【3】 忌み人と禁書 3
その日、ライヤはひどく浮かれていた。親友の結婚式を明日に控えて、珍しく酒をすごしてしまった。すでに夜明けが迫る時間帯で、空は少しずつ青色を加えてきている。
そのとき隣にはハンスがいて、二人は歩きながら話をしていた。
「……四書という禁書がある。開闢以来ずっと、人知れず抑えられてきた大変力の強い四冊の禁書を総称して四書って言うんだ」
「……そんなこと聞いたこともないです」
突然の言葉に呆然と首を振ると、ハンスは当たり前だよと返した。
「禁書の研究もしている元老院でさえ知ることを許されない、国家の最高機密、禁書中の禁書だもの」
「…………」
「それがすごい禁書でね、四書のそれぞれの名を呼ぶだけで、精神の弱い者ならそのままあの世行きらしいよ。洒落にならない」
あはは、と笑いながら、まるでちょっとした世間話をする口調のまま、国家の最高機密を話し続ける。
「だから書物の名前は普通口に出せない。でも、呼び名がないのは何かと不便だから、表装の色で区別するそうだよ。「白の書」、「黒の書」、「青の書」で、「赤の書」ってね。全く捻りが利いてない」
「ちょっ、ちょっと待ってください。どうしてそんなことまでハンスが知っているんですか?」
泡を食った友人に、ハンスはさらっと返す。
「さっき、女王から聞いてきたから」
「女王……」
唖然と立ち止まったライヤを無視してハンスは話し続ける。。
「そんな怖いもの、さっさと封印するなり燃やしてしまうなりしてしまえば良いのに、四書の力が強すぎてできないらしい。仕方がないから常に見張って抑えておくしかないんだけど、それぞれの書の適合者が、自らの精神で抑えなければいけない」
「…………」
「大変なんだよ。ただむやみに抑えるわけじゃなくて、ある一定の精神力で抑える必要があるんだ」
「……それは?」
「白の書は「徳」、黒の書は「力」、青の書は「智」、赤の書は「和」でそれぞれ抑えるんだって。でもさ、徳を積むとか、普通は大変だよね?だから、地位まできちんと用意されている。黒の書は別だけど、白の書はグローリアの女王。赤の書はアリーツワの森長。青の書は大賢者」
「ま、待ってください!だ、だ、大賢者って……」
「そうだよ。大賢者が青の書の適合者……違うな、青の書の適合者が、大賢者になる」
そんなとんでもないことを言われてもそう簡単に反応できるはずがない。ライヤは泡を食ったようになって、声も出ない様子だ。
「白の書も赤の書もそうらしい。四書を抑えられる適合者だけが、その位に就く。言い換えれば、抑えられなくなったら、女王なら退位して、後継者に譲るんだ。どんなに良い施政を敷いていたとしてもね」
「で、でも、大賢者はもう、百五十年も空位のままで……それでは抑えていることにならないのでは?」
もっともな疑問だった。ハンスはぐいと身を乗り出してきた。
「そこだよ。青の書は他の書と違って、活動に波があるらしい。穏やかな間は、見張っている必要はないんだって。僕にもよくわからないけれど、活発に活動し始めたときに、賢者の中から適合者を選ぶらしい」
「じゃあ、今が活動期だと?」
「そういうことになるね。だから女王は白の書を見張ると同時に、青の書の眠りも見守っている。それで今回活動がはじまったから、大賢者を任命することにした、と」
軽く言われた内容に、ライヤはひどく顔をしかめた。
「止めてください。その言い方じゃまるで」
「まるで僕の才能なんかどうでもいいみたいだよね」
ハンスは笑顔のままだ。だが、ライヤはさらに渋い顔をする。
「まあ、何でもいいけど」
「良くありません!ハンスは誰よりも深い教養を持っているし、誰よりも真実を見定める力に優れている。だから大賢者になるんです!」
「うん、それは否定しない」
いけしゃあしゃあと言われて、ライヤが一瞬絶句する。
「でも青の書が活動を始めなければ、僕たちの代に大賢者が出ることは絶対にありえなかったんだ」
酔いは、どこかに吹っ飛んでしまったな。
ハンスのその呟きに、ライヤは何言っているんです!と怒る。
「……そもそも、何故そんな重要な話を私に教えるんですか?大賢者になるハンスしか、知ってはいけないはずのことだ」
ハンスは、何故かとても穏やかな笑みを浮かべた。
それがとても透明で、ライヤは何も言えなくなる。
いつの間にか二人は彷徨える庭に来ていた。小さなあばら屋の前出立ちどまる。
ハンスは我が家のような気軽さで扉を押し、中へと入る。
ほとんど何もない室内だ。
埃臭い部屋の片隅に小さな円卓がひとつ置かれているだけである。
だが、その日はもうひとつ、今までなかったものが存在していた。
それは円卓の上に置いてある一冊の本。
頼りない明かりの中でも、表装の布が鮮やかな青色をしていることは見て取れた。
立派な書物だ。ずっしりと重量のありそうな本は見るからに高価そうで、今にも崩れそうなあばら屋には不釣合いである。
それに気付いたライヤが、まじまじと円卓の上を見る。
「あんなもの、この前来たときはありませんでしたよね?」
ハンスは軽く首肯して、すたすたと円卓ヘ向かう。
ライヤが慌てて追いかけると、軽い口調で問いかけてきた。
「あの本のこと、どう思う?」
「どうって、……なんだか禍々しい感じが。あまり触りたくないような……まさか……」
言葉が切れる。
