう。それくらいで気が触れることはないだろうが、それだけだ」
「どういうこと?」
「よほどのことが無い限り、二冊以上の適合者になることはあり得ない、ということだ」
あまりにもきっぱりと言い切られて、少年は色を無くした。
今にも倒れそうな様子の隼人に、男は語調を幾分和らげる。
「もちろん、絶対にあり得ぬわけではない。だが、二冊以上の書を持つようになったら、その人物は間違いなく早死にするだろうな。精神をすり減らして」
「じゃ、じゃあ……」
ぱたりと、隼人は地面に座り込んでしまった。
男の言葉に打ちのめされてぐったりとしていながら、それも黒の書から手を離さない。いや、離せない。それが辛そうだった。
今にも絶望に呑み込まれ、禁書の餌食になりそうな風体の少年を、男が立たせる。
男は柔らかな微笑を浮かべていた。
「勘違いするなよ?今までのものは一般論であって、俺がそうだと言っているわけではない」
「じゃあ!」
先ほどまでの暗い顔はどこへやったのか、ぱっと輝く。
だが男はあっさりと首を振る。
「かといって、早とちりもするな。できないわけではないが、今は無理だ」
「……どういうこと?」
「名の封印、ですか……」
ライヤの呟きに男が嘆息する。
「そう、今の俺は生来持つ力の半分も使えていない。今の俺には森長の赤の書は保持できても、黒の書を抑えることはできない。ましてその両方を持つことなど……」
「やっぱり、無理なのか」
少年がまたへたり込む。
「なんだよ、期待もたせるようなこと言うなよな!ちくしょう!――こんなもの、あるのがいけないんだ!」
叫んで本を地面に叩きつけようと振りかぶる。
だが、本の重みに耐えかねたかのように、腕は力をなくし、落ちた。
「オレ、もう疲れた……もうやだ」
ライヤには、言える言葉は何もなかった。この少年を前にしては、どんな慰めごとも通用しない。
「なあ、少年。……賭けを、しないか」
だから、男が思いもかけないことを言い出したことが、反対に当たり前に思えてしまった。
「上手く行けば、隼人は黒の書を手放すことができ、俺は名を取り戻せる」
「……失敗すれば?」
ライヤの言葉に、男は瞳を暗く光らせた。
「全員あの世行きだ」