とても嫌な予感がした。だからどうしても続きを口にできなかった。もう、卓上の本の正体を確信しているのに、それを口に出すのが怖い。
何故か、ふいに、ライヤは思う。
――……それはハンス、君が触ってはいけないものです。
何故そんなことを思うのか。
――……それは、君では扱えない。
その言葉が口について出そうになったとき、あっけらかんとしたハンスの声が響いた。
「そう、あれが四書のひとつ、通称「青の書」だよ」
親友の言葉に強い衝撃を受け、ライヤは立ち止まる。
円卓まで二、三歩しかないのに、ライヤにはその距離が果てしなく遠く感じた。
はっきりと本の姿を見ることができることが余計に、そう思わせた。
「もっとぼろぼろで汚いものかと思ってたけど、新書みたいに綺麗だ。鮮やかな青だね。日の光の下で見てみたかったな」
ハンスのその言葉はどこか不自然だった。
ぼんやりと思う。
……あと数時間しないうちに太陽は上るのに。
「何か力が込められているんだろうね」
「そうなんでしょうね」
はっとして相づちを打つ。ハンスの明るい声に、その違和感は掻き消されてしまった。
しばらくの間、二人は小さな光の中でも鮮やかに眼に染む、青色の本を見ていた。
やがて口を開いたのは、やはりハンスだった。
「――……女王から四書のことを聞いたとき、適合者は生贄みたいだなって思った。名誉は与えられるけど」
「その名誉ってつまり、禁書を抑えつけておくための体のいい鎖じゃないですか」
「うん、僕もそう思う。まあ、僕はそれでもいいんだけど」
「よくありません」
ライヤは自分ひとりだけが憤慨していることに、さらに苛立ちを覚える。
「いいんだよ僕は生贄でも」
「駄目です!そんなの。それなら大賢者になんかならなければいい」
ああ、きっと自分は泣きそうな顔でハンスを見ているのだろう。恥ずかしいが、どうにも止まらなかった。
そんな眼を向けられて、やっぱり気まずいはずなのに、ハンスはいとおしむように見つめ返してくる。
「でも、僕はもう、決めてしまったから」
「変更すればいい」
「そんなことしたら、ここでは生きられないよ」
「それなら逃げればいいんです!」
駄々っ子みたいな言い分に、ハンスは思わず吹き出す。
「それでエルゼ姫の手を取って、愛の逃避行?」
「裸足で駆け出すのですか?君が?」
当時若い女の子の間で流行っていた恋愛劇の一幕を引用して、ライヤも笑う。それはいい、とひとしきり二人で笑いあう。
「でも、僕には無理だよ。エルゼも。彼女ももう縛られている」
「そんな後悔しているような言い方は止めてください。明日は、ハンスにとって一番幸せな日でしょう?」
「そ、うだね……」
苦しそうに、うなずく。
ひそめられた眉根の意味が、ライヤにはわからない。
いや、わかりたくないだけか。
「――……だから、……だから君は君の思うように生きなよ」
囁くような言葉に込められた意味は、一体どれだけのものだったのだろう。そのときのライヤには、突然の言葉にいぶかしむことしかできない。
「何を言うんですか突然」
「僕には無理だったけれど、ライヤ、君は本当に思うように生きなよ」
とうとうライヤはうなずいた。
「わかりました」
「約束だよ?これを、君へのはなむけの言葉にしようかな」
「……餞別は普通、送り出す側が贈るものですよ?」
ライヤの突っ込みは無視された。
「ね、約束してよ。大賢者とか女王とか、そんなものに縛られないで、君は生きて」
なおも食い下がる。ライヤは嘆息しつつも約束しますと、もう一度うなずく。
ハンスは本当にほっとしたようにため息をついた。
「よかった……。そうだ、ひとつお願いがあったんだ」
「何でしょう?」
「エルゼに、ぼくの代わりに謝っておいてくれないかな」
ライヤは苦笑する。
「また喧嘩したんですか?」
「うん、……そんな感じ。いいかな」
「自分で謝ればいいのに」
「ライヤが謝って……。――本当にごめん。でも、悲しまないで。泣かないで、いつも笑っていて、って……」
親友の態度がどうにもおかしい。
そろそろ気付かない振りをするのも限界だった。
「ハンス?」
だがもはやハンスは答えずに、円卓に向かって歩き出した。
彼がやろうとしていることの意図を理解して、ライヤは声を上げた。
「ハンス!いけない!君はそれに触っては……!」
叫ぶと同時にハンスに向かって手を伸ばす。だがそれは空しく宙を掻く。ハンスは一瞬早く卓上の書を掴むと、叫ぶように書の名前を読み上げ、腹に抱えてうずくまる。
耳をつんざく絶叫が室内にこだました。
それでも書を手放そうとはしない。
しっかり抱え込んだまま、呼吸もままならないハンスを、ライヤは何とか抱きかかえた。
無理やり顔を上げさせると、蒼白を通り越して土気色になってしまっている。
「ハンス!ハンス!!それを放すんだ!」
聞こえないのか、ハンスは決して青の書を手放そうとせずに、かえってますます強く抱きしめる。
なおもライヤが名を呼ぶと、微かに口を動かした。
気付いて急いで口元に耳を持っていく。
「……君は――……ばら……」
「何!?聞こえない!!」
「縛られるな――……。きみは……自由、だ……から…………」
もはや叫び声もでない口で、さらに何か呟いたが、もう、その言葉はライヤには届かなかった。
ライヤもまた、何度もハンスの名を叫んだが、それも、ハンスには届かなかった。




